Interview by Riddim
“グラディ”アンダーソンのピアノ・アルバム『カリビアン・ブリーズ』が31年という長い時を経てついにアナログ化された。このアルバムのエグゼクティブであり、80年代初めにジャマイカを舞台にした映画『Rockers』の日本配給を行い、1984年から始まったジャマイカ詣でが高じて90年代にはジャマイカの大人気アーティスト、スリラーUのマネージメントやプロデュースなど、当時としては異色の体験をしてきた石井志津男に、このアルバム制作の裏話を聞いた。
●なぜ、わざわざジャマイカまで行ってジャマイカ人のアルバムを作ることになったんですか?
石井志津男(以下、EC):このグラディのアルバムを作る3年前だけど、「アンダー・ミ・スレンテン」で世界的なヒットを出したウエイン・スミスのシングルを、Men’s BIGIのためにレコーディングして、それ以降もキングストンに行ってクリスマス・アルバムを作ったり、Mute Beatの『DUB WISE』というリミックス・アルバムのためにKing Tubbyに制作を頼んだり、オーガスタス・パブロ、バニー・ウエィラー、フランキー・ポール、デニス・ブラウン、ボブ・アンディ、マイティ・ダイアモンズとかのライセンスのレゲエ・アルバムは10枚くらい出していたし、マイティ・ダイアモンズは来日させて野音ライブをレコーディングして発売してた。日本人ものは、イギリスのフォノグラムでデヴューしたSALON MUSICというデュオやMute Beatをレコーディングしてたから、自然にその流れだね。
●そうは言ってもジャマイカにもたくさんのアーティストがいます。なぜグラディに決めたんですか?
EC:その時はすでにグラディの才能に気づいていて『Don’t Look Back』というアルバムと、ハリー・ムーディーの『カリビアン・サンセット(原題:It May Sound Silly)』という2枚を日本でリリースしていたし、もっというとグラディを来日までさせてGladdy meets Mute Beatというコンサートも大盛況のうちに終えていた。
そのころは手紙が2週間くらいかかるんだけど、オーダスタス・パブロとグラディの2人とは手紙でやりとりしていて、キングストンに行ったら必ずグラディとは会うし、かなり仲良しになっていた。とにかくアルバムを作りたいというグラディの強いプロポーズに負けたし、その頃はOVERHEATというレーベルがキャニオン・レコード内にあって年間何枚かを出す契約になってたから、俺も作りたかったということだね。
●なるほど、レコーディングしようというきっかけは何だったんですか?
EC:キングストンでよく泊まっていたホテルが、昔は荘園だった旧コートリー・ホテル。そこはプール・サイドにバーがあって、時間があるとグラディたちとそこでビールを飲みながらグダグダとジャマイカの昔話を聞いていたんだ。
夕方になるとラジオからアルトン・エリスとかデルロイ・ウイルソンのロックステディやジャマイカン・オールディーズがいい感じで流れてきて、グラディが「この曲は俺がやった、この曲もこの曲も」とか言い始めて、それでも半分は嘘だろうとか思いながらもアルバムを作りたいねって話になったんだ。まあ、いい曲とビールで話が盛り上がったってことだね。
でも始まるのはそれから3年くらいかかったね。
スタジオは、グラディが一番いいタフゴングを使いたいと言うし、というか打ち込み旋風が吹き荒れていてJammy’sの一人勝ちみたいな時代。だからもうスタジオから生ピアノが無くなってて、実際に探してもタフゴングにしか無かったんだ。グラディは、とにかくアルバムを作りたいからローランドでもいいって言うんだけど、俺はどうしても生ピアノで作りたかった。ミュージシャンは全部グラディが決めて、ホーンのリクエストだけは俺がして。
その頃は、暗くなってハーフウェイ・トゥリーのスケートランドの広場に行くと、灯りもない暗闇の中に20人くらいがうろうろしてて、最初はちょっと怖くておそるおそる行くんだけど、マイティ・ダイアモンズのバニーとかグレゴリィ・アイザックスとかが普通に突っ立ってるんだよ。
そこで「明日どこそこのスタジオに来てくれ」って約束するとちゃんと現れる。
まだ電話が全家庭になかったから、そこが情報交換の場で、メッセンジャーボーイ的な若いやつに「サックスのディーン・フレイザーに今夜9時にタフゴングに来るように」って伝言を頼むと、そいつも歩いて暗闇に消えていくんだけど、ちゃんとナンボ・ロビンソン(トロンボーン)まで一緒に現れるっていうそんな時代だった。