Text by “CB” Ishii Photo by Bryce Kanights
14年の10月、Bryceが来日した。彼の話を聞けばThrasherなどサンフランシスコのスケート・シーンがよく分かる。
●簡単なプロフィールをお願いします。
Bryce Kanights (以下、B): 生まれも育ちもサンフランシスコです。当時はイタリア人、日本人、中国人、ロシア人と色々な人種が上手く住んでいるクールな都市だったね。僕はカストロというエリアで育ったんだけど、今みたいなゲイのメッカになる前の話しだ。アイリッシュの肉屋やイタリア人の靴屋など個人経営のお店が沢山並んでいたエリアだったけど、ゲイの人達が土地を買い占める様になってからはファミリービジネスでやっていたお店がだんだんと引っ越していく様になったんだよ。僕の父は趣味で写真を撮っていて家の中にはカメラやフィルムが沢山あった。だから僕も自然にアートやフォトグラフィーに興味を持ち始めた。スケートボード雑誌を見ていて卒業記念にカメラが欲しいと頼んだら、中古のNIKONのカメラを貰えたんだ。その頃はHarvey Milkという男がやっていたカメラ屋でフィルムを買っていたんだけど、彼は後にサンフランシスコのゲイ・ムーブメントのコミュニティリーダーになって市議会議員にまでなったんだ。だけど当時の市長と共に市庁舎で暗殺されてしまうんだけどね。12歳の時にスケートを始めて14歳の時から写真を撮り始めて、それからはどこにスケートへ行くにもカメラを持っていくようになってTommy Guerreroや彼のお兄さんのTony Guerreroなど、友達を撮り始めた。Tonyは僕と同い年だよ。
●今回の来日の目的は?

B:僕のフォトグラフィー歴30周年を記念してFTCでフォトショウをやる為に来ました。僕にとってスケートボードとフォトグラフィーは、僕にこの職を与えてくれたものだから、その写真を色んな人に見てもらいたいんだ。フォトショウのタイトル”Renegades and Roll Models”の意味は、僕にとってのスケートボーダーを現しているんだ。世界中のスケーターたちは、スケーターでなければ誰も見向きもしない建築物のカーブやレッジを常に違う角度から見ていて、ここでスケートが出来そうだなと考えている。Renegades(無法者)っていうのは僕たちの人生の有様であって、意味としては僕らはそこで滑ることに許可を得たりしない。街にいる鳩だって許可なんか得てるわけじゃない。だからスケートするべきであってたとえ怒られようが最後には許してもらう方がいいわけだ。だからRenegadesっていうのは特別じゃなくてナチュラルなことなんだ(笑) 。Roll Model(手本という意、正しくはRoleだがフィルムだからRollを当て字にしている)というのはアマチュアであろうがプロスケーターであろうがネットや雑誌に載ってキッズ達に尊敬されている。だから僕たちはアウトローでありスターであるんだ。実際はこのショウは3年もやっているんだけどFTCのオーナーのKentが日本でショウをしないかと持ちかけてくれたことがきっかけだよ。僕はこれが3回目の来日だけど戻って来れてとても嬉しいよ。渋谷は2回目だ。
それと、日本の文化やお互いを尊敬し合える人種というのはとてもクールだと思う。日本人であることを誇りに思うべきだよ。
●ありがとうございます!
B:それ以外では友人でFelemのオーナーの剛と会うことも目的の一つだよ。ここ2日間は山奥でプライベート・ボールを作っている人の所へ連れて行ってもらって日本の自然に触れられた。
●以前はプロスケーターだったんですよね?どのカンパニーにサポートされていたんですか?
B:そう、86年まではMadrid Skateboardsからアマチュア・スポンサーを受けて、コンテストやデモに連れて行ってもらったりしたんだけど、そのあとはSchmitt Stixに移って、そこで4年間世界中を飛び回ってデモをしてプロとして活動した。リタイアしたのは90年かな?キックフリップ等のストリート・スケーティングが流行りだしてMike Carroll, Jovante Turner, Henry Sanchez等の新しいジェネレーションが出てきた頃に、僕はフォトグラフィーでキャリアを築こうと考えてThrasher Magazineで働き始めたんだ。そこでプロをリタイアしようと思ってたんだけどDogtown Skateboardsがサンフランシスコに一瞬移ってきた時期があって、Thrasherのオーナーの故Fausto Vitelloから「DogtownのJim Muirをヘルプしてあげなよ
と言われて、君は名前があるから何枚かシグネチャー・デッキをリリースしようという事になり1年間に3枚デッキをリリースしたんだ。
●それは何年頃のことですか?
B:91年~92年だよ。
●その時はプロスケーターであり、プロのフォトグラファーでもあったということですね?じゃあツアーやデモに出かけた時はスケートもして写真も撮ったということですよね??僕の先輩でスケート友達のBoardkill編集長の小関さんがあなたはプロスケーターとプロフォトグラファーの2つのキャリアを同時に行っていたパイオニアだと教えてくれました。
B:その通りだよ(笑)。僕はプロになっても写真を撮り続けていたからね。忙しかったよ(笑)
●影響を受けたカメラマンはいますか?
B:Craig Stecyk。彼には常に影響を受けてきた。彼は傑出したフォトグラファーでTony AlvaやJay AdamsなどのDogtownのスケーターを撮っていた。彼らのライフスタイルやスケートのフォト、つまりDogtownのストーリーなどが今でも注目さているのは全てCraig Stecykのレベルの高い写真によるものだと思う。あとは同じくDogtownやPunkやHip Hopを撮ってきたGlen E. Friedmanにも大きな影響を受けた。ローカルではTed Terrebonneというサンフランシスコ・ベイエリアのフォトグラファーでSkateboarder Magazineの写真を撮っていた人かな。当時僕らは若過ぎて運転出来なかったから、そのTedがパークやスポットに連れて行ってくれてたから、かわりにTedが撮影している時にフラッシュ・ライトを手で持ちながら写真を学んだんだ。だからTedからも影響を受けてるね。
●それではThrasherにはどのような経緯で働くことになったのですか?
B:僕がまだ学生でフォトグラフィーを勉強していた83年、当時サンフランシスコにあったRainbow SkatesっていうショップにいたらThrasherの発行人だったKevin Thatcherが偶然やって来て、何枚か写真を見せたら気に入ってくれたんだ。まだその時、Thrasherは発行してから2年しか経っていなかった。「この写真をThrasherに載せてもいいか?
って聞かれて、「もちろんです!
って答えたよ(笑)。写真が掲載されて何ヵ月かしたら、「Thrasherで働きながら勉強してみないか?
って言われて暗室を使って写真を焼いたり、さらにはページのレイアウトのデザインもやったりして、なんて言うか、、彼らと成長したって感じだね。出版業と写真業を学んだだけじゃなくて、シルクスクリーンでTシャツを刷ったり、床をモップ掛けしたり、、つまり全部だってことだ。だからThrasherを育てるのを手伝ったんだ。83年~96年まで13年間働いて、その時はフルタイムで働きながらプロスケーターでもあったんだ(笑)。91年から96年まではフォト・エディターとして働き、僕の後にLuke Ogdenがフォトエディターになるんだ。
●ではBryceの弟子の様な人はいますか?その人が後に有名になったとかありますか?
B:うん、一緒にいたわけではないから弟子という感じではないんだけどJody Morrisというカナダのトロントに住んでいるフォトグラファーの面倒はよく見たよ。彼はよく僕にフィルムを送ってきたから、それを僕が処理したコンタクトシートを見ながら電話をしたんだ。どの写真が良かったか?この写真はここにフラッシュがもっと必要だとかを伝えてね。まだEメールもない時代だったからね。それでまた数ヵ月後にフィルムが送られてくると上達してるんだ。
●Jodyはスケートのフォトグラファーですか?
B:スケートもスノーも撮っているね。あとはTony Hawkの写真を多く撮っているよ。ThrasherとTransworldのフォトグラファーとしても働いていたし。あとはTobin YellandとかLuke Ogdenも少し教えたりしたかな。Lukeはルームメートだった時期もあったし。何人かには教えたね。僕はみんなをアーティストとして育て上げたいと思っていたし。