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Bryce Kanights

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Text by “CB” Ishii Photo by Bryce Kanights

14年の10月、Bryceが来日した。彼の話を聞けばThrasherなどサンフランシスコのスケート・シーンがよく分かる。

●簡単なプロフィールをお願いします。

Bryce Kanights (以下、B): 生まれも育ちもサンフランシスコです。当時はイタリア人、日本人、中国人、ロシア人と色々な人種が上手く住んでいるクールな都市だったね。僕はカストロというエリアで育ったんだけど、今みたいなゲイのメッカになる前の話しだ。アイリッシュの肉屋やイタリア人の靴屋など個人経営のお店が沢山並んでいたエリアだったけど、ゲイの人達が土地を買い占める様になってからはファミリービジネスでやっていたお店がだんだんと引っ越していく様になったんだよ。僕の父は趣味で写真を撮っていて家の中にはカメラやフィルムが沢山あった。だから僕も自然にアートやフォトグラフィーに興味を持ち始めた。スケートボード雑誌を見ていて卒業記念にカメラが欲しいと頼んだら、中古のNIKONのカメラを貰えたんだ。その頃はHarvey Milkという男がやっていたカメラ屋でフィルムを買っていたんだけど、彼は後にサンフランシスコのゲイ・ムーブメントのコミュニティリーダーになって市議会議員にまでなったんだ。だけど当時の市長と共に市庁舎で暗殺されてしまうんだけどね。12歳の時にスケートを始めて14歳の時から写真を撮り始めて、それからはどこにスケートへ行くにもカメラを持っていくようになってTommy Guerreroや彼のお兄さんのTony Guerreroなど、友達を撮り始めた。Tonyは僕と同い年だよ。

●今回の来日の目的は?

B:僕のフォトグラフィー歴30周年を記念してFTCでフォトショウをやる為に来ました。僕にとってスケートボードとフォトグラフィーは、僕にこの職を与えてくれたものだから、その写真を色んな人に見てもらいたいんだ。フォトショウのタイトル”Renegades and Roll Models”の意味は、僕にとってのスケートボーダーを現しているんだ。世界中のスケーターたちは、スケーターでなければ誰も見向きもしない建築物のカーブやレッジを常に違う角度から見ていて、ここでスケートが出来そうだなと考えている。Renegades(無法者)っていうのは僕たちの人生の有様であって、意味としては僕らはそこで滑ることに許可を得たりしない。街にいる鳩だって許可なんか得てるわけじゃない。だからスケートするべきであってたとえ怒られようが最後には許してもらう方がいいわけだ。だからRenegadesっていうのは特別じゃなくてナチュラルなことなんだ(笑) 。Roll Model(手本という意、正しくはRoleだがフィルムだからRollを当て字にしている)というのはアマチュアであろうがプロスケーターであろうがネットや雑誌に載ってキッズ達に尊敬されている。だから僕たちはアウトローでありスターであるんだ。実際はこのショウは3年もやっているんだけどFTCのオーナーのKentが日本でショウをしないかと持ちかけてくれたことがきっかけだよ。僕はこれが3回目の来日だけど戻って来れてとても嬉しいよ。渋谷は2回目だ。
それと、日本の文化やお互いを尊敬し合える人種というのはとてもクールだと思う。日本人であることを誇りに思うべきだよ。

●ありがとうございます!

B:それ以外では友人でFelemのオーナーの剛と会うことも目的の一つだよ。ここ2日間は山奥でプライベート・ボールを作っている人の所へ連れて行ってもらって日本の自然に触れられた。

●以前はプロスケーターだったんですよね?どのカンパニーにサポートされていたんですか?

B:そう、86年まではMadrid Skateboardsからアマチュア・スポンサーを受けて、コンテストやデモに連れて行ってもらったりしたんだけど、そのあとはSchmitt Stixに移って、そこで4年間世界中を飛び回ってデモをしてプロとして活動した。リタイアしたのは90年かな?キックフリップ等のストリート・スケーティングが流行りだしてMike Carroll, Jovante Turner, Henry Sanchez等の新しいジェネレーションが出てきた頃に、僕はフォトグラフィーでキャリアを築こうと考えてThrasher Magazineで働き始めたんだ。そこでプロをリタイアしようと思ってたんだけどDogtown Skateboardsがサンフランシスコに一瞬移ってきた時期があって、Thrasherのオーナーの故Fausto Vitelloから「DogtownのJim Muirをヘルプしてあげなよ
と言われて、君は名前があるから何枚かシグネチャー・デッキをリリースしようという事になり1年間に3枚デッキをリリースしたんだ。

●それは何年頃のことですか?

B:91年~92年だよ。

●その時はプロスケーターであり、プロのフォトグラファーでもあったということですね?じゃあツアーやデモに出かけた時はスケートもして写真も撮ったということですよね??僕の先輩でスケート友達のBoardkill編集長の小関さんがあなたはプロスケーターとプロフォトグラファーの2つのキャリアを同時に行っていたパイオニアだと教えてくれました。

B:その通りだよ(笑)。僕はプロになっても写真を撮り続けていたからね。忙しかったよ(笑)

●影響を受けたカメラマンはいますか?

B:Craig Stecyk。彼には常に影響を受けてきた。彼は傑出したフォトグラファーでTony AlvaやJay AdamsなどのDogtownのスケーターを撮っていた。彼らのライフスタイルやスケートのフォト、つまりDogtownのストーリーなどが今でも注目さているのは全てCraig Stecykのレベルの高い写真によるものだと思う。あとは同じくDogtownやPunkやHip Hopを撮ってきたGlen E. Friedmanにも大きな影響を受けた。ローカルではTed Terrebonneというサンフランシスコ・ベイエリアのフォトグラファーでSkateboarder Magazineの写真を撮っていた人かな。当時僕らは若過ぎて運転出来なかったから、そのTedがパークやスポットに連れて行ってくれてたから、かわりにTedが撮影している時にフラッシュ・ライトを手で持ちながら写真を学んだんだ。だからTedからも影響を受けてるね。

●それではThrasherにはどのような経緯で働くことになったのですか?

B:僕がまだ学生でフォトグラフィーを勉強していた83年、当時サンフランシスコにあったRainbow SkatesっていうショップにいたらThrasherの発行人だったKevin Thatcherが偶然やって来て、何枚か写真を見せたら気に入ってくれたんだ。まだその時、Thrasherは発行してから2年しか経っていなかった。「この写真をThrasherに載せてもいいか?
って聞かれて、「もちろんです!
って答えたよ(笑)。写真が掲載されて何ヵ月かしたら、「Thrasherで働きながら勉強してみないか?
って言われて暗室を使って写真を焼いたり、さらにはページのレイアウトのデザインもやったりして、なんて言うか、、彼らと成長したって感じだね。出版業と写真業を学んだだけじゃなくて、シルクスクリーンでTシャツを刷ったり、床をモップ掛けしたり、、つまり全部だってことだ。だからThrasherを育てるのを手伝ったんだ。83年~96年まで13年間働いて、その時はフルタイムで働きながらプロスケーターでもあったんだ(笑)。91年から96年まではフォト・エディターとして働き、僕の後にLuke Ogdenがフォトエディターになるんだ。

●ではBryceの弟子の様な人はいますか?その人が後に有名になったとかありますか?

B:うん、一緒にいたわけではないから弟子という感じではないんだけどJody Morrisというカナダのトロントに住んでいるフォトグラファーの面倒はよく見たよ。彼はよく僕にフィルムを送ってきたから、それを僕が処理したコンタクトシートを見ながら電話をしたんだ。どの写真が良かったか?この写真はここにフラッシュがもっと必要だとかを伝えてね。まだEメールもない時代だったからね。それでまた数ヵ月後にフィルムが送られてくると上達してるんだ。

●Jodyはスケートのフォトグラファーですか?

B:スケートもスノーも撮っているね。あとはTony Hawkの写真を多く撮っているよ。ThrasherとTransworldのフォトグラファーとしても働いていたし。あとはTobin YellandとかLuke Ogdenも少し教えたりしたかな。Lukeはルームメートだった時期もあったし。何人かには教えたね。僕はみんなをアーティストとして育て上げたいと思っていたし。

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ACKEE & SALTFISH

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Text & Photo by Shizuo Ishii

どうやらAckee & SaltfishがジャマイカのあっちこっちのフェスやLiveで大ウケらしい。実は20年以上前に初めて彼らに出会ったのもここキングストンだった。その時も既に島では話題の主だったが、さて今回は?

●去年も一度来てるんだよね? 今回のジャマイカはいつから来ているの?

Saltfish(以下、S):今回は14年末の12月4日に着いたんです。

Ackee (以下、A):今回の前が2014年の1月に来たんですよ。僕たちは長いことジャマイカを留守にしていました。

S:去年来た時Rebel Saluteに出たんです。

●それはYouTubeで見たよ。あのQueen IfricaとのRebel Saluteはどういう繋がりだったの。

A:Kingston Dub Clubに遊びに行ったらQueen Ifricaがいて「覚えてる?」「久しぶりです」みたいな感じから。

S:「Rebel Saluteに行くんでしょ?」って言われて「いや、そんな予定は無いしチケットも無い」って言ったら、「チケットなんかいらないから、電話かけてきなさい」みたいな感じで。アーティスト・パスを貰って、車から全部セットしてくれて。(メジャー)マックレルと話しとって「だったら遠く離れた日本から来たんだから1曲ちょっと歌わせてもらえませんかってQueen Ifricaに頭下げてこいよ」って言われて。「だったら私の近くにいなさい。私の時間を特別にあげるから」って会場で言われて、彼女がステージに呼んでくれて「日本人のAckee & Saltfishよ、みなさん聴いて! なんでAckee & Saltfishっていうか不思議でしょ、彼らが出るよ」って言って紹介してもらって。で、歌ってウケて「あ〜、良かった良かった」って。

A:あれが凄い宣伝効果ありましたよ。

●ウケてたね。

A:途中で引き上げても良かったくらいウケてましたね。押し切っちゃいましたけど。

S:あれ「Jamaican Gal pickney」ですからね、マックレルと作った。

A:その時に「Go to Thru」にするか「Jamaican Gal pickney」にするかどっちかみたいなのがあって。

S:実は振りがあったんですよ、Queen Ifricaの曲「straight」って分ります? 要するに性のstraight man、ああもうその振りからいったら「Go Thru」よりもギャルネタだなっていうことで、「僕たちは日本から来たけどstraight manだからジャマイカのstraight womanが好きなんです」って言ってそれで「Jamaican Gal Pickney」。

●それで、つかんで。

S:その最初の喋りこそが客をつかむ為には凄く大事で、落語じゃないけど枕があって。

A:でもあれは本当に感謝してます。その時に5ヶ月間位いたのかな。

●そして今回また来て、それはStings出演が目的で?出るのはもう決まってたの?

S:うん、決まってた。

●では去年来たきっかけとか目的っていうのは何だったわけ。割と長く来ようと思ったわけでしょう。

A:僕Ackeeの意見で、Saltfishの意見は別として、日本で色んなアルバムを出して結構政治的なアルバムも出して色んな事をやったので、いっぺん原点回帰じゃないですけど、レゲエを知ったジャマイカに戻ってもういっぺんやれる事をやってみたいなっていうのが最初の目的ですかね。ひねくれた事はなんもなく、日本ではある程度やったし、それはちょっと置いておいてジャマイカでやってみようかなっていう、そういった感じです。

S:僕たちがやれる事をやる。これだけ間を空けてたからどうかなと思いましたよ。

●俺がアキ・ソルと最初に会ったのって1991年だったかな?その頃は俺もShabba Ranksのコンサートを日本でやったりしていて、それでプロデューサーのスペシャリスト(C. Dilon)が言ってたんだよ。あいつらどう思うか?たしか声がかかってたんだよね。マネージメントしようと。

A:はい、かかってました。

S:サインしたよ。

●えっ、したのかアレ。

A:だけど世界的なことでね、ちょっとなんか色々ややこしい契約で、どうしようかなと思って止めました。

S:やっときゃ良かったかな。

●やったら面白かったね。見たかったな。

S:うんうん。

●実は急に一昨日セント・アンまでRebel Saluteを見に行ってきたんだ。アルボロジーのクルーのバスの後について行ってパスもらってたから、プロデューサーのSP(スペシャリスト)にも会ったよ。
あの当時、彼がやってたShabba、リッチー・スティーブンス、パトラ、コブラ、バウンティ・キラ、その全員のショーを次々に俺は日本でやったからね。

A:じゃあ繋がり長いですね。

●だからまあ、付かず離れず20年以上かな。俺はRebel Saluteにレンタカーで、SPは目立たない乗用車で、バンドはバスで行ってゲートの前で待ち合わせしたんだよ。余分な話しだから後はカットするけどさ。

S:そのスペシャリストはねWackiesのブルワッキーの息子さんのレノックスっていう人がブロンクスでナオキ(Nahki)君とかスーパー・キャットとかシャインヘッドとかが着てたリネンのスーツのお店をやっていて、その友達がスペシャリストなんだけど、そのレノックスをサブ(ソニー落合)さんから紹介してもらって、僕たちがその洋服屋でバイトしとって。
僕たちはアイロンかけたり、ボタン直したりサイズ直ししたりしておった時にスペシャリストが来て「あれ、こいつらレゲエやってるAckee & Saltfishだ、こいつら押さえるべきだ、ちょっとサインしろ」って言われて連れて行かれて。

S:マンハッタンのSONY(Music)の一番上の階まで挨拶に連れて行かれて、そこで歌わされて、下に丁度シャバの事務所(Shang)があって。

A:「お前、歳いくつじゃい」って、23、24だっけ?

S:25歳くらいだったかな、23階で止まったから「とりあえず23歳って言え」って。

●アハハ、彼は他人と違う発想とコネクションを持ってるやつだから面白い。

A:ちょっと違うんですよね動きが、本当に。

S:最初会った時に「ちょっとDee Jayやってみろ」って、やったら「スーパー・キャットはもうやめろ、その歌い方もやめろ、これにしろ」って言って。

A:ケツを繋ぐ韻の踏み方をしてたんですよけど「逆でできるか?」って回転がもの凄い速いんですよ。

S:日本人だから僕たちが直接行くって言ったら「ダメだ、お前らが直接話しをしたら俺が出る立場が無くなるから、それはダメだ」って言われて一緒に行って、その担当の前で俺たちが歌って、それでその後サインしてっていう話しですよ。
その時はマンハッタンのShangレコードの事務所だったね。

●それはShabbaで大成功した後だよね。俺がSPから聞いたのはそのずっと前だったはず。

S:たしか成功した後でShangのマンハッタンの事務所にバウンティ・キラの写真があって。

A:こいつが今からジャマイカで凄い事になるぞって言ってた。

S: その事務所から一緒にSONYの本社ビルに行くんだけど、その前に「ちょっとついてこい」ってダウンタウンに行って「この服着ろ」って、上から下まで、靴から鞄まで揃えてもらって、「よし行くぞ」って、それでSONYのあの事務所に挨拶しに行ったの。

A:凄かったですよ。これでひっかかったんだな、みんなは、と思いながら。

●いやもうShabbaだってベンツ買ってもらってた気がするね、あれがギャラなんだろうなって想像してたよ。そこ(ニューキングストン)のタワーに事務所があって、俺も最初はShabbaとコンサートの契約するのも手探りですっごい大変だった。電話して直接行くんだけど、段々分ってきたら、“バブジ“グリンジっていう女性で大臣やったりなんかする大物も関係してるわけ。

A:はいはい。

●だから俺、SPとバブジの家も行った事あるよ。何度もやってるうちにバブジも俺には、途中からちゃんと対応してくれたけど。

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Carlton and the Shoes -カールトン・アンド・ザ・シューズ

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Text & Photo by Shizuo Ishii

 Carlton & the Shoesの来日が決定している。もはや四半世紀に及ぶ旧知の間柄である彼の家は、マイケル・マンリー空港からKingston市内に向かう途中のマウンテンヴューにある。だから前を通る度に何となく声をかけるのが、いつもの俺の流儀。今回はGladdy (Anderson)の病気見舞いに突然やって来たのだが、今回も一声かけて来日の決意(?)を聞いてみるか。

 やはりジャマイカはクソ暑い。空港で借りたショックアブソーバーがへたったレンタカーのエアコンをフルにして、ラジオはフルヴォリュームでIRIE-FM、アクセルを思いっきりベタ踏みすれば、いつものKingstonスタイルのドライブが蘇るってもんだ。ゴールド免許が一気に12点減点になってしまった65キロ・オーバーの違反も,こっちじゃ対象外だぜ、なんて言いつつ海岸線をぶっ飛ばせば、後ろについて来るクルマはもう見当たらない。
 クラクションを二度鳴らしてから、ドアに向かってデカい声で「カ〜ルト〜ン〜!!!」と呼んでみる。いつも通りゆっくりと「オー、イシイ」と出てきた。どうやら上半身は裸だったらしくシャツに腕を通しながらの登場だ。とても元気そうじゃないか。

Carlton & the Shoesはレゲエ、SKA、ロック・ステディ好きだけではなく、レアグルーブ・ファンまでをも虜にして、デヴューから50年近く経った現在でもその人気は高い。今でもクラブでは「Love me Forever」や「Give Me Little More」がプレイされているのはご存知の通り。
 少しばかり手前味噌なのだが、彼への大きな再評価は92年のOVERHEATレコードからの『This Heart of Mine』をCDで再発したあたりだっただろうか。その後本家QUALITYレコードからそのアナログの再発が続き、95年にはやはりOVERHEATから13年ぶりで3rd.アルバム『Sweet Feeling』を、そして7年後の2002年には4th.アルバムの『Music For Lover』を出した。てな腐れ縁でCarltonとの付き合いも、もはや四半世紀になってしまった。

●今さらなんだけどさ、軽くインタヴューするよ。日本にはずっとCarltonの独創的な曲、コーラス、そしてファルセットにシビレてる人が多いんだけど、新しいファンもいるからね、では歌い始めたのはいつ?

Carlton Manning(以下、C): 生まれてからず~っと歌ってるさ。歌うのが大好きでね。母も歌が上手くて教会でシンガーとして歌ってたからね。

●Carltonはギタリストとしてもソングライターとしても、他のジャマイカのアーティストと比べると、とてもオリジナルなセンスをもっているよね?

C: そうさ、Versatile (多才)でなければいけない。色々できないとね。カリプソ、レゲエ、R&B とか他の音楽の形態もね。もちろんロック・ステディがメインだけど。いいミュージシャンというものは色々な音楽に通じていないとダメさ。例えば、アルバムが12曲収録だとするだろ。全曲ロック・ステディだとする。それじゃあ売れるけど限定されるかもしれないし、聴いた人も飽きるかもしれない。だいたいCDを買う時は、特別な1曲を聴きたくて買うわけだろ。だから、俺は収録曲がバラエティーに富んでいるようにするんだ。例えば、4~5曲がロック・ステディで、2曲スカ、1~2曲R&B、1曲インストゥルメンタルといった具合にね。

●いつからギターを弾くようになったの?

C:20歳ぐらいから弾き始めたんだ。それまでもずっと歌っていたんだけど、ギターは作曲するのにとても役立つんだ。そしてギターは曲のリディムを作るのに助けになる。ある時は、リズムとギターを先にレコーディングして後で声を乗せるようにしたりね。自分が曲を作るときは常にギターだね。歌詞が先にある場合はギターを使ってその歌詞に合うようにリディムを奏でるようにしたりね。リディムが先の場合はそれに合わせて歌詞をその後に書いたりもしていたよ。

●どうしてギターを始めることになったんですか?

C:楽器を学ぶことから得ることは多いんだ。タイミングやノートやコード理論を理解するようになるからね。それでいいハーモニーを生み出せるようになる。ギターのコードはハーモニーだからね。タイミングだったり、技術だったり、楽器を演奏するには技術が必要だ。ギターもそうさ。どんな楽器も色々な技術を得ることで音楽に必要なことが理解できるんだ。

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RANKIN TAXI

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Interview by Norie Okabe(岡部徳枝)

レゲエにハマって30余年。2014年、自ら運営するサウンドシステムTAXI Hi-Fiの30周年を迎えた“いい音を作るいい男”RANKIN TAXIが、遂に10枚目となるアルバムを完成させた。全国津々浦々のライブ会場でみんなを笑顔にさせているあの名曲「CCPP」も初CD化として収録。鋭い視点とあたたかい心、立ち向かう力、愛する力、その人間性が透けて見える素晴らしい内容。RANKIN TAXIがますます大好きになる全14曲のラフガイドです。

●前作『死ぬまで生きる』が2007年リリースなので、8年ぶりのアルバムですか。

RANKIN TAXI(以下、R):そうなんだよ。還暦アルバムを出すといって2年遅れちゃったね。もう62歳ですから。

●8年となると、その間いろいろあったでしょうね。

R:まぁ、サボってるだけですけどね。お袋が亡くなって、親父が亡くなって、プロダクションを自分で引き受けたりとか。いろいろ勉強になりました。

●2年前に出す予定だったということは、その前から作っていたということですか?

R:アイデアはずっとあったね。でも、追い詰めてくれる人がいないとまとまらないからさ。いつまでも空想にふけっちゃう。俺は、言われないことはやらない。言われたことをしっかりやる。だから3日後にプリプロしようとか、スケジュールを立ててくれる人が必要なんだけど、ここ数年そういう人がいなかったからさ。自分でやることにしました。好きで好きでたまらないからどんどん作っていくってのもありだけど、自分を少しずつ追いつめて作っていくっていう。そのくらいだらしなくてもいいかなと思ってさ。音楽まわりにノイズがあるからおもしろいってのもあるしね。ノイズっていうのは、よけいなことって意味だけど、たとえば親父の見舞いに行くとかさ、生活に追われたりとか、言い訳ができるってことなんだけど。

●そういう中から生まれたのが今回のアルバム。

R:この何年間考えていたことだね。生きるってのは楽しむことと戦うこと。お酒、セックス、音楽。それと政治。両方あってこそのもの。どちらかだけじゃダメなんだ。言ってみれば、「政治」と「性事」。そういうアルバムになってしまいました。

●東日本大震災があった2011年以降の歌は、特に政治ネタが目立ったように感じました。

R:そのときの関心事を歌にしていくというのは前から変わらないことだけどね。内容はあくまでそのときのひらめきなんだけど、特に原発関係は自然と出てきちゃうよね。でも、説教くさいことは似合わないからさ。いくらコーティングしても聞くほうも嫌になっちゃうだろうし、エンターテイメントとして成り立たせたいですね。といって、直接的なメッセージも必要。切り込んでいくようなストレートパンチがないと。

●RANKINさんの曲は、最終的に「楽しくやろうぜ」とか、「みんなで生きていこうぜ」っていうポジティブなところに辿り着くんですよね。

R:やっぱり聞いていて、元気が出るとか、勇気が湧いて来るとか、笑えるとか、そういうポジティブな感情が胸に湧きあがってくることが大事だと思うんだよね。

●リリックを書くときは、そこを意識するんですか?

R:がーっと勢いで書いているときは、そんなこと考えないけど、直すときに意識するよね。見直してみて、つまんねえなって感じたら手を加えていく。風営法のことを歌った「FIRE ROCK」とかも、ああいう歌は3分くらいでまとめるのがいいのかなって。やっぱり7インチに入るサイズだよ、長いとだれちゃう。レゲエ的には30秒とか1分が勝負。そういうふうに考えて作っているつもり。そのへんの短距離的な集約力、ジャンプ力が足りなかったかもしれないな。年だね(笑)

●そんな(笑)。フックがあって聞き応えがある曲ばかりです。

R:そういういやらしい作戦を立てるのはうまいの。それは自分でもわかる(笑)。基本いい人だから、いい歌にするんだけど、運動神経がいいなっていう曲を作りたい。

●「FIRE ROCK」は、そう感じました。

R:もう少し弾みたかったんだけどさ。これは、オリジナルの「REAL ROCK」(リディム)とBPMが一緒なんだけど、ああいうブレイクビーツ風にすると同じBPMでも重たくなるんだな。スタジオワンのほうが弾んで聞こえるんだよ。「FIRE ROCK」は言うならヘヴィロックだね。不思議なもんだな。

●この曲では、「俺の逆鱗に触れてるぜ」と怒ってます。

R:“いつも心にFuck Police!”ですね。風営法に関しては、俺は議員会館に行ったりっていう政治的な動きはできてないけど、こういう意見なんだっていう心持を歌で表現しよう、と。“このクソオヤジ! バカヤロウ!”って言いたかったんだよ。そこは昔からずっと変わらない。転がる石は丸くなるっていうけど、あのオヤジたちを見ているととても丸くなれないな。人によるだろうけどさ、ダメだなって思っちゃう。だから、こいつらは俺たちのことをクソオヤジって思ってるんだなってヤツらにちゃんとわからせないと。

●「なんてったってマリファナ」も同じリディムですね。今更な質問ですけど、そもそもRANKINさんがマリファナのことを歌うのは、どんな思いからですか?

R:今の日本社会のすべての仕組みの中に、アメリカという国が潜んでいるわけで。大麻取締法もその1つで、つまり騙されている、操作されているってこと。その構造をひっぺがしていくと、日本政府の言っていたことが全部ひっくり返っちゃう。嘘をつき続けているわけだからさ。それを暴いて見せていって逆鱗に触れるってことが一番いいんだ。毒を塗りこむってことですね。すべてのところにアメリカの黒い影が潜んでいて、奴隷のように従属している官僚や政治家がいるってことをちゃんと言っていかないといけない。どんなアートのジャンルでも、気づいた人がどんどん言うようにしないと。それがバビロンを打ち倒す、自由を勝ち取る道だと思うからね。

●「誇り高く生きるために Pt.1」でも、“大好きで大嫌いなアメリカ”と歌われてますね。

R:6年前にPlatinum(Entertainment)から出したものだね。当時、大学生とか相撲とりが大麻で捕まってさ、“大麻汚染”って言葉があふれていたでしょ。それはないぞ!ってことで歌にしようと思ったんだけど、メジャーから出る作品だから難しい、と。で、いろいろ考えて日米関係を歌うってところに辿り着いた。大麻の歌だとレゲエ的にはわかりやすいと思ったけど、逆によけい危険な歌になったという。

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Stepper Takes The Taxi

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Interview & Photo by Shizuo Ishii

世界最強のRiddimデュオ、スライ&ロビーが牽引するTaxi Gangの一員としてサックスを担当するフランス人、Stepperにフランスのレゲエ事情と彼のソロアルバムについて聞いた。なんと日本はもう4回目だという。

●10年以上前のことですが、フランスに住んでいた娘がNutteaの「Urban Voodo」と言うCDを買って来てくれて、声の良さですごくハマりました。気がついたらUB40とも一緒にレコーディングしているアーティストでした。その時一緒にDJものも何枚か買って来てくれたんですが、フランス語のソフトさとDJのフロウが合わない気がしていたんですが、最近Youtubeを見てフランスの若いレゲエアーティストが素晴らしいと思っています。もちろん、ほとんど知識がないんですが、例えばMarina P,  Soom T,  Naamanなんていう若いアーティストはとってもウマいし、レゲエを好きなことがビシビシ伝わってくる。あなたが勧めるフランス人アーティストはいますか?

Stepper(以下、S) : そうですね、彼らがニュー・アーティストであることは間違いないです。他にももちろんいますが、やはりまだアンダーグラウンドなアーティストばかりです。先程ECが言っていたNutteaは10年以上前のマーケットでとてもビッグでした。次にPierpoljakというアーティストがジャマイカの数多くのアーティストと曲を作り、Tuff Gong Studio等でレコーディングをしてミリオン・ヒットを出したこともありました。

●それはSingerですかDeejayですか?

S : Singerです。Clive Huntがプロデュースして、僕もその時にジャマイカへ行き、初めて沢山のアーティストに出会えました。90年代後半の話しです。当時Pierpoljakは本当に売れたのでレゲエの枠だけでなくポップスのマーケットでも1位でした。彼に比べればMarina P,  Soom Tはアンダーグラウンドなアーティストです。だから彼らの音楽をTVやラジオで耳にする事はないですね。現場のダンスのサウンド・システムで聞く感じで、例えばNaamanなどはダンスに出かけた時にラバダブで出てきた彼を、そこで初めて知るという感じです。Nuttea、Pierpoljakたちがヒットした後はRaggasonicという2 Deejayが90年代にとてもビッグでした。彼らをプロデュースしていたのがFashion Recordsで昔働いていたMaximum SoundのFrenchieです。今はロンドンに住んでいる男です。

●あー!! 知ってます。90年代後半にキングストンでボロいクルマを買って長期滞在していたエンジニアですね。フランス人だからフレンチーだってスティーリー&クリーヴィに紹介されてKingstonで何度も会いました。たしかLukie Dのとてもいいアルバムを1枚プロデュースしていた記憶があります。

S : はい、沢山のアーティストをプロデュースしています。

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ANARCHYが有太マンの「福島」を聞く。

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Interview by ANARCHY

 早々に2ヶ月が経とうとしている、4年目の311。福島市の出版社から一冊の本、「福島 未来を切り拓く」が刊行された。
 320Pに溢れんばかりの想いの語り部は100名超。
 それは例えば福島県内外、国外の研究者と専門家。または、母や農家をはじめとした、唐突に未曾有の「核災」最前線に立たされた福島市民。そして、全国から食と農の復興のボランティアに福島を訪れた消費者代表としての、生協職員。
 それら多様な立場から語られた言葉を紡ぎ、県外では知ってるつもりで知らない、時に県民ですら見失いがちな、311前からそこにある「福島」のかたちが立体的に浮かびあがる。
著者は東京出身の平井有太(マン)。平井は2012年10月から福島に拠点を移し、食と農の復興事業に尽力しながら、ミュージシャンやアーティストの招聘を続け、意識の活性化を試みてきた。
 昨年11月に福島を訪問したANARCHYは、ライブはもちろん、映画「DANCHI NO YUME」上映、市民有志による哲学を軸とした討論会“てつがくカフェ”(以下、“てつカフェ”)参加、さらには被災地視察もした。
 その旧知のANARCHYが、著者平井に聞いた。

ANARCHY(以下、ア):考えさせられそう。でもこれ、まだ読めてないけど大丈夫ですか?

平井有太(以下、ひ):むしろそれが良くて。そもそも、読む読まない以前に興味を持ってもらって、手に取るまでのハードルが高いと考えて、今日お願いしました。

ア:もう一度、頭を「福島モード」入れなマズいですね。“てつカフェ”、みたいな。

ひ:あれは「無茶振りだったな」と思いつつ(笑)、でもやっぱり、あれくらいやって届くか、届かないか。それはヒップホップに関して、「今まで自分が何をやろうとしてきたか」って考えると、たぶん「ヒップホップを知らない層に、どう伝えるか」ということが大きくて。

ア:完全そうでしたね。

ひ:インタビューなんて、したことないでしょう?

ア:ないけど、楽しみになってきました(笑)。この本は、なんで書こうと思ったんですか?

ひ:福島で暮らした2年半と、あとは2011年の夏頃から福島との往復を繰り返し、福島のことを考え、文章を書いてきた時間を合わせた約1000日分、なかったことにはできないなと。

ア:どういう人たちに読んでもらいたくて、書こうと思ったんですか?

ひ:2つあって、一つは、福島に住んでる方々への、土地やここまでの経緯について、おさらいの意味を込めて。もう一つは県外、国外の、福島のことを知らない、考えていない人たちにどう福島のことを届けられるか。でも、この分厚さで、最初から「読めない」ってなっちゃうかな。

ア:「痛みの作文」(2008年、ポプラ社。ANARCHYの自伝)よりは絶対厚い(笑)。それに「痛みの作文」は字も大きいし、言葉も簡単すもんね。

ひ:でもこれも、「福島」とか「放射能」、「原発」とかって本の中では、かなり簡単な部類に入るはずで。

ア:これを読んで、知ってもらって、それぞれの気持ちを変えたい部分とかがあるんですか?

ひ:よく言ってるのは、ほんの少しでも、福島を「自分ごと」にしてもらいたい。人ごとでなく、遠いところで起きてることでなく、福島はすぐそこで起きてる、しかも自分自身もそれが起きてる一部であると。

ア:今までもそういう意識で動いている人はいたし、自分らも「そうしよう」と思ったじゃないですか。「これは人ごとじゃないぞ」って、オレも思った瞬間はあったし、ただ「オレらでどうしようもないな」って思う部分もたくさんあって、諦めた人もいっぱいいると思うんですよ。自分の生活もあったり、色んなこと考えながら、福島に対して「何ができるか」っていうのがわからない人の方が多かったんじゃないですかね。この本に書いてあることを知れたとしても、その一歩を踏み出せない人たち、いっぱいいると思う。そういう人たちは、どういう気分になればいいんですかね?

ひ:何もしないとしても、行って、見て、聞いて、という、よく言われることだけど、まずそれらがあると。

ア:オレらなんて東京にいるだけで、関西の友達から「放射能とか浴びまくってんちゃう、自分ら」って言われます。「水呑めへんのちゃう」とか、「料理とか大丈夫なの」、「ご飯屋さんの水は」とか。そういう風になってきちゃうから、例えばチェルノブイリみたいに柵つくって、嫌われようが何だろうが「はい、もう入ったらアカン」ってやればいいんじゃないかって思うんです。それで「悪」になったとしても、助けれるものがあると思う。「悪」がいいひん過ぎて、みんながいい顔しようとしてるから、きれいごとばっかりで済んで、あやふやになってしまってる。

ひ:でも、それは起きなかったし、国はやらなかった。そうしたら今は民間でやれることを考えて、実際にやっていこうと。

ア:現実を目で見て、肌で感じてくると、変わっていくんじゃないかなってことですか?

ひ:その上で、もっとできることって、これは細かいことを端折っていきなり結論になっちゃうんだけど、実は誰にでもできることが明確にあると思っていて。それは、例えば、お金を払う場所を意識する。

ア:寄付ってことですか?

ひ:いや、それは例えば、飲み物や雑誌を買うんでも、コンビニで買うのか、近所の商店、本屋で買うのか。腹が減って、マックに行くのか、町の、ご夫婦でやってるカウンターだけの定食屋で食べるのか。

ア:それ、何が違うんですか?

ひ:それは、僕らの1円、5円、10円、全部それぞれが投票ということ。「この店に頑張って欲しい」、「このジャンルならこれを応援したい」とか、その気持ちを常に、面倒くさいからって近くの何かで済ませないで、そういう日常のことから考え、動く。

ア:でも町のご飯屋さんで食べてたら、近くのコンビニがなくなったりするんでしょう?変わりに地元のコンビニみたいなのがあったら、それは間違いなく使うんですけどね。

ひ:現状よりは、そういうことに近いのかもしれない。今まで安直に、どこかで革命が起きないか、何かが一気にひっくり返らないかって妄想してきたけど、なかなか難しい。しかも一人じゃ絶対無理であると。それでも何かできないか考えると、いきなりそれがゴロッと変わらなくても、結局は小さいことの積み重ねしかなかった。

ア:そうやって選べて、世の中の人たちが電気使わへんようになったら原発いらんくなるのにね。今と同じところに金落とすしかないですよね。発電所が他にあればいいのに。

ひ:オレみたいな素人が知ってる限りでも、徐々に、それぞれが欲しいどこどこ産の電気を選べるような仕組みができつつある。「自由化」も、2016年に控えてる。エネルギーの話は一般的に巨大で、「何もできない」ってなりがちだけど、近い将来変わっていく。

ア:そうやって選べるようになったら、原発は自然になくなるんじゃないですか?「原発はいい」、「原発ラブだ」みたいな人、あんまりいないでしょう。

ひ:ラブではないけど、「稼ぎがなくなる」みたいな人は多いかも。

ア:「知らんがな」って感じじゃないですか。CD売れへんようなっても、「音楽つくってますけど」、みたいな感じですか(笑)。オレ、不思議なんですよね。なんで有太マンは闘ってるんですか?

ひ:いや、オレは単純で。自分だってそういう電気の中で生きてきて、ただ、自分の目の前にある選択肢の中で、たとえ小額でも、金を落とすところは納得できるところから選んでいく。

ア:そんなこと考えんかった。

ひ:その選択は誰でもできるし、突き詰めると、たぶんそれが例えばDELI君の出馬とか、自分の場合は福島に住まわせてもらって、現地の言葉を集めて1冊の本にまとめるとか、それぞれが自分の居場所でできることをやるだけという。

ア:そういうことが、この本に書いてある?

ひ:あんまり書いてない(笑)。本は、もっとそれ以前、「福島」が遠い複雑なものではなく、身近な場所に感じてもらえるように。特に第3章には、福島市民のインタビューが30人くらい入っていて、そもそも福島がどういう土地なのか。または、それこそ原発が爆発してからの苦労話。そういうことを、なるべく脚色なく、そのままの福島が見えてくるように。

ア:でも、一人一人の小さい選択にも意味があるっていうのは、それが九州とか沖縄の人たちがそうしても、福島のことに繋がるっていう気がしないです。

ひ:たぶんそこは、福島が今抱えてる問題と、各地方都市が抱えている問題と構図はすごく似ていて。それはシャッター商店街とか、後継者不足とか、端の方の過疎化とか。

ア:それは岡山でもどこでも、商店街は全部シャッター閉まってて、近くにでかいイオンができてて。でもそのイオンでは何千人、もしかしたらその商店街より多い人間が働いてる可能性もある。そういうことを考えると、相手は原発一つとか電気云々じゃない、もっと大きい力ってことになりますよね。そもそもなんで福島に行ったんですか?

ひ:それは、「世界の最前線が日本にできてしまった」と思ってしまったので。

ア:前々から、ヒップホップのことを話す時に、「最悪の場所からこそ最高のものが生まれる」って。

ひ:福島に関しては、「最悪の場所」という表現は合わないんだけど。

ア:でも、そう言った方がはっきりするんじゃないですか?

ひ:感じるのは、「差別の場所」ということ。もちろん4年も経つと、市民と現場の尽力で、測定を通じて実態はずいぶん見えてきてはいる。でも、これだけのことを起こした当事者サイドが、未だに何かというと、タバコや車に乗るリスクと放射能のリスクを比べて、「こんなに小さいんだから気にするまでもない」と言ってくる。問題は、それぞれが選択できるリスクとは違う、突然自分以外の責任で降ってきた放射性物質のことでしょうと。

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Adrian Sherwood At The Controls

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Interview by Shizuo”EC”Ishii(石井志津男)Translated by Ichiro Suganuma, Photo by Sho Kikuchi

過去の作品をセレクションしたアルバム『Sherwood At The Controls – Volume 1:1979 – 1984』とPinchとの『Late Night Endless』をリリースしたエイドリアン・シャーウッドが来日。到着したその日にキャッチ。

●もう日本は何度も来てるね。最初に来た時にもお会いしました。

Adrian(以下、A):最初に来日した時は、TRAという雑誌を出していてアートや音楽のコンダクターだったシキタ(式田 純)さんという人が呼んでくれた。ピテカントロプス・エレクトスというクラブやインクスティックとレッドシューズにも行ったね。

●それはもう30年前になりますね。日本は好きですか?

A:本当に好きだよ。日本に最初来てからもう31年も経つよ。たくさんの友達がいるし、俺には日本人とのハーフの子供が2人いてみんなもう大きくなってるしね。友達がいてとても楽しい思い出がある。俺にとってとても幸運なことだ。人生は本当に不思議だ。

●Riddimという雑誌は知ってる?

A:よく知っているよ。とてもいい雑誌だ。

●雑誌Riddimは創刊して30年以上になります。riddimというスペルは以前Sugar Minottの作品にもあるように80年代初めはRydimとも記されてましたが、Riddimを創刊してからriddimというスペルがポピュラーになったと思っています。

A:いいね。そうか、それは君のせいだったんだね!

 

●昨年、エイドリアンとDUB SyndicateをやっていたドラマーのStyle Scottが亡くなりました。僕も80年代の後半から彼らとジャマイカでレコーディングしたり、Roots Radicsとして来日もさせました。2010年にはOVERHEATの30周年記念のイベント「DUB CLASH」をLIQUIDROOMで開催した時に彼を招聘したのが、僕との最後の仕事になってしまいました。がっかりです。

A:そうか、来日させてたんだね。俺は彼を愛してたから、とても残念だ。

●あなたの『Sherwood At The Controls – Volume 1:1979 – 1984』を聴きました。特にAfrican Head Chargeの「In A Trap」や Vivien Goldmanの「Private Armies Dub」がやっぱり好みで、とても懐かしかったね。

A:Vivien Goldmanの音源は、99 Recordsのだ。Ed Bahlmanのレーベルだな。

●NYのグリニッジヴィレッジの99 MacDougal Streetにあったショップとレーベルですよね。キース・レヴィンも参加してる12インチシングルを持っていますよ。92年だったかな?実際に99 Recordsを訪ねていった時に彼から頂いたんです。Liquid Liquid、ESGとかレゲエのThe Congosも出していたとてもユニークなレーベルでした。

A:そう、Ed Bahlmanという男がいたんだ。New Music Seminar (NMS)を設立して始めたのはTommy BoyのTom Silvermanではなくて、実は彼なんだ。

●では『Sherwood At The Controls – Volume 1:1979 – 1984』のことについて聞きますが、今までの数多くの作品の中から収録する楽曲をどうやって選曲したの?

A:実はこのアルバムに関しては俺が直接選曲したわけではないんだ。友達に選曲してもらったんだ。自分で選ぶと同じ曲や自然とレゲエが多くなってしまうからね。だから確信が持てずにちょっと不安だったけど、他の友人たちもこのアルバムの選曲がいいと言ってくれた。今まで俺がやってきた作品の他の一面が見れるからってね。だから今回は彼らに任せたんだ。

●その友達とは?

A:一人は自分の音楽のファンでいてくれる友人で、俺のすべての作品を知っているんだ。俺自身が覚えていないようなのもまでね。もう一人は、レコード会社で働いていて我々と一緒に仕事をしているMatthewで、俺の普段とは違った作品も好きな男だ。それで今回のコンピレーションを作ろうということになったんだ。

●この曲だけは入れたかったという1曲はありましたか?

A:コントロール・フリークという言葉を知ってるだろ? プロデューサーというものは基本的にコントロール・フリークだが、時には誰かに自由に任せるのがいいと思うんだよ。だからこのアルバムに関しては彼らを全面的に信用して任せて制作したんだ。好みの違いがあるからね。もちろん幾つか意見を言うこともあったよ。とてもいいアルバムになったと思う。

●Adrianも大人になったってことですね(笑)。

A:Let Goすることを覚えたってことだね。

●音楽には個人個人の感性によって様々な受け止めかたがあって好みも違うので、クライエントがいると大変だと思いますが?

A:俺が雇われて仕事をする時は、彼らが俺の仕事を望んでいるわけだから、それを提供することだ。自分がレコーディング費用を支払う自分の仕事では、アーティストと共同で作業をする。自分の仕事のためだけであれば自分のやりたいことやる。でもアーティストと一緒に仕事するときは俺の仕事はアーティストを生かすことなんだ。

収録されているいくつかの楽曲はとても手間をかけていたり、逆にそうでなくて少しだけ参加してるのもあるんだ。手間をかけていると曲に感情移入するからね。そういう意味でこのアルバムは俺のソロアルバムといった感情移入はないけれども、俺の若い時代の仕事を映し出している。そのために彼らに任せたんだ。とても誇りに思っている。

●New Age Steppersのころは何歳だったの?

A:20か21歳ぐらいだと思う。

●ではレゲエに興味をもったのはいつ頃ですか? レゲエにはどうやって携わるようになったんですか?

A:最初に聴いたのを覚えているのは6歳ぐらいのときで、Millie Smallの「My Boy Lollipop」だ。60年代にあと何曲か、そして70年代になってポップ・ミュージックやソウル、レゲエやジャズだったり、小さい頃だからそれが何か分かっていたわけではないけどね。何年かたってジャマイカから輸入されるレコードだったり、UKで生産されたレゲエのレコードをどんどん好きになって聴くようになった。少しずつだったけどレゲエ、レゲエ、レゲエといった感じになっていったんだ。

●音楽ビジネス的なことも早い頃からやり始めたんですよね?

A:ジャマイカに年上の友達がいて、ディストリビューション会社を始める話になってレゲエのレコードをジャマイカから仕入れて販売するようになったんだ。イギリスで生産されたレコードも取り扱ってた。車であらゆるところに移動販売しにいったんだよ。それが17歳の頃だ。

●いつ自分で音楽をプロデュースするようになったのですか? 最初にクレジットされた作品は?

A:”プロデュース“という意味をどうやってとらえるかだと思うけど、レコーディング代を支払ってプロデュースした最初の作品は、自分がベースラインを口ずさんで弾いてもらった楽曲で2日間で出来上がった「Dub from Creation」だ。19歳の時だよ。New Age Steppersが1980年だからその2年前だね。

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Leroy “Fatman” Thompson

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Interview & Photo by Shizuo Ishii (石井志津男) Translated by CB

ジャマイカで好きなことのひとつがニックネーム。子供のときについたアダ名がオトナになってもそのままついているのがすごく好きだ。チビ、デブ、ヤセなど、その直接的なアダ名は日本のイジメ感覚とはちがう。
それ故、先天性アルビノという自らの身体の特徴を特長としたYellowmanというステージネームも愛されリスペクトされるのだろう。
そんなジャマイカのおデブちゃんエンジニアの知り合い3人の中の1人、”Fatman” ThompsonがJimmy Cliffのツアー・エンジニアとしてやってきた。何を隠そう、FatmanはKing Tubbyの直系なのだ。

●かなり久しぶりだね。一番最初は1988年、King TubbyのFirehouse スタジオで会って、そのずっとあとになってJammy’sスタジオに行くようになったら、君が働いていた。もう30年近い知り合いだけど、ほとんどあなたのプロフィールを知らないので教えて下さい。

Fatman(以下、F):本名はLeroy Thompsonだけど皆にはFatmanと呼ばれている。1966年にキングストンのWaterhouseで生まれて育った。僕が通っていた学校ではサマージョブというプログラムがあって学校がレターを書いてくれて、僕はそのレターを持って家の近所にあったKing Tubbyのところへ行ったんだ。だけどKing Tubbyはプロフェッショナルなら欲しいけど、今の君の働く場所はないと断られました。だから今度は卒業した1983年にもう一度彼のもとを訪ねました。その時も今は要らないからまた来いと言われたんです。ただKing Tubbyは、僕のとても仲が良い友人に僕の事を聞いていて、結局は僕も働けるようになったんです。King Tubbyは電気機器を修理できる優れた技術を持った人が欲しかったんです。

●なるほど、俺もKing Tubbyに最初に会ったのは、Wayne Smithがラジカセを修理に行くから俺のタクシーに便乗させてくれと言われて、着いたところがTubby’s Firehouseスタジオだった。だから次の年にもう一度Mute Beatのマルチ・テープを持ってDMX(宮崎)たちとTubbyにリミックスをしてもらいに行ったら、若いエンジニアだった君とPiegoという二人を紹介してくれたんだったね。

F:僕が行った頃のエンジニアにはProfessorがいたんだ。最初は月曜日だけ働き始めてProfessorがいなくなってからは、僕がスタジオでエンジニアとして働くようになったんです。

●レコーディング・エンジニアとしては、そこで学んだということなの?

F:そう。King Tubbyが全部教えてくれました。

●それまでは音楽のことは何もやっていなかったの?楽器とか?

F:全くやっていなかった。だって学校では電気技術を学んでいたんだ。だからラジオやテレビをリペアーしていただけでした。

●Piegoと君が当時の若手のエンジニアということでいいのかな?

F:Piegoは僕よりも先にスタジオに出入りしていましたが、まだエンジニアではありませんでした。どちらかというとただそこに居るだけでした。そんなある日King TubbyはPiegoと僕の二人に教え始めたんです。だからPiegoと全く一緒にスタートしました。

●その頃のFirehouseにはKing Tubbyの他に誰かエンジニアはいたのでしょうか?

F:Phillip Smartがいましたよね。Scientistもいましたね。あとはPat Kelly, Jammy, Professor, Pug Chemistもいました。僕がJimmy Cliffのスタジオで働くようになってからは、PiegoもBobby Digitalのスタジオに移りました。新しくBantonがKing Tubbyで働く様になったときは、僕が彼をトレーニングしました。だからKing Tubbyが亡くなった時はBantonが働いてましたね。

●King Tubbyはなぜ射殺されたんだろう?

F:う~ん、、、それは今でも謎のままだね。もちろん色々な噂はあるさ。だが本当の事は誰にも分からない。とても悲しい出来事でした。彼は家で殺されたからね。聞いた話によると殺したヤツは、警察によって既に殺されていたというから本当の事は誰にも分からないんだよ。ただ素晴らしい人が殺されたという事実だけです。

●King Tubbyが教えてくれたことで何か印象的な事はありますか?

F:全てにとても気長に色々と教えてくれました。Piegoと僕にはOKが出るまで付き添ってくれました。素晴らしい先生だ。生徒を見れば分かるよね。Pat Kelly, Jammy, Professor, Pug Chemist、、沢山の愛弟子が居ました。彼が教えてくれたとても重要な事は、アーティストがスタジオに居る時は、練習をしている時でさえ、常にレコーディングをしておけということです。まれにその時の歌い方の方が格段に良い時があるからです。いざレコーディングとなるとアーティストはテンションが上がりすぎて集中出来なくなっている時もある。だから「リハーサルだよ」と言って歌わせてもレコーディングをしていました。

※ ジャマイカではマルチレコーディング・テープは高価で貴重な物。テープ業者などは存在せず、マイアミやNYで購入し手持ちでジャマイカに持ち込んでいた。だから24トラックのAMPEX 456テープは通常19cm/sのスピードで回転させ、テープの頭ギリギリからレコーディングしてなるべく1本のテープに沢山の曲をレコーディングしていた。日本ではより高音質ワイドレンジを確保するために倍速の38cm/sのスピードが通常である。つまりジャマイカでは日本の倍の長さ(曲数)で使用していたわけである。だから練習からレコーディングするなどというのは、高価なテープを無駄にしかねないことで、King Tubbyがそれを率先して実行していたというのは、常に良いテイクを逃さない彼のひたむきさが強く感じられる逸話だ。余談だが、レコーディング時のテープスピードが遅ければ低域の特性が良くなると言う利点もあり、レゲエ特有の低域偏重にはピッタリだったとも言える。

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雄叫び、ジャカルタ

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Text and Photo by Yuta Hirai(平井有太)

「MARJINAL」(端っこ・崖っぷちに生きる者たち、の意)はインドネシアの首都、ジャカルタを拠点に活動するパンクロック・バンド。1996年にギターボーカルのマイク(40)ベースボーカルのボブ(38)によって結成され、ユニット編成時の名は「MAJIK」という。
 昨年5月、渋谷UPLINKファクトリーでの映画「マージナル=ジャカルタ・パンク」と来日中だった彼らの演奏を初体験し、心鷲掴まれた。それはもしかすると、約10日前に映画「アクト・オブ・キリング」を観ていたから、さらに深く刺さってきたのかもしれない。
 リゾートとして、バリ島などのイメージしかなかったインドネシア。「アクト・オブ・キリング」はその真の実態を教えてくれる作品だった。
 つまりは彼の地で1965、66年に起きた、犠牲者数50〜200万人とされる、スハルト大統領による「共産党員狩り」という名の大虐殺。その実行者たちは今も表向きには国民的英雄として暮らし、庶民は汚職と格差と不条理の中、スラムで生きている。
 抑圧と恐怖。MARJINALはその中から生まれ、音楽活動のみならず、生活共同体「タリンバビ」を運営し、生業としての表現活動を学べる空間を解放し、孤児を含む無職のパンクスを受け入れ、生活の場を提供し続けている。
 彼らのライブや映画のフライヤーに、いつも添えらている1文がある。
「ここには反逆する理由があり過ぎる」。
 MARJINALは、2007年に彼らと出会い、2010年からは現地に移住し記録を続けるカメラマン、中西あゆみさんによって日本に紹介された。
 今回は彼らを、5月23日、愛知県豊田市で「橋の下音楽祭」出演直前にキャッチ。同音楽祭は、最終的に311に背中を押されるかたちでバンド「TURTLE ISLAND」が始めた、無料、投げ銭式の「祭」。「SOUL BEAT ASIA」、「SOUL BEAT WORLD」とも銘打たれ、ジャンルで括れない、しかし魂で吠える国内外のバンドが名を連ねる。
 3度目の来日となるマイク、2度目のボブを訪ねてくる日本のパンクス、近郊に住むインドネシア人の若者たちは途切れることなく、MAJIKのどちらかは常に版画を制作中。ステージから絶え間なく出演バンドの演奏が聴こえてくる中、マイクと中西あゆみさんから話を聞いた。 

●大きな質問からはじめさせていただきます。音楽の力は、どのようなものでしょう?

マイク(以下M):MARJINALとMAJIKにとって音楽は、まさにここ「橋の下音楽祭」の「橋」みたいなもの。それは、世界中の友達と僕らを繋ぐ橋と言えます。つまりコミュニケーションそのものであり、もちろん、楽しみでもある。音楽からお互いを学ぶことができるし、未来に向けて進む原動力にもなります。

●あなたの音楽がここまで広がり、世界中から人を惹きつけ、さらにはあなた自身を日本にまで導いてくれると想像していましたか?

M:想像していませんでした。僕らはただ信じていることを、毎日の生活の中で、問題だらけの社会の中で実現させていくためのツールとして、音楽をつくってきました。
 それがここまで広がるなんて!
 そのこと自体が、音楽がコミュニケーションのツールであることの証明になっていると思います。

●どんな人たちがあなたたちの活動拠点「タリンバビ」に来ますか?

M:色んな人が来ます。学生、活動家、バックパッカー、そして冷やかしも(笑)。僕らはみんなを受け入れます。肩書や、出身は気にしません。話せて、情報交換ができれば何とかなる(笑)。

●日本以外にツアーで行くことはありますか?

M:2010年にドイツで一ヶ月、2013年はマレーシアで全国ツアーがありました。

●あなたたちの影響で、パンクバンドは増えましたか?

M:増えたかもしれません。あと、以前は多くのバンドが歌詞を英語で歌っていました。だから僕らが、政治的なことをインドネシア語で歌う、最初のバンドでした。今は母国語で歌うバンドはたくさんいます。
 だって、例えばセックス・ピストルズが大好きで、それを「インドネシア語でやろう」となっても、うまくいかなそうだよね?(笑)。だからみんな、母国語で歌うことに自信を持てなかったんだと思います。
 でも僕らは、国の問題について歌っている。そうすることで人々が現実を知り、結束を促し、本当の変革に繋がっていくことを願っています。

●訴えかけている相手はインドネシアの人々。

M:その通り。音楽は言語です。そこで、何語で歌うかということが大事なのでなく、その曲が社会や人々の人生とどう繋がっているかが大事なんです。

●映画「アクト・オブ・キリング」を観ました。バカンスでバリ島に行ったことはありますが、その時は知る由もなかった、狂気を孕んだインドネシアという国に驚きました。

M:すべては隠されています。偽物なんです。多くの問題は未だに継続中で、政治はそこに触れないし、責任もとりたくない。政府は金と権力さえ維持できればいいわけです。1965年、あの映画にあったように多くの市民が虐殺され、誰も逮捕すらされませんでした。正義がないんです。

●様々な音楽がある中で、なぜパンクを選んだんですか?

M:選んだわけじゃなく、自然にそうなりました。それは、生まれた時から決まっていたことなんだと思います。当時すでにロック、レゲエ、ブルース、ジャズ、ヒップホップがあったし、もちろん土着の音楽もありました。
 そこで、自分にとってはパンクの精神が大切でした。ジャンルとしてのパンクというより、その精神に惹かれました。音楽はジャンルでなく、心の奥から何が出てくるかが重要でしょう?どうすれば自分が自分自身でいることができるか。それが一番大切なことでした。
 それを踏まえることで、自らが生まれ、生きている国の状況、抱えている問題、リアリティ、文化、歴史を加速させることができます。僕らは、自分が自分自身でいることに自由でありたいんです。

●日本ではインドネシア出身のミュージシャンとしてロマ・イラマ、エルフィ・スカエシといった方々が知られています。

M:ロマ・イラマの歌詞や精神はパンクです。エルフィ・スカエシは、最初はアンダーグラウンドから出てきたんだけど、今やもうポップスター(笑)。政府もイベントによく呼んでます。

●政府はMARJINALを利用しようとはしない?

M:しません(笑)。でも、僕らはいつもオープンです。どんな場所、シチュエーションでも、機会があれば音を奏でるし、そこにいる人々と対話します。

●映画「マージナル=ジャカルタ・パンク」では、巨大なイスラム教徒の集会で演奏されていました。

M:どこにでも出向くし、対話をして、伝えます。相手が誰でもそれは変わりません。そうやってお互いについて学び、理解し合う。表面的にどんな違いがあっても、理解が深まれば、お互いを助け合うことができるから。

●刺青はインドネシアにおいて大きなカルチャーですか?

M:昔から伝わる刺青文化があって、それをストリートで学び、今は自分たちでできるようになりました。それは版画だってそう。木彫りも、先人たちから学んだものです。
 インドネシアでは、刺青を入れている人たちが世間に受け入れられない現実があります。そういう偏見を変えていくため、自分たちが、そういう人間が悪でないことを証明しなければと思っています。

●私は福島から来ました。安全と言い続ける行政と、住み続ける決断をし、安全と思いたい市民。子どもの生活に放射能の不安がつきまとう母と、外部被ばくのリスクが払拭できない農家。必要な、的確な支援が足りないように感じる中、市民の格闘は続いています。あなたの国の想像を絶する不条理の中、活動を続けられる原動力は?

M:僕らは止まりません。大事なのはコミュニケーションです。今までもアート、音楽を通じてメッセージを発信し続けてきました。それが誰かの心に本当に届けば、共鳴を呼んでさらに大きな力になります。物事はそうして加速していきます。
 福島の問題は、実は福島だけの問題じゃない。あれは、人間の権利の問題です。つまり、僕ら自身の問題でもあります。だからこそできる限りのコミュニケーションが必要になる。いつでもどこでも情報をシェアしていく。そうやってコミュニケーションを膨らませていくんです。

●情報発信が上手くないという土地柄もあります。

M:僕らだって得意じゃなかった。だからTシャツ、アート、版画、音楽といった自分たちにできることを使って、問題を伝え続けてきました。

●活動を経て、社会の変化を感じますか?

M:相手にしているのはシステムではありません。僕らが相手にしているのは、そこで生きている人々です。もっといい教育と情報があれば、それぞれが信じられることを見つけることができ、その時に革命が起きる。それは大人、年寄りから始まるのではなく、僕らから始まります。
 1965年以降、インドネシアでは教育も情報も捨てられ、モチベーションすら持つことがないように仕向けられてきました。僕らの世代では、誰もが本当の歴史を知ることすらできない状況があります。だから音楽を通じて、子どもたちを教育していく。取り組みを通じて、人々のための言語=音楽を広めていきたいと思っています。

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ARTO SAARI

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Interview by CB Ishii(石井洋介)

 押しも押されもしない天才スケーターとして活躍する超多忙なアート・サーリは、実は優れたカメラマンでもある。

ARTO SAARI(以下、A):名前はアート・サーリ。フィンランドで育って1993年にスケートボードを始めた。スケートが僕をカリフォルニアに導いてくれたおかげで、この素晴らしい天候に恵まれたロサンゼルスに住んでいる。今はスケートボードとフォトグラファーの両方をやっているよ。シューティングにはとても時間を割くからスケートとの両立はバランス良くやっていきたいと思ってるんだ。

●もちろんまだFLIPからシグネチャー・デッキはリリースされていますよね?プロスケーターとしてもサラリーが発生しているんですよね?

A:そう、FLIPからデッキは出てるよ。あとはNew Balance NumericとVolcomのライダーでもある。Volcomはどちらかというとフォトグラファー業の比重が多くて、New Balance Numericはスケート、Flipは半々ぐらいかな。サポートしてもらっているどのブランドもスケート以外の事も手伝ったりしているから、今はそこんなにスケートをハードにやらなくても良いっていうか、、。まぁもちろん僕の身体が許してくれる限りスケートはしているんだけど、膝は6回も手術しているから今はどちらかというとステアーやハンドレールではなくてトランジッションやプールの方をよく滑っている。だから昔の様には滑れなくなっているのは明らかなんだ。

●初めてアメリカに渡って来る前はフィンランドでプロだったんですか?

A:いや、フィンランドの会社からデッキやシューズをサポートしてもらってはいたけどプロじゃなかった。アメリカに来てからコンテストに出場して、ビデオや写真を一生懸命撮ってもらったりしてFlipがすぐにプロにしてくれた感じかな。

●ビザはどうしたんですか?

A:カリフォルニアに渡って1年ぐらいでFlipがワーキングビザを出してくれて今はグリーンカードになったよ。ワーキングビザは3年で更新しなきゃいけなかったので何度も更新したてたんだけど、このまましばらくはカリフォルニアに住むだろうなと思ったのでグリーンカードを申請したよ。もうアメリカに長く住んでいるから今はここがホームと呼べるかもね。

●フォトグラフィーはどのように学んだのですか?

A:最初はただ周りのスケーターとの思い出や風景等のスナップショットを撮っていただけだけど、だんだんとハマッてきて常にカメラを持ち運ぶ様になったんだ。周りにはスケートフォトグラファーが沢山いるから色々と質問も出来たしね。だから学校とかには通っていないよ。

●何処かのインタビューでSkin Phillipsにチートシートをもらっていたと読んだことがあるのですが?

A:そうそう。マイアミでFlipの「Sorry」のビデオを撮影をしていた時に初めて本物志向のNikonを買ったんだ。そのツアー中はSkinと2週間同じ部屋だったから、その時に彼が白黒で写真を撮る場合のシャッタースピードや露出などを分かり易く書いてくれたチートシートをくれたんだ。写真を撮り始めた当初の話しだ。そこからフラッシュだとか色々覚えていったよ。

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CHELSEA MOVEMENT

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Interview & Photo by 石井志津男

時にはスクラッチを入れたりと、そのオリジナルなプレイ・スタイルで活躍するサウンド、チェルシー・ムーブメント。MCのMartin-KinooとセレクターのSpicyがSoul Rebel 2015に出演決定。彼らのルーツと今を聞いてみた。

●まずCHELSEAって名前はどこからきてるの?

MARTIN-KINOO(以下M):チェルシー・ホテルですね。

●ええっ、ニューヨークの?

M:じゃなくて、ジャマイカの。

●ジャマイカの?

SPICY(以下S):チェルシー・ジャーク・センターの横にあるチェルシーっていうラブホが。

●知らないね、それ。

M:サットン・プレイスあったじゃないですか。

●うんうん。

M:あそこの裏手にあったと思うんですが…です。僕らは元々APO-MEDIAで活動していて、自分達のクルーを立ち上げようって時に、その時のメンバーとかみんなでジャマイカに行ったんですよ。

●それは何年のこと?

M:95年の年末を向こうで過ごそうっていって、渡航中に新しいクルーの名前をどうするかみたいな話しになって、ジャマイカで初めてダンスに行った場所がメトロ・メディアとストーン・ラヴと、ジャム・ロックかなんかだったんですけど、それがチェルシー・ジャーク・センターでやってたんですよ。初めて行ったとこだし、日本的にはキャンディーで名前も知られててキャッチーだし、ニューヨークのチェルシー・ホテルだったり、ちょっとパンクっぽいイメージもあるしっていうのでチェルシーで良いんじゃないのみたいな感じで決めたんですよね。

●じゃあ結成が96年ってこと?たしかジャマイカでやってたんだよね。その辺の話しを教えてもらおうかな。

M:96年に1回帰って来て、こっちで色々ダンスをやって、一応ジャマイカ・マターということでちゃんと毎回ライヴのテイクを録って、ちゃんとプロダクションとして出しテープを作って、次のダンスの時にそれを売ってみたいな事をやっていたんですよ。それでお金を作ったりとかして。それをナガセケイコがキングストンにあったCISCOのバイヤー勤務で行くっていう時に、僕らのテープを「これ聴いて思い出してよ」みたいな感じで軽い気持ちで渡したんですよ。で、ナガセがジャマイカのオフィスでそれをいつもかけて聴いていたら色々と出入りしてる業者のやつらが聴いて「これいつのストーン・ラヴのテープ?」みたいな話しになって「いや、これ日本人のサウンド」「ええっ?マジ?ここまで出来るんだ」って、オファーが来たんですよ。それがドレッドフルというイベントでした。一応ブッキングはストーン・ラヴとレナサンスとCHELSEAっていう3サウンドでUWI(西インド諸島大学)のキャンパスでやったのが97年の最初です。

●ナガセケイコさんてランキン(タクシー)が家庭教師だって言ってたけど。勉強を教えるついでにレゲエを教えてたのか!しょうがないな。

M:うん、家庭教師。ハハハッ(笑)。そうっすね。
そのテープがきっかけで1週間くらいジャマイカに行く事にして、その時は、TELANOと三人で行きました。で、UWIのイベント後、色んな人から「ウチでやってくれ」みたいな話しが来て、行ける所は行ってやろうと結構ダンスをハシゴしたりもしたんです。それはギャラ云々じゃなくて、やらせてもらえる所はやったみたいな。今考えると、96〜97年位のクロス・ロードの辺りとか、当時ちょっと危なかった所とかも行ってやってたりして1週間で帰国して、またこっちで普通に始めてたんですよ。そうしたら、ナガセから「あまりにもオファーが多い、これは絶対あなた達ならやっていけるから、今すぐにでも来なさい」みたいになって。で、「どうする?行くって言っても」みたいな。

S:「実際暮らせるの?」みたいな。

M:帰国してすぐにジャマイカにまた長期滞在なんて考えてもいなかったので、お金も貯めてないですし、「えー?」みたいな。

S:予定が未定だったね。ただ、「来れば何かあるから」っていうだけで。

M:でもその「なんとかなる」に賭けてみたんですよ、僕らも。それが97年です。

S:97年頭にUWIでやるダンスにちゃんとしたオファーがあって安心して行って、それで帰って来て、それから半年くらいお金を貯めて10月くらいにまた旅立ったんです。

M:重いレコードを持って行っても最初は住む家も無い状態。でも、そのドレッドフルでやった1回目のイベントの時の評価が色々と知れ渡っていて、結構イミグレーションとかもノリの良いやつが「お前ら知ってるぞ!」みたいな、空港あるある、ジャマイカあるある話でなんとか入国できて、最初はナガセの家に間借りしたりしたんです。家探し、イベント探し、自分達がサウンドとしてやっていけるのか探しみたいな全てが並行で1年かけてやっていましたね。
 一応グリーナー(新聞)とか、色々推薦文を書いてもらって日本のジャマイカ大使館に行って、ビザを取って行ったんですけど、向こうでは許可が下りなくて「とりあえず観光ビザで入れるから、後はもう1回ワーキング申請しなさい」って、お金取られただけだったよね。

S:あれ何だったんだろうね。

M:一応ワーキングを貰って、最初の1ヶ月はちょいちょいイベントのオファーを貰ってたのを詰めながら、環境に慣れることでほぼ終わって。そんな中、レナサンとの再会があって、結局僕らの事をレナサンがマネージメントをしてくれたんですよ。最初はレナに入って来る仕事の中からバーターで行かせてもらったりしてるうちに「あの日本人のクルー使いたい」みたいな話でロードマネージャー的な感じでナガセが色々と車出してくれたりとか。

S:それでマイアミか。

M:そう、レナサンのリーダー、デラーノのイベントで、その名もデラーノズ・リベンジっていうレナでは1番デカいイベントがキングストンの空港からちょっと上がったミネラル・バスという所であって、僕らも出させてもらってて、マイアミのプロモーターとバハマのプロモーターが見に来ていたんですね。それはレナが繋がってる人達だったみたいで、「マイアミにも」ってなって、マイアミのイベントにブッキングされ、今度はジャマイカでも見てたっていうバハマのプロモーターが、そのマイアミのイベントに来ていて、「マイアミに来れるんだったら、バハマにも」って感じで、色々あの辺を廻らせていただいて。

●それはどのくらいの期間居たの?

M:1年ちょっと。ジャマイカを拠点に出たり入ったりやってましたね。大きいイベントもあったんですけど、場慣れする為にはジャマイカのコミュニティにもっと入らなきゃっていう話しになって、ジェミナイっていう老舗ゴーゴーバーに行ってDJをやらせてもらったり。大きいダンスばっかりじゃなくて、ゲトーのダンスもいっぱいあったし。

S:やっぱ大きいダンスでやると、終わると本当名刺の嵐みたいな、囲まれてオファーがどんどん。多分日本人が珍しかったんでしょうね。それで、マイアミを含めてカリブ海の島から「来てくれって」行くと、それはビッグ・ダンスでしたけどジャマイカの中ではそんなでも無かったよね。

M:イメージ的には大きい所が多いような話が回ってたけど、やっぱ結構凄いゲトーでもやってるし、ホーム・パーティーみたいなのやゴーゴーバーだったりが、今考えると僕らの基礎を凄く作ってくれてます。一般の人達もちゃんと喜べるレゲエをそこで学んだというか、あとはゴーゴーとかはソウルのかけ方を踊り子?のお姉さん(おばちゃんw)達に凄くうるさく教わりました。ありがちな「えっ、あんた達あれの次あれかけないの?」みたいなのもあったし。それじゃ〜踊れないとか、全然セクシーじゃないとかw

S:日本じゃ分からないです。本当にそれを肌で感じて、かけ方とか選曲の仕方とかMCを入れるタイミングとか、当時あった流行言葉とか、行ってやらなきゃ分からないタブーな事もいっぱいあったしね。日本で平気にかけてて、同じオケだからってギャル・チューンの後にラスタ・チューンかけたら、もうバァーっとみんな引いちゃったりとか、1個のサウンドの時間はちゃんと物語になってないとみんな嫌なわけで、そういうのも凄く学んで、緊張感あったよね。

M:本当にたった1年ちょいだったんですけど、長くてすごく濃かったですね。

S:もう忘れられないね。

M:カントリーに行って僕が普通にドリンクバーに並んでたら、背中に何か突きつけられたりとかして、「ええー」みたいな。まあ、鬱陶しかったね(笑)。

S:当時のあるあるですね。ニュー・キングストンに住んでたんですけど、フラフラ普通にスーパー行こうと歩いてると、囲まれるんですよ「ジャッキー・チェンだ」って。車持ってないからもう外に出るのも嫌になっちゃってね。変に有名だったからね。

M:SPICYはセレクターだから、ずっと昼間も練習をしてるじゃないですか。僕はMCなんで、あんまり家でゴロゴロしていてもしょうがないのでフラフラ外に行くと仲間が段々増えて(笑)。丁度その時期にRED SPIDERのジュニアとか、イエチョ(Yellow choice)のトシヤとかにも出会って。元々APO-MEDIAにいてCHELSEAに入った最初のメンバーだったジュンヤとニチがキングス・ハウスをシェアして住んでた時代だったんですよ。昼間はそこに遊びに行ったりとかして遊んでたんですけど、446とか、オゼッキーが居たりとか。
ま〜色々ありながらもそうやって1年いて、スティングにも出て、泉谷(しげるの番組「ジャマイカで吠える」)さんのテレビにも出させてもらって「帰ったらもう仕事一杯きてるべ」みたいな感じで日本に帰ってきた。

S:凱旋帰国ですよ。

●おお、凄いねぇ。

M:それで、「これはもう、そこそこ仕事あるな」と思って帰って来て、だけど98年、分かると思うんですけど、レゲエ低迷期で、何も仕事が来なくて(笑)。

S:企画したのは入らないしね(笑)。

M:自分達で打つダンスくらいしか出来なくて「どうする?」って焦っちゃって、結局色んな事がちぐはぐで上手くいかなかったり、繋がっていかなくて断ち切られる部分も一杯出てきて。そうこうしてたら(マイティ)クラウンがトロフィー持って帰って来て、今思えば色々ジェラスな部分も出てきて、どんどん焦っちゃって、(SPICYも)僕より2つ上で先に30歳にもなるし「これ以上やっててもプラスになることが無いんだったらもう止めよう」って99年で止めたんですよ。だから3年しかやってなくて、その3年の内の半分が向こうにいて、本当に日本での思い出も作れないまま終わってたんです。でもその3年の中には、そこそこのもあるんです。ニンジャの衣装とか作ってたエミちゃん知ってますか。

S:ソウマエミコ。ブジュとか、シャバとかの衣装を作ってたビギー(ジャマイカのダンスホール・ファッション・デザイナー)の弟子だったんですよね。日本ではグラマラス(青山にあったレゲエ・ファッション・ショップ)で、ウェアの方を担当していたんです。

●へえ、じゃあ毎日前を通ってたから俺も会ってるね。

M:絶対会ってますよ。で、そのエミちゃんが僕と地元が一緒だったので、彼女のレゲエ・ファッションのブランドを立ち上げるって時にCHELSEAでイベントを企画して、その時の余興でファッション・ショーを新宿のキングストン・クラブでやったりしたんです。僕らもジャマイカから帰って来て1発目で、クラウンもちょうど日本に居たので「じゃあ、クラウンとダンスやろう」って、その新宿のキングストンで1000人オーバーだったんですよね。そこそこの事をやってたんですけど、知れ渡ることはあまりなく。

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MASTA SIMON

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Interview by Shizuo Ishii(石井志津男)

相変わらず忙しく動いているMighty CrownがSoul Rebel 2015に出演決定。久々にRiddimに登場のMASTA SIMONに最近の活動を聞いた。

●今日ここまでクルマで来る時にちょっと道を間違えたら、関帝廟に出て、昔ここに石田昌隆さんとクラウンの写真を撮りに来たなって思い出したんだ。『Mighty Crown meets DIGITAL-B』ってCDをOVERHEATで出してRiddimでインタヴューして、クラウンとツアーもやったんだ。

MASTA SIMON(以下S):2ヶ所くらいやりましたよね。アドミラル・チベットとデターミン(笑)。大阪と横浜で、確か今は無くなっちゃったヘブンってとこでやったんです。

●それがSIMONとの最初の出会いなんだけど。

S:あれ何年くらいでしたっけ?

●1999年だね。

S: 90年代終わり、もう16年くらい前(笑)。もう0歳だった子が高校ですね。

●ところで、Mighty Crownは今年で何年目になるの?

S:91年から結成なので、24年目。

●パンク・バンドをやってたのは?

S:それはもう全然前で、俺が15歳とか16歳とか。そこからヒップ・ホップを聴いてからのレゲエだったので。

●じゃあ、レゲエにハマるきっかけは?

S:最初は全くハマってなくて、逆にちょっと苦手で、どちらかというとヒップ・ホップを凄く聴いていた。JAP jamから「Badness No Pay」ってNANJAMANとの曲が出てる大阪のChucky Smartって、俺と同級生の親友なんだけど、かなりレゲエにハマってて「これ聴けや、サンチェスだ」みたいな感じで。最初は「何が良いんだろう」っていうぐらいな感じ。でも俺等みんなスケボーやってて横浜のスケーターは、ほぼ週末はみんなのたまり場っていうか、本牧にゼマ、新山下のクロス・ロードっていうレゲエ・バーとかクラブに通ってて、そこではPAPA U-GeeとかJr.DeeとかBANANA SIZEもいて、それが多分最初の始まりですね。もう自然の流れというか、街のストリートのレゲエ。スケーター全員レゲエ聴いてたっていう。

●それで、最初にイベントをやるきっかけみたいなのは?

S:多分すぐやる方に移ったんじゃないかな。ちょっとして「クルーを作ろう」みたいな感じで、自分達でパーティーしようっていうので、1発目のパーティーは違う学校の学園祭か何かに参加したみたいで、俺はその時海外に行っちゃってたので参加してないんですよ。で、名前もMighty Crownってなって、俺はL.A.に居たので、ちょこちょこ帰って来ながらっていう流れでしたね。それが91年。そこからは今はもう無くなっちゃったんですけど、ランキンさんもそこでやってた寿町の地下のジーン・ジニーってライヴハウスを貸し切ったりして。未成年だったので17時オープン(笑)で21時とか22時に終わっちゃうイベントで、寿町のゲットーのライヴ・ハウスに10代の女子高生とか普通の高校生も結構集まって、多分100人とか50人くらいはその時から入ってちょっとした話題になった。勿論、入ってないイベントはサウンド・システムを入れても、10人くらいしかいないとか全然あった。でも、もしかしたらどこかのクラブでやらせて下さいっていう方法もあったのに、最初から自分達でパーティーをやっちゃおうっていうのがちょっと違ったのかもしれないですね。今考えてみると。

●その学園祭のころの最初のメンバーっていうのは?

S: SAMI(-T)と(SUPER) CRISSと、CRISSの兄ちゃんが初代のMighty Crownセレクターで、あとSticko(Truthful)と、あとは何人か今はいない連中もいた。俺等の学校はみんな横浜生まれ横浜育ちなんだけど、ルーツが中国だったり、韓国のルーツとか、ドイツ人と日本人のハーフとか、アメリカ人とのハーフがいたりインターナショナル・クルーだけど、レペゼン・ジャパンみたいな感じでやってて、その時から自然と外人もいて多分ちょっと異色だったかもですね。スケートも元々アメリカの文化じゃないですか。

●横浜ならではだよね。

S:でも、きっかけは単純に言ったらノリっていう、横浜のストリートの流れがそうだったから、みんな自然とそういう風になったっていうことですね。

●それで今日はBACK TO THE HARDCOREがいいイベントだなと思って聞きに来たわけ。今回のコンセプトとか、その拘りみたいなものを。

S:BACK TO THE HARDCOREは、実は自分達も全然気にしてなかったんですけど、今年で15周年。多分初めてやったのは2000年だったんですよね。誰もメンバーは気付いてなくて誰かがインスタか何かで「Back to the Hardcore 、15年目だ」って言ってて(笑)。前回の1月にやったのが黄金の90年代特集。で、今回はレーベル特集。やっぱり色んな80’s、90’sの良き時代の本当のレゲエというかダンスホールの特集時間を入れていこうと。ここ最近はその時その時にやっていくうちにコンセプトがどんどん変わってきて、ここ5〜6年はアナログ重視というか、あの頃はアナログだったので別に「アナログ」って言わなくてもそれが当たり前なんだけど。俺等も24年目なので、最初にいた頃の連中から世代が今はもう3〜4世代変わって、例えばレゲエ祭とかに「ああ、昼間だったら行ける」って子供連れて来るような人でも、たまには夜遊びしたいって連中もいっぱいいるじゃないですか。

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Chozen Lee & Truthful from FIRE BALL

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Interview by Ichiro Suganuma Photo by Shizuo Ishii

今夏、FIRE BALLが2枚の『All Time Best』 を同時リリース。『BLACK〜FIRE BALL’s Choice〜』 と『WHITE〜People’s Choice〜』だ。
横浜のみなとみらいで行われる「SUMMER BLOCK PARTY」や日比谷野音で行われる「SOUL REBEL 2015〜逆襲〜」 への出演も決定し、このインタヴュー後には、リリースを記念したスペシャル・ワンマンライヴの開催も発表されている。

10-FEETとのスペシャルライヴ「大炎上」やROTTENGRAFFTY との2マンライヴ、そんな『All Time Best』をリリース後の熱気が伝わってくる中、ジャンルを超えてファンを魅了し続ける音楽の源、Chozen Lee と Truthful (Sticko) にMIGHTY CROWN のオフィスでインタビュー!

⚫︎『ALL TIME BEST』 の反響はどうですか?

CHOZEN LEE(以下、L): すごく反応がイイネ。

STICKO (以下、S):ちょうど先週土曜日に名古屋でリリース・パーティーを兼ねてライヴがあったんですけど、人も集まってくれて良かったですね。

L:いつもアルバムを出すごとにREGGAEの現場として、まず名古屋からツアーをスタートさせるみたいな流れがあるんだけど、今回はREGGAE以外にも広がってる感っていうのがある。それは去年から仕掛けてるっていうか、ONE LINKってタイトルを掲げて、自分たちから色んなロックフェスとかにも積極的に出てるのと、あと10-FEETみたいに呼ばれて行くのもあるし、あと楽曲にもよるけど、もうちょい幅の広い層に伝わりやすい楽曲が作れるようになってきたのかな。何か広がりを感じるというか、REGGAEのフィールドだけじゃない人たちにもちょっと届き始めてるのかなっていうのを初めて実感してる。もともとフジロックとか、ライジングサンとかサマソニにも出てたけど。

S:でも、そういうロックフェスに出るのがそこからしばらく空いて、10-FEETが「京都大作戦」に呼んでくれて、また更に火を点けてくれたというかね。

L:やっぱ前にそういうのにも出てたのが少なからず今に繋がってきてプラスになってるんだと思う。

S:プラス、JUNGLE ROOTSをバッキング・バンドにしてずっと動いてたっていうのも他ジャンルの人からはかなり引きがあったというか、やっぱりDry & Heavyの外池さんとかクーボさんとか、ああいう人たちが演奏してたってのも結構クラウというかね。

L:単純にその人たちの存在を知らなくても、たぶんバンドマンの人とかは、音を聞いて「お?何だこの音は?このベース誰だ?」みたいな興味の持ち方をしてたからね。サマソニの時なんかはQ-Tipのクルーが演奏聴いてそういう反応だったもんね。

⚫︎横浜でやってる「大炎上」とか、ロットングラフティーとか、そういうところでのお客さんの反応はどうですか?

L:すっげーいい(笑)。自分らが仕掛けてる「大炎上」に10-FEETが来たときには俺らも蓋を開けるまでは分かんない。自分らサイドのお客さんをどうやってもってくんだろうみたいな所はあったんだけど、蓋開けてみたらもう両方がどっかんどっかんきて両方のバランスが取れてるというか、お客さんが両方のに歌ってるしのってるし・・。

S:モッシュとかそういうのにも、自分らサイドのお客さんも自然と受け入れて、、、みんなすっげー純粋に楽しそうで。

L:あと直に10-FEETのお客さんから「京都大作戦で初めてFIRE BALLを知ってそこからはまりました」っていう声も聞くし。

S:それはすごくあるね。

⚫︎「京都大作戦」で10-FEETとFIRE BALLが絡んでる動画があって、その盛り上がり方が凄くて、「大炎上」もロットングラフティーもこういう感じだったのかなと。

L:昔、日本のREGGAEが三木道三あたりで1回ボーンっとなって、で僕らも 「BRING IT ON」だとかそういうのを出して、MTVとかスペシャとかでバーンってやってた時に、今のロックバンドの人たち、10-FEETとかロットンとかも皆観てたって言うし、MIGHTY CROWNのテープも聴いてたって人もいっぱいいて、そういう世代の人たちなんでしょうけどそこがなんとなく今繋がってきて、ロックの人たちは、REGGAEから来てくれるのはすげー刺激になるし嬉しいって言ってくれてる。

⚫︎今回の『ALL TIME BEST』の『BLACK』の中でSiMとやっていて、化学反応的にもFIRE BALLのアグレッシブなレゲエの爆発的なところと丁度うまくマッチングしていました。あれはどういう経緯で始まったんですか。

L:最初SiMとは、初めて「京都大作戦」に出たときに、湘南の方のバンドでREGGAEのテイストも入れたロックな面白い奴らが居るよっていうので紹介してもらって、そこは挨拶程度で、そこから大分経ってMIGHTY CROWNも男鹿ナマハゲ・ロックフェスティバルとかに出るようになって、そこでSiMのライヴを目の当たりにして、こいつらすげーみたいな、、、そこで繋がって、じゃあ10-FEETの次は誰とやろうかってなったときにSiMって名前が挙がって、自然に。

⚫ミクスチャー的なところもあったりREGGAEな要素もあったりとか凄い大作になっていてライヴで是非実現して欲しいです。

L:それは、DEAD POP FESTIVALっていう今週末(7/11&12)、SiM主催のイベントでね。

L:他ジャンルのイベントに色々出てて思うのは、日本と言う国が多ジャンルの特殊な国だと思うから全部を相手にしなきゃいけない。REGGAEを聴いたことない人にも響かせて、あ、こういうジャンルの音楽もあるんだっていうことだと思う。でも初めから何でもありな人がジャンルに壁なんかねーぜっていうのと、ちゃんとこだわってる人が壁なんかねーっていうのとは大分ニュアンスが違うし、結果も違ってくると思うんで。自分らなりにREGGAEシーンでこだわってやってきて、ああでもないこうでもない良い時も悪い時もあって、今だんだんジャンルの壁なんか無いよって何となく言えるようになってきたって言うか。

⚫︎ウェブで公開されているのを見るとFIRE BALL のメンバーそれぞれが違う曲を選んでいて、更にMASTA SIMONもSAMI-Tのチョイスも違ったり、結果的に『BLACK』がルーツ・レゲエ色が強く出ていて、FIRE BALLのアグレッシブな部分が良く出ているのが面白いです。

 

L:まず最初に『WHITE』のファン投票を尊重して、それに選ばれてない曲の中から自分らが選んだ。

S:4人でとりあえず好き勝手に投票して4票入ったのは入れようと。でも3票以下は色んな気持ちがあるから、その辺は皆で話し合いして。

 

L:最初にベストアルバムを作るってなったときに、自分らは過去のものでベストアルバムを作ろうっていう気にはなかなかならないから、自分らで決めるのは大変だからファンのチョイスっていうのがあがって、もう一枚は自分らでやろうと。やっぱどうしても自分らでやろうとするとベストはまだ出来てませんみたいな。だから客観視する周りの人たちとか、レコード会社のタイミングとかもあるんだろうけど。

S:でもぱっと並べてみたらもう150曲ぐらいあるっていう話になって、え、結構あるねみたいな (笑)。

L:もう聴きたくも歌いたくもない曲もあるんだけど(笑)。

石井(以下EC) : おっと、ちなみにそれは(笑)?

L:絶対ファンには言っちゃいけないことなんでそれは、「そんなこと言わないでよみたいになるから (笑)」。

⚫︎ファンの反応とかは順当ですか?

S:正直やっぱりこういう曲が好きなんだなっていうのはある。

L:意外に新しい曲がいちばん最初に来てるなっていうのがあってそれはすごくいいことで、自分ら的にも意識して前作を越えて新しいものを作るって、そういうのを狙ってアルバムをやってるし。

S:チャレンジもあるしね、ちょっと違う世界観を出そうかなみたいな、だからそういうとこも伝わったんだったらすごく良いなって。

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Spinna B-ILL

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Interview by Shizuo Ishii

誰からも好まれるインディーズ・ヒット「ライオンの子」という曲を持ち、コンスタントにアルバムをリリースしてきたSpinna B-ILLが今年の1月にアルバムをリリースしたが、それは5年ぶりのアルバム。そしてSoul Rebel 2015への出演ではHome Grownがバックを努めることも決定している。

●実は、Spinna B-ILLを最初に知ったのはアーロン・フィールドって言うレーベルの向後さんって言ったと思うんだけど、誰かの紹介でここ(OVERHEAT)にVHSテープを持って来て「こういうレゲエ・バンドを出したいんだけど、どう思いますか」みたいな、それで「歌の上手い人がいるんだな」と思ったんだ。ライヴを観たのはそこからずっと後なんですよ。でも、その前には何をやっていたんですか。きっとバンドが最初では無いよね。

Spinna B-ILL(以下、S):僕はあれが人生最初のバンドだったんですけど、それまでは自分でオケを持って行ってポン出しで歌うっていう、自分が作ったトラックがメインで、内容はヒップ・ホップ、R&B的なのが半分以上とか、でも、その中には今もある様な和物の歌謡曲的な要素があったりとか。何かそのうち俺が歌うと「レゲエの人だよね」って言われる様になってきて。

●へえ。

S:「何なんだろう」ってずっと思ってたんですけど、僕的にはレゲエっていうのは、未だにそうなんですけどエッセンスだったので、凄く知識があったわけでもなく。

●僕はビデオを観た時にレゲエというよりは、もっとブルースとかアーロン・ネヴィル的なソウルみたいな何かねちこい感じをその時は感じたんですけどね。

S:そうですね。

●だからこれは前に何かあるんだなと。

S:その前はダンスをやっていたんです。

●へえ、ダンサー?ビー・イル(B-ILL)っていうから、俺はヒップ・ホップかもと思ってた。

S:そうですね、でもヒップ・ホップ、ヒップ・ホップはして無かったんですけど、でも言うたら結構ブレイキング(ダンス)をガッツリやっていたシーズンもあって、それで”Spinna”っていうのは、歌うよりも、本当に回ってたってとこから来ていて。

●ああ、スピンしてた。

S:で、Bボーイネームみたいに元々“ビル”だったんです、唇がデカいから。

●なるほど。

S:この世界、そういうネガティブなとこをポジティブに変えるじゃないですか。だから、そういうBボーイネームみたいな感じで。

●生まれはどこでしたっけ?

S:島根県で、出雲大社があったり世界遺産の石見銀山とか、あとは竹島なんてのもありますね。アーティストでいうとギターウルフ、ちょっと前だとヤクザキック、YKZのヴォーカルのラップをやっていた子とか、田中美佐子、佐野史郎とか、数える程しかいない。

●その島根でそういう黒いものが芽生えたっていうこと?

S:そうですね、やっぱりダンス甲子園とかだったっすね。その前にBSとかの「NBAファインプレー・ショー」みたいなやつでベル・ビヴ・デヴォーとか、ボビー・ブラウンとか、ああいうニュー・ジャック・スウィングの全盛期にハマって、でもその前とかはパンクとかだったんですけど、それからはもう黒人が写ってるジャケを全部買うし借りるし、その勢いでバーっていれ込んじゃってガッツリ聴いてました。そこからちょっと時間が空いて就職で東京に出て来て、公にはしていないんですけど、ネタ的には東京電力ってとこで10年ほど勤めていて、でも辞めたのも、もう10年くらい経つっすけどね。その頃は、ジュリアナとかそういうのもありながら、当時Snowの「Sexy Girl」とか「Informer」とかでブレイキングを始めるやつらがケバい姉ちゃんの中にいたりとかして「お!なんだこれ?」って、俺はスーツを着ながら見てたりして、その後ぐらいからですね。

●その時はまだ歌ってないんですか。

S:その時は歌なんか全然やっていなくて。

●でも、歌が上手いじゃないですか。どこかで自分は歌が上手いって気がつくわけでしょ。子供の時に100m競走で「自分はちょっと足が速いな」とか気がつくじゃない。そういうのは?

S:いや、でも、カラオケレベルですね。俺の周りのやつは結構歌が上手いやつが多かったかもしれないですけど。でもボーイズIIメンとかああいうコーラスとかハーモニーの黒いのをガッツリ聴く様になって「これだったら俺も出来そうだな」っていうことでダンサー期からシンガー期ってのに入っていくんです。最初はSound Cream Steppersっていうクルーのユキさんって方のダンス・スクールに半年通って、その間、東電の方でも転勤があって、栃木行ったり、長野に行ったりとかしていた時にラッパーの子達とつるんで、フィーチャリング・ダンサーでNice & Smoothの前座をやらせてもらったりなんてのもあった。それでちょっと揉めることもあって良い機会だから歌でもやろうかなって、それでMPCとかMTRを買っていきなり始めちゃったみたいな。MPCにベースのラインを突っ込んで、ベースをゴリゴリゴリゴリって、意味分からないことをずっとやってたりして、それでまた東京に戻って来て、その音源を使って池袋のbedが多かったんですけど、ライヴをやったりとか。そうこうしている内に(アーロンフィールドの)向後さんに出会って色々話しをしながら「Bob Marley & The Wailersみたいなバンドをやろう、あの音楽凄い好きだし」みたいになって、それで会社を辞めて今に至る感じです。

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The タイマンチーズ

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Interview & Photo by Shizuo Ishii

岡山県津山のマブダチ二人、J-REXXXと紅桜が結成したThe タイマンチーズ。今この二人、いい感じでキテいる。名前もユニークで、アルバムもライブも楽しめる。彼らの生い立ち、そしてバックボーンのParty Gun Paulのことも聞いた。もちろんJ-REXXXは日比谷野音の「ソウルレベル」にも出演する。

●2人の出会いから聞こうかな。最初に出会ったのはいくつ?

紅桜(以下、紅):中学校くらいかな。

J-REXXX(以下、J):いや小学校くらいから知ってて、中学校ぐらいで近づいてきて、俺が高1で紅が中3の時に共通の友達が河川敷で事故で死んじゃったんですよ。それでその河川敷にみんなで溜まっとる時期があって、そこで音楽を聴いたりとか色々やっていて結構親交が深まったな。そこからまた高校が一緒で、俺がダブって一緒のクラスになって(笑)。

●じゃあ紅桜君の方が、1つ下なんだ。

紅:下なんですよ。一緒のクラスになったのが全ての発端。Jは教科書開く前にジャマイカのパトワ語辞典みたいなのをず〜っと見てヘッドホンを付けてて授業を聞く気も無い。そのヘッドホンも配線ちぎれているやつを柔道部のテーピングで修理とかしているんですよ。自転車もママチャリがかっこいいって言われてる時代に、ストレートのライト付きの自転車を漕いで。辰吉丈一郎か何かのファンクラブのTシャツ着て、サングラスかけて自転車を押してるんですけど全然格好良くないんですよ。

J:ハッハッハ(笑)。

紅:それで背中に“おかん見とってや”みたいなの書いとったな。もう俺、笑っちゃって。

J:そうそう、そういうアホな事ばっかしてて。

紅:俺もヒップ・ホップを好きな人達が周りにできて、JもNatty 17 Rockersっていうかっこいい人達がお互いにいて、何も無い所から自分等が始めたんではなくて、先輩たちの影響を受けて自分達の音楽が始まったんですよね。それからJがこっち(東京)に出てきて数年後、(J-REXXXのアルバムの)「MY TOWN」っていう曲で「一曲やろうか」って言ってくれたんですが、その「MY TOWN」が自分が普段反応しないようなオケで、最初は俺「ウ~ン」と思ったけど、「紅、よう乗せんかったら別に違うオケを選べばいいから」みたいに言われて「なんだこいつ、腹立つわ」と思って乗せようと。でも当たり前にラップをしたら面白くないなって感じで「違う事をやろうか」って。自分のジャンルは分からないんですが、人間っていう共通点を歌うとそれが結構マッチして良いかなみたいな感じで。

●高校時代に一緒にやった事は?

紅:ライヴは、1回、2回はあったよな。

J:ライヴハウスがあって一緒になる事もあったし、一緒に岡山に行ってライヴしたりとか、合間に歌わせてもらったりとかですね。

紅:津山は岡山県の県北で県南の岡山市に出るまで1時間弱かかる、ライブハウスしかない町なんですよ。地元津山でライヴしていくうちに段々とブッキングが県内外に増えていって、岡山と東京で別々に活動していく上でどっちかがでっかいイベントに出るとお互い嬉しくなって絶対来てくれているし、でも悔しい思いもお互いしたしJの悔しがってる姿も見てきました。

●悔しいっていうのは?

紅:若い時は無茶苦茶がかっこいいと思ってましたが、それじゃダメだ真面目になろうとお酒もそれなりに我慢したり、年を重ねると自分から無茶な事をしなくしていくんだろうけど、自分の本質をもっと出したいけど出せないっていう本当に悔しい思いもある。当たり前の話なんだけどね。そういう顔つきもJは全部横で見てくれてました。この男は岡山でも広島でも、東京から所構わず駆けつけてくれるし、俺とかへの報酬は絶対惜しまない。だから、俺もようやくアーティストらしい動きをしないとダメなんですけど見ての通りの俺はデタラメじゃけん。

J:お互いの家庭事情も実家も知ってるし、全部筒抜けです(笑)。

紅:基本、俺は1人じゃないとダメな人間で、一緒に制作していてこいつが「女々しい事言うけど、俺とおって苦しくない?無理してないか?」みたいな。わしが無理してる様に見えたか?

J:タイマンチーズのアルバムでずっと3週間くらい一緒に合宿して、毎日起きてから寝るまで一緒で、3週間目の半ばくらいに聞いてみたんですよ。

紅:俺が喋りまくって少年に戻ろうとして元気が衰えない。でもそんな時に時折見せる俺の顔つきが深刻だったり、メールとかLINEがきて、それで表情変わったりとか全部見てるんですよ。

●これを作ったのは、774君の所で?

J:トラックは貰って、津山で全部プリプロもレコーディングもやって、ミックスだけは774君の家ですけど。

紅:それで、やっと自分等らしいグッとした音楽が出来て。何が歌いたいかっていうと、「少年」のことが歌いたいわけじゃないんですよ。何かこうグッと胸がこうなっちまいますよ、みたいな。その“こう”を歌いたいから俺等は。ハッハッハッハッ(笑)。

● “こう”っていうのは?

J:アルバムに対してみんなコンセプトを決めるじゃないですか。そういう型に嵌めていくのを1回やめて、ありのままの昔からの付き合いのまんまで、高校、中学校の時の気分で制作しようって事でアルバムのタイトルは一応『少年』なんですけど(二人の)名前は書いて無いんですよね。

紅:見ての通りヘンテコで。その何かを歌えれば俺はいいかな。その“何”ほど無限なものは無いので、普通に遊びまくってバビロンからも、俺はコイツのおかげで逃げなかったし。

J:ハッハッハ。鳥取の海で夜釣りしながら曲作りをしていて、そのまま夜釣りから帰ってきて、紅が乗ってた車が車検切れしていて、警察に止められてバレて。

紅:俺は隠すの嫌や思って「いけんかったら逃げるけど、バビロンから俺は逃げん」とか言い出して(笑)、「オイ」って止められて、「お前の連れじゃないのにオイって言うなお前、連れに言ってこい」みたいに子供っぽく反論しちゃって。そんな事を言えるのも少年じゃないですか。立ち向かうのが少年だなと思っちゃって、あの頃はタバコ持っていたからって「なんだよ」って言ったてたし、人間として逃げないというのはどんな音楽をやるより意味があると思っちゃって。そんなのをJも目の当たりに見ていて、そこで出来た音楽が「Badman Driver」だったり。

J:初めてですね、アルバムを制作していて捕まってもいいわと思ったのは(笑)。逆にプロモーションになるわって(笑)。

紅: Jも朝、俺に必要なものとか揃えてくれるんですよ、ビタミンC足りてないとか。凄いですよ、このJ-REXXXってやつは本当に俺をしっかりさせるやつで。少年のフリをしてるのかなって思う時もあるんですけど、これ以上の少年は無い。何か娘に会いたくなる感覚っていうか、1番大事なものを遠回しにしている部分みたいな、酒を飲んだ後が大事だったり、大口を叩いた後が大事だったり、雨が降った後が大事だったりするんだろうけど、自分が結婚した後っていうのを考えていなくて。

●結婚してるんだ。

紅:はい、結婚した後のことを1番最後にしてたなと思って、最近奥さんに「ちょっとは僕も苦労しますね」とか言える様になって謝ったりして。だから“何かこう”そのもどかしさみたいなのがもろに出た作品じゃな。その『The タイマンチーズ』の中に入ってる「Stay Dream」っていう曲とか、奥さんは初めて泣いたし、、、うるっと泣いていた。

●「MY TOWN」を作る時はREXXXから声をかけて、アルバムを作ろうって言ったのはどっちが。

紅:Jとそういう話しがあったら良いねって遊び半分で言っていて、Jもそれなりに考えてくれていたみたいで、Jから「前向きにちょっとやってみん?」みたいな連絡が来て、「おお、ええよ、やろうや」みたいな感じで、嬉しいし内心胸がドキドキで「MY TOWN」のあのノリで出来るんなら新しい自分が大好きだからのびのび作った感じ。

紅:最初は、まあミニ(アルバム)にするって言う話だったけどな。

J:曲がどんどんどんどん出来て早いんですよ。曲の内容にしても、物事を包み隠すのは止めよう、表現を変えて濁らせて、それを若い子が聴いて「なんか分からん」っていうよりも、現実に起こっている事をそのまま直接リリックにしようという観点で作ったので表現もストレートだし。

紅:そのストレート感をお互い持っとったから、「ガンジャ、ガンジャ、ガンジャ」ってノリで口ずさんだフレーズがそのまま曲になっちゃったり。ストレートな部分て大事だけど怖いんですよね。俺等が少年の時に怖くなっちゃってたら、いつ怖くなっちゃうのっていう話しで、まあ自分等の権利は自分等で作っていこうよみたいな感じ。

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JESSE ROYAL

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Interview by Ichiro Suganuma Photo by EC

「Modern Day Judas」のヒットやMajor LazerのWalshy Fireによるミックステーブ「Royally Speaking」のリリースなどもあり、ルーツ・リヴァイバルの中で頭角を現してきたアーティスト、ジェシー・ロイアル。最近ではGachapanとのEP「HOPE & LOVE」が日本先行でリリースされたばかり。「ソウル・レベル」に出演する。

石井 (以下、EC):今年のRebel SaluteとKingston Dub Clubでも会ったね。

Jesse Royal (以下、J) :そう覚えてるよ。ジャマイカにはよく来るんだね。

EC::84年から70回以上は行ってるし、90年代にはThriller U(現L.U.S.T.)のマネージメントを数年間やって6枚のアルバムと沢山のシングルをリリースしたし、友達も沢山いて大好きな国だよ。

●︎もうすぐジェシーが出る「ソウルレベル」なんだけど、いつもは日本人だけだけど、2007年の1度だけWayne Smithが出演したんだ。完全なシークレットゲストで、出演者もバンドも誰も知らなかった。

J:2007年?最近? グッドなショウだったのか?(映像をみて)ワォ!、自分の記憶とはちがうね。ドレッドにする前を覚えてるよ。バンドも彼が来るって知らされてなかったのか?女性のキーボードだね。

オカマイ:HOME GROWNはShabba Ranksとか色々なアーティストのバックもやったりしてるのよ。

●︎この年はこのまま「スレンテン」でオールキャストのラバダブ・ショウに突入、スゴかったよ。では改めて、簡単な自己紹介を。

J: St. James出身、父がMaroon、母方はOrangeでシティの外のカントリーサイドだ。父が95年くらいにモンティゴベイからキングストンに移り住んで母と自分と兄弟は97年に父のいるキングストンに移った。高校まではそこにいて、卒業してモンティゴベイに戻って農場で働いたりして、その後1年半ほどカナダの学校に行ってたんだけどうまくいかず、ジャマイカにまた戻ってきたんだ。

●︎音楽はどうやってかかわるようになったの?

J: 自分の祖母が聖歌隊のディレクターでモンティゴベイのバプティスト教会でオルガンを弾いていたから祖母と一緒に5〜6歳の頃はいつも聖歌隊の練習に行っていた。そこでたくさんの曲や音楽を学んだんだよ。母もシンガーで、今でも聖歌隊でうたっているよ。キングストンで学校に通うようになってから、Ziggy Marleyの息子のDanielと友達になって、リリースされる前のZiggyの曲を彼が歌ってくれたりして誰よりも早く聞けたんだ。だんだん音楽が好きだっていう事に気づきはじめたんだけど、最初は本気というよりは楽しみだった。ReasonとかFruity Loopsとかを使ってリズムトラックを作ってデモも録音もしたよ。ただのリビングルームでね。それが音楽キャリアの始まりかな。そうやって14、15歳ぐらいになってだんだん真剣に音楽に対しての姿勢や技術が育って、その時の経験が今はPalace Pikneyというレーベルを始める糧になっている。Danielってやつと「This Morning」のプロデューサーCurtとCrash Dummy Productionsの3人だった。
カナダから戻ってきて、人生にはやらなければいけない事があってそれをしないと幸せになれない、とそう思うようになり音楽を真剣にやるようになったんだ。Philip ‘Fatis’ Burrell(Xterminatorレーベル)の息子、Kareem ‘Remus’とはフットボールを一緒にやる仲で彼も音楽を作っていて一緒にやるようになった。その後、アンクルFatisが俺たちをフックアップしてくれて今までにない力を与えてくれた。アンクルFatisはとても素晴らしい影響を与えてくれた。2009年ごろだったかな。
 最初は従兄弟のDJ TALL UPと自分たちの曲でミックス・テープを一晩で作ったんだ。いつも録音していたから曲はたくさんあって、最初の『Misheni』と『Small Axe』の2つのミックス・テープができた。誰もチャンスをくれないし、誰も自分たちの音楽に無関心だったからとにかく聴いて欲しくて作ったんだ。ラジオで流すとかじゃなく、ただ同世代に自分たちのメッセージを伝えるにはミック・ステープを作るしかなかった。無鉄砲だったかもしれないけどそんなことは関係なかった。

●︎「Modern Day Judas」はどうやってヒットしたのですか?

J:どうやってヒット曲が生まれるのかは分からないけど、あの曲のヴァイブレーションはOverstand EntertainmentのプロデューサーWinter Jamesがくれたんだ。WinterはDamian Marleyのキーボードを担当していたりする知り合いで、ある時ライブの際にキーボードを弾いてくれたんだ。そのショウの後、すごく褒めてくれて、リズム・トラックがいくつかあるからそれで歌うように勧めてくれてその一つがRootsman Riddimだったんだ。1週間後にBig Yard Studioでレコーディングしたんだけど、こんなにヒットする楽曲になるとは思っていなかった。とても個人的なリリックで、人が優しさを弱さに捉えたり、謙遜を愚行だと思ったりするそういうところからこの曲ができている。ライブでこの曲を歌っていたら、みんなが反応し始めていつの間にかラジオでもプレイされるようになったんだ。

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tha BOSS 

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Interview by 平井有太(マン) Photo by cherry chill will , Susie

THA BLUE HERBのフロントマン、ILL-BOSSTINO=tha BOSSがソロを出す。
 前回のインタビューは、三宅洋平氏が出馬した2013年参院選の投票日当日。最後に会ったのは、これはまったく予想外に、愛知県豊田市で開催されるフェス「橋の下音楽祭」にて。そして今回は9月15日、「明日には安保法案強行採決か」という(結果、採決は19日未明)、その最中。
 「橋の下」については、曰く「去年は出演して、今年は遊びに行って、オレ、ウッドストック知らないけど『これ知ってたら大丈夫だ』って思えるくらい」。「あれは、カルチャーショックだった」と、ジャンルを超え、強い表現から受けた衝動を真っ直ぐ受け止める、BOSS氏。
 その上で、これまでも、これからも、嫌というほど向き合っていくヒップホップに捧げた、初めてのソロ作品。
 アルバム・タイトル誕生の裏にあった邂逅、うねり続ける世の中で言葉を紡ぎ続ける行為について、聞いた。

●ソロのアイディアは、いつから?

BOSS(以下、B): 前作『TOTAL』をつくり終わった直後だね。

●できあがったものに『TOTAL』とつけるくらいのものを完成させてから。

B:オレとO.N.Oという、1対1でつくるヒップホップとしては、かなり表現を極めちゃったんで。あの70何分かに込められてる、1秒ずつの緻密さ、精密さというものに対してパーフェクトなところまでいって、「次また5枚目のアルバムか」って、とても言えないくらいのでかい山を登って、降りてきたので。
 ヒップホップって、「色んな人のビートでライブをする」っていうのも楽しみの一つで、プロダクションではオレとO.N.Oだけだけど、ライブは割と、自分の好きなインストとかを使ってやってきた。そういう意味でも、「日本のビートメイカーと『illmatic』みたいなアルバムをつくってみたい」、そういう夢はあって。

●頭にあったのは『illmatic』なんですね。

B:間違いない。『illmatic』は自分の中に永遠にあるね。

●ソロでやることに対して、O.N.Oさんは?

B:オレからは「ソロをやり遂げたら、またO.N.Oのトラックに戻ってくるよ」、「OK、それまで磨いておくよ」くらいの一言、二言のメールのやりとりだったと思う。

●短いですね。

B:もう20年以上だからね。本人も絶対、「いつかやるだろうな」と思ってたと思うし。

●今回のソロ、または今までのアルバムも含め、時代の流れをどこまで見ながら、つくっているんでしょう?

B:『TOTAL』は思いっきりそうだった。今回に関しては、(安保法案や国会前のデモのタイミングは)はっきり言わせてもらえれば「アルバム完成に合わせて向こうからやってきた」って感じだよね。でも正直、今回のアルバムは、つくってる時の段階では、世の流れはそんなに意識していなかった。とはいえ自分の思想、立場ってものが明確になりやすい時代だし、311直後の『TOTAL』はそれが最も際立っていた。あの頃、感情的にほぼみんながある方向に揺れる時期というか。でもあれから時間が経って、向こう側への揺り戻しもたくさんあって。

●結果、政権をとってるのが安倍首相です。

B:気付けばオレらがとった立場が少数派になっちゃって。でもそういう立場を、今回も曲の中では明確にしているし、実際『TOTAL』の時、自分の立場が少数派だとは思ってなかったのね。
 そこで、今まさに少数派と言われているやつらが、自分たちの声を届けるために頑張って色々やっているというのは、「リンクしてるな」とは思う。狙ってたわけじゃないけどね。

●そこに、「ここからだと 煽っていくのがラッパーっしょ」というラインが、はまります。

B:あのバース一つとっても、そこに込められていることはオレ自身のことなんだよ。でも「今の時代がそれをそうさせない」というか。

●好きに解釈して欲しい。

B:好きに使って、コスッて、サンプリングして、ループして欲しいって感じだね。

●今回のプロデューサー陣、中でも2曲やられているのは、KAZZ-Kさんと、INGENIOUS DJ MAKINOさん。

B:その2人も、他のみんなも、すごい職人だよ。

●皆さん、どんな基準で選ばれたんですか?

B:基本的にはここ18年のマイク稼業の間に出会って、友達になって、ビートをつくってて、それがファットで、という人だよね。割とみんな、超ベテランよ。みんな東京なわけじゃないし、それぞれの街にライブで呼ばれた時に出会ってリンクして、という感じの人たちだね。

●特に印象的なエピソードは?

B:INGENIOUS DJ MAKINOは小倉に住んでる人間なんだけど、小倉はある意味、あの時代のシカゴに近いというか、なかなかハードな街に住んでて、同い歳で。彼がオレにビートをくれたのは3、4年前。それからずっとオレはライブ活動してて、彼はこの日が来るのを待っててくれて。そういう人たちが多い。長い時間の中で、「やっとできたね」って人がいっぱいいる。
 DJ YASは、2000年初頭にレコーディングして、その時オレはギャラをもらってなくて、「いつかビートで返してよ」って言ってて。だから今回、YASに電話して「いつかの約束覚えてる?」って言ったら、「もちろん覚えてるよ」。「ビート、用意するよ」って、結構みんなそういう、仁義だね。
 だからここに、金で買い叩いたトラックは一つもない。この18年間ヒップホップやってきて、オレなりに、こんなどうしようもなく調子のいいチャランポランなやつなんだけど、それでもなんとか誠実にやろうとして生きてきた。色んな人を傷つけもしたし、怒らせも、モメたりもしたけど、それでもこれだけの人達と一緒にアルバムをつくるところまでこれた。ありがたい。

●先ほど『illmatic』の話がありました。今回の作品には確かに90年代、あの時代の手触りがある気がしました。そういう音を希望したわけではない?

B:実際オレもその時代のヒップホップが入り口だし、それに対してブルーハーブでのO.N.Oのトラックっていうのは、そこから飛躍したことによって個性的なものが、突然変異的に生まれたという。

●ブルーハーブの音は必ずしもあの頃の音ではないですね。

B:全然違う。むしろ「そこから自由になろうとした結果できちゃった」というのが、正直なところ。

●DJ YASさん、KRUSHさんのトラックが、あまりの“ドープシット”でした。このタイミング、この機会でこれを出してくるのかと。あれは、いくつかの中から選んだのか、ピンポイントであれだったのか。

B:YASもKRUSHさんも、ほぼあの一個だったね。オレが先にリリックを送って、その上で送ってくれて「これでいきましょう」って。

●フィーチャリングのラッパー陣は?

B:ビートメイカーと同じで、この稼業の中で出会って深めてきた友達というか、歳も全然違うんだけど、オレが「友人だ」と思ってる人だよね。みんな、長年世話になった、それぞれの地元に招いてくれた人たちであり、B.I.G. JOEにいたっては同じ札幌で20年以上だし。YOU(THE ROCK★)だけは、またちょっと違ってね。

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Peter Barakan x Rankin Taxi [アナログ談義]

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Text by Hajime Oishi (大石始) Photo by cherry chill will(sole)

ランキン・タクシーとピーター・バラカン。長年の音楽愛に支えられた発言と活動により、多くのミュージック・ラヴァーから熱烈な信頼を得ている両者は、80年代からシンパシーを寄せ合う関係でもあった。今年4月に出た最新作『RUFF GUIDE TO…RANKIN TAXI』のアナログ盤でのリリースを控えているランキン・タクシー。そして、アナログ盤だけをかけるラジオ番組『アナログ特区』(FMヨコハマ)のパーソナリティーを務めるピーター・バラカン。そんな2人によるスペシャル対談をお届けしよう。

●お2人が初めてお会いしたのはいつ頃なんですか。

ランキン・タクシー(以下、R):覚えてないなあ……。

ピーター・バラカン(以下、P):僕がM-On TVで「PBS」というテレビ番組を持ってたときに出てもらったこともあるし、ラジオのゲストに呼んでくれたこともあるよね。FM802の番組(『Natty Jamaica』)。

R:それも2000年ごろだったと思うな。

P:だから、案外後なんですよ。でも、ランキンさんの一番最初のアルバム(89年の『火事だあ』)を鷲巣(功/当時のランキンのマネージャー兼プロデューサー。現・首都圏河内音頭推進協議会議長)さんから渡された段階でブッ飛んだんです。特に“誰にも見えない、匂いもない”。僕が日本に来たのは74年で、その前の時代のことは知らないけど、社会的な意識を反映したああいう音楽をやる人は日本にいなかったと思う。

●じゃあ、まずはランキンさんの楽曲が持つ政治的メッセージの部分で……。

P:(質問を遮って)僕にとっての『政治』というのは誰にも分からないことを踏ん反りかえって難しい言葉で話す嫌味な親父たちのこと。僕が言ってるのはみんなの日常生活に深く関わることで、そういうことについて話すのは当たり前だと思ってるんですよ。チェルノブイリの原発事故が起きたのは86年で、あの曲(“誰にも見えない、匂いもない”)が出たのはその3年後だよね?

R:そうですね、はい。

P:あの当時、原発事故に関する情報はメディアにもほとんど出てこなかった。そういうときにあの曲を聴いて、『こんなことをやってる人がいるんだ!』と思ってビックリした。しかもね、ユーモアがあって笑いながら真剣に聴かせてくれた。こういう表現は西洋にもあまりないですよ。

R:私はフランク・ザッパの影響だと思ってますけどね。リリックが全部分かるわけじゃないけど、彼は皮肉や笑いを入れるじゃない?レゲエにもそういう皮肉はたくさん入ってるし。

P:そうか……フランク・ザッパは意外だったな。初期のほうが好き?

R:そうですね。『What’s the ugliest part of your body~』とかね(フランク・ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンションの68年作『We’re Only In It For The Money』収録曲、“What’s The Ugliest Part Of Your Body?”)。あのあたりを聴いて『格好いいなあ!』と思ってたんです。

P:ランキンさんのアルバムは出るたびに聴かせてもらっていたんです。“信ずる者は…”とか“役人天国”、“ロック・ザ・スクール”も好きでしたね。どの曲もラジオでバンバン流れたらいいんだけど。

R:当時テレビで歌ったこともあるけど、やっぱり(検閲の)チェックは入ってましたね。

●メディアでどう発言していくか、どう歌っていくか。お2人はそういったものとも戦い続けてきたわけですよね。

P:戦うというか、どこか諦めながら続けてきたというか。

R:ブツかってハネ返される、その繰り返しですよね(笑)。

●ただ、実際にお会いしていなかった80~90年代でもお互いへのシンパシーはあった、と。

P:少なくとも僕にはありました。

R:私にもありましたよ、もちろん。

●で、今回はレコードをテーマとした対談ということで、お2人に思い入れのあるレコードを3枚ずつ持ってきていただきました。ランキンさんは非レゲエ、ピーターさんはレゲエのみという縛りで。ランキンさんの一枚目は?

R:じゃあ、まずは中学生のときに買ったこれを(65年にロンドン・レコーズから出たローリング・ストーンズの編集盤『Vol.2』。)。日本盤なので、キース・リチャーズが『ケイス・リチャーズ』って書いてありますね(笑)。“Under The Boardwalk”(オリジナルはドリフターズの64年曲)やってるんだよ?

P:僕が生まれて初めて聴いた“Under The Boardwalk”、ドリフターズじゃなくてストーンズだったの(笑)。

R:そうなんだ!(笑)“Time Is On My Side”も入ってるね。

P:これは当時買ったの?

R:そうそう、中学生のとき。(リリースが)65年だから、中学校2年のときかな。

●ピーターさんの一枚目はなんでしょうか。

P:ウェイラーズの『Catch A Fire』。僕が初めて聴いたレゲエのレコードですね。その前にデズモンド・デッカーの“007”とか“Israelites”はラジオで聴いてたんですけど、スキンヘッズという恐ろしい存在のため、ジャマイカの音楽に距離を置いている時期があったんですね。そんなとき、レコード店で一緒に働いていたジャマイカ系イギリス人がある日、『お前に聴かせたいレコードがあるんだ』といって出たばかりの『Catch A Fire』を聴かせてくれたんですね。

●どうでした?

P:かけた瞬間にブッ飛んだ。あの重いベースとゆっくりしたリズム!

R:(プロデューサーである)クリス・ブラックウェルの指示で、ギターがオーヴァーダブされてるよね。

P:それもすごく格好よかった。あの音じゃないと、当時レゲエのことをほとんど知らないイギリスのロック・ファンは見向きもしなかったんじゃないかな。

R:『Catch A Fire』はまた凝ったジャケットでしたね。

P:そうそう、ジッポ型の。あれもびっくりした。ただ……何よりもあの音ですよ。人生で初めてあんな音に出くわしたんですから。

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SKA FLAMES30th Anniversary 

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Text by Takeshi Fujikawa(藤川毅) Photo by Akihisa Okumoto(Kill Office)

 スカ・フレイムス30周年ライブが8月22日に渋谷クラブ・クアトロで開催された。これは結成当時からスカ・フレイムスを見続けてきた藤川毅によるノート。

 僕が初めてスカ・フレイムスを見たのは86年、吉祥寺のライヴ・ハウス曼荼羅。トマトスとの組み合わせによるものだった。2回目が87年のモッズ・メーデー。僕の記憶では、前年のモッズ・メーデーにも大阪のモッズ・バンドの代打としてスカ・フレイムスは出演していたはずだ。

 87年のモッズ・メーデーは伝説だ。ローレル・エイトキンがポテト5と初来日、そしてそのフロント・アクトとしてのスカ・フレイムスの登場だったのだから。ジャマイカのオリジナル・オーセンティック・スカの日本での第一歩と言っても大げさではない。ローレルは、僕らの世代にとってはLP3枚組の赤箱『トロージャン・ストーリー』の1曲目「バーテンダー」でお馴染みの本物のジャマイカン・スカ・アーティスト。オリジナル・ジャマイカン・スカ・アーティストの初来日がモッズのイヴェントだったなんて、ちょっといい話じゃない? 今では故人となってしまったローレル・エイトキンだが、この来日のころ、ジャマイカ人シンガーのフロイド・ロイドとイギリスのバンド、ポテト5、さらにそこにローレル・エイトキンを加えたアルバム『Floyd Lloyd & The Potato 5 Meet Laurel Aitken』がギャズ・メイオールのレーベルの第一弾アルバムとしてリリースされ、ローレル・エイトキンが再評価されつつあるという絶好のタイミングだった。このアルバムからの「サリー・ブラウン」の映像は、当時TBSで放送されていたピーター・バラカンの音楽番組、ポッパーズMTVでもOAされたと記憶している。この87年あたりからスカ、ヴィンテージ・ジャマイカン・スカの再評価の機運は徐々に高まってきていた。

 70年代末の2トーン・スカ・ブームで80年代の初頭まではスカの人気はあったけれど、80年代の半ばにはその人気は落ち着いた状態だった。メジャーな日本制作の音楽シーン、レコードの世界を振り返っても70年代末から80年代の初頭ぐらいまでは、多くのミュージシャンやアーティストがスカやレゲエのスパイスを作品作りに活かしたけれども80年代の半ばぐらいにはそういった使われ方も大変少なくなった。何を言いたいかというと、80年代初頭のこの時期は、トレンド、流行としてのジャマイカ音楽の後退期と言えるかもしれない、そんな時期だったということだ。

 しかし、そんな時期にミュート・ビートの前身であるルード・フラワー、そしてミュート・ビートが動き始める。ミュート・ビートはご存知のように日本のクラブ・カルチャーの原点ともいうべき原宿ピテカントロプスを拠点にしたバンドだった。ミュートが結成された少し後の84年にスカ・フレイムスは結成された。実質的な活動のスタートは85年からだったというが、首謀者はオリジナル・メンバーのニッカこと西川和正。彼が渡辺浩司を誘い、渡辺は専門学校の同級生だった長井政一らを、さらにプレイヤー誌のメンバー募集欄に「当方、ブルース、ジェイムス・ブラウン好きのギタリスト」という一文を見つけた西川が、ベーシストとして宮崎研二を誘った。その後のリハーサルにギタリストとして宮永桂が参加。リハーサルを重ねるうちにお互いの楽器に違和感を感じていた宮崎と宮永が楽器を持ち替えてスカ・フレイムスの原型ができた。85年2月の吉祥寺曼荼羅が初ライヴ。その翌月に紫垣、伊勢が加入する。

このようにスタートを切ったスカ・フレイムスの面白いところは、ライヴ・ハウスではなく、クラブを中心に活動することが多かった点だ。時は日本のクラブ・カルチャーの黎明期とも重なる。当時のロックを中心とするライヴ・ハウスでは、彼らのような音楽を受け入れる環境にはなかったわけだが、クラブは、新たな音楽の視野角を提供し、幅広いジャンルの音楽を取り込み、マニアックなレコードを掘る作業やアートやファッションとも結びつき、クラブの音楽、カルチャーは躍動し始めていた。そんな中、オーセンティック・スカ・シーンにおける牽引者は紛れもなくスカ・フレイムスだった。スカ・フレイムスが産声をあげたのが80年代半ばだったというのが、僕にとってはとても重要だったように思える。80年代末から90年代に突入すると、日本では本格的なクラブ・カルチャーが始まり、ジャンルの細分化が起こり、ジャンルごとの専門クラブができるようになる。しかし、80年代の半ばまでは、ジャンル分けは実に曖昧であったし、どこのクラブも曜日や場合によっては時間ごとにかかるジャンルが変わるところもあるなど、ジャンルをまたいで音楽を楽しむという感じだった。また、クラブの数がそれほど多くなかったので、数少ないクラブには幅広い世代の人たちが集まっていたのもこの頃のクラブを豊かにしていたように思う。

 スカ・フレイムスがクラブ・シーンを巻き込みながら日本のオーセンティック・スカ・シーンを切り拓いていくにはその先駆者となる人たちの存在も避けて通れない。先にあげたミュート・ビートもそうだし、渋谷道玄坂の酒場、ブラック・ホークにて、後に『レゲエ・マガジン』となる『レゲエ82』や『サウンド・システム』を発行していた加藤学や山名昇、藤川理一が中心となっていたレゲエの鑑賞会など、ジャマイカ音楽を深く理解しようという動きが日本でも起きていたことは無視することはできない。30周年ライヴのMCで宮崎は、松竹谷清のことを「かつてブラック・ホークなどでお世話になった先輩」という表現をしていたが、松竹谷清は、スカ・フレイムスの初期の対バンだったトマトスというジャンルを縦横に乗り越える素敵なバンドのリーダーであっただけでなく、日本における本格的なジャマイカ音楽の受容における初期の現場にいた人でもあった。もちろん30周年ライヴに登場した日本の草分け的なレゲエDJにしてサウンド・システム・マンであるランキン・タクシーもその中にいた一人だったし、実はこの日のライヴに出演した鮎川誠もブラック・ホークの常連だった。さらに付け加えるならば、この日のゲスト・アクトにエゴ・ラッピンの名前があったことも僕をニヤリとさせるものだった。エゴ・ラッピンこそ、バンドでありながらクラブに寄り添いジャンルレス、ボーダレスに活動し、ジャンルレスだった頃のクラブの香りを今に伝えるグループだから。30周年ライヴの全体のトーンは、スカ・フレイムスがスタートを切った時代のクラブの雰囲気が充満していたと言っても良いと思う。

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Keith Hufnagel and HUF

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Interview by Yosuke “CB” Ishii

 僕がSFに住んでいた97年から05年の間、KeithもちょうどSFに住んでいた時期があった。僕は、SFのReal Skateboardsの“Non Fiction”というビデオを何度も見ていてSFを心底愛するようになり、SFでスケートしている自分が誇らしかった。そのビデオのKeithのパートは最初の2秒間でアドレナリン全開にさせられた。それはクルマのボンネットをオーリーで飛び越えるシーンで、何人の友人達に「このオーリーがシビれる!」と熱く語った事だろう。
 そして初めてKeithとスケートをした時だ。いくつかのスポットを廻ったが、自分が滑れるようなスポットはなかなか無かったが、やっと僕でもトライだけなら出来そうだと思えたスポットに到着した。だがスタートから5分でオーリーマスターの目の前で、歩道に乗るだけの30cmのオーリーで鬼ハングし、その日はあえなく終了。それが彼にウケたのか、それ以来の友人だ。

●HUF Tokyoのオープンおめでとう! とても良い場所に良いストアです。

Keith Hufnagel(以下、K):ありがとう。

●実は7月、LAのFairfaxにHUFが再オープンした時にもオープニング・レセプションに行ってKeithに会いましたね。で、その時に凄く気になったのがKeithがウィールのMetropolitanのCapを被っていたんだけど、今後はMetropolitanのプロダクツを作っていくんですか?

K : 僕は95年から98年くらいのMetropolitanがなくなるまでのライダーで、スタートからあのブランドが発展するまで大きく関わっていたんだ。それで1年半前にJim Thiebaud(サンフランシスコのDLX Distributionの副社長)にMetropolitanの権利について聞いたらJimが僕にくれたんだ。だから商標を申請して、新しいカンパニーとして甦らせたよ。Metropolitanは僕がゆっくりとやっていくよ。

●DLX Distributionが所有していたブランドだったんだね。僕はてっきり東海岸のどこかが作っていたブランドかと思っていました。

K : うん、確かに東のイメージが強かったね。当時は西海岸と東海岸の交流が少なかったからDLX Distributionが東海岸のスケーターを集めてロゴを作って上手くやっていたんだけど、ある時DLX Distributionがもう一つのウィール・ブランドのSpitfireを休止するか、Metropolitanを休止するかという話しになってMetropolitanを活動停止にしたんだ。それで今僕はMetropolitanをスケートアパレル・カンパニーとして復活させようとしてるんだ。だからウィールはやらないよ。どう?CB的にも良いアイデアだと思わない?

●うん、それはイイネ! ここ最近は90年代のグラフィックやデザイン、ファッションなんかも再注目されているしね。僕もCB DistributionとしてLAに住むChrisがやっている“Dear,”というブランドを去年から取り扱い始めたんだ。90年代にGonz(マーク・ゴンザレス)が着ていたIsraelのTシャツやJason Leeが着ていた$のTシャツ、Sean Sheffeyが着ていたアインシュタインのTシャツ、Ray Barbeeが被っていたRBキャップとかを作っているんだ。“Dear,” って知ってる?

K : 知らないな、ちょっと今ウェブで調べるよ。

●最近だとH-StreetのTシャツなども作ってたよ。

K : H-Streetは最近復活したからそれってブートになるんじゃないの?

●そうそう(笑)、ChrisはH-Streetが復活する直前に作ってたんだけど、この前Tony Magnussonに注意されたみたい。それでTonyの大ファンが高じて作っちゃったって言い訳して、もうこれ以上作らないという事で許してもらったらしいよ(笑) 。でもChrisはDLX Distributionが抱えていた(トラックのゴム・パーツ)ブッシュ・ブランド、Supercushも作ってたよ。でもそれはDLXへ行って許可を貰ったって言ってたね。

K : だろうね。クソ~、“Dear,”か。それもSupercushを作ったのか、、良いなぁ。良いの見つけるね、Fuck’n CB!!

●ははは、KeithはNY、LA、SFというアメリカの3つの大都市に住んできたんだけど、スケーターとしてこの3都市のそれぞれの良い所はなんでしょう?

K : まぁ住んだ年代も違うから難しいけど、NYは僕にとって間違いなくホームだし、プッシュで簡単に色々廻れる街だけど、四季もあるし街の地形も違うし路面はとにかくラフだから難しいよね。初めてSFに行った時はダウンヒルをたくさん経験した。NYではカーブやレッジやフラットが好きだったけど、SFはダウンヒルを学んだって感じかな。LAはそれらが全てある感じかな。ただ、NYやSFの様にプッシュでまわれないからドライブしてスケート・スポットを巡ることになるけどスケート・スポットの数でいえばLAが一番あるんじゃないかな。僕はNYで育ったしNY流のストリート・スケーティングが好きだけど、今はLAのパークで滑っているよ(笑)

●どこに行ってるの?

K : この前パサデナのパークへ子供と行ったくらいかな。あとはたまにBerrics(Steve BerraとEric Koston二人のプロが始めたインドア・スケートパーク)へ行ったりとか。最低限のスケートしかしてないからもっとしたいんだけどね。

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