Interview by Shizuo”EC”Ishii Translated by Ichiro Suganuma
Lloyd Barnesにインタヴューの約束をしていた。NYを代表するレゲエ・レーベルWackie’sのボス、Bullwackieのことだ。だがその約束の日に何度電話をしても応答がなかった。何となく気になっていて数日後、彼の誕生日にSkypeをしてみると心臓バイパス手術で入院し、昨日退院して来たと言うではないか。
「それではまた1週間後に」と約束して電話を切った。
●手術後1週間経って調子はどう? インタヴューできるかい?
Lloyd Barnes(以下、B):気分は前よりずっといいよ。まだ家で休んでいるけど、でも大丈夫だ。
●まず子供の頃の話から、Lloydはどのような環境で育った?
B:私の父は私が8歳の時に死んだんだ。私が生まれた第二次世界大戦のころ彼はジャマイカの軍人だった。私が生まれたのはトレンチタウンのジョーンズタウン。あの地域はジャングルと呼ばれる以前はゴミ捨て場だった場所だ。そこの生活も悪くなかったよ。兄弟姉妹とともに公立の学校に通っていた。母と住んでいたんだ。母は裁縫した服をマーケットで売ったりしていた。自分も裁縫を学んで助けるようにしてた。その後仕立ての仕方を学んで男性用の服をつくったりもした。興味があったんだ。Stranger Coleの服を作ったりしてたんだよ。彼とは幼なじみで、一緒に育ったんだ。Ken BootheやGladdy(Gladstone Anderson)らも皆同じ地域の出身なんだ。だからそこにはいつも音楽が溢れていた。内装や室内装飾をやってたこともある。クリケットやサッカーが好きで遊んでいたよ。
当時はスカが全盛だった。つまり初期の頃だ。私はDuke Reidのトレジャー・アイル・スタジオによく行くようになっていた。Stranger Coleもそうだった。彼はDuke Reidと多くの仕事をしていたからね。 あとはSkatalitesだ。彼らとも当時はよく一緒にいたんだ。Prince Busterのために歌ったこともあった。子供の頃だ。ずいぶん昔の話さ(笑)。Prince Busterとレコーディングした曲の一つは「While I was walking」だ。スカのスタイルの曲だった。あと子供向けの曲で「Ging Gang Goolie」をスカのスタイルでやったこともあるんだ。ミュージシャンはJohnnyがドラムで、Leroy (Sibbles)がベースでね。いつも音楽の近くにいたんだ。
●それは何年ごろのことですか?
B:60年代の初めごろだ。アメリカに来たのが1967年だからね。その頃はトレジャー・アイル・スタジオにいつもいたよ。当時、Stranger Coleがレコーディングセッションを仕切っていることが多かったからね。Tommy McCookもDon Drummondもいたよ。それはずっと初期の話だ。Prince Busterが「Wash Wash」とかを歌っていた頃だった。その頃、Muhammad Aliが彼を訪ねてジャマイカに来たことがあるんだよ。
●えっ、本当?
B:そうだよ、Prince BusterとMuhammad Aliは友人だったからね。Prince Busterがボクサーだったのは知ってるだろ?ムスリム(イスラム教徒)という共通点もあってね。Prince BusterはMuhammad Aliに「俺と戦ったら2ラウンドでノックアウトで勝利する」と彼に冗談を言い合うくらい二人は同じような性格で気があっていたんだ。
●ロイドはなぜNYに移ることになったの?
B:当時のジャマイカは政治的な対立が激しくてキングストンは治安がよくなかったんだよ。それ以前はジャマイカのどこに出歩こうが全く問題なかったのに、政治的な紛争が全てを変えてしまったんだ。ジャマイカを分断してしまった。それは音楽にとって良くないことだった。たくさんのシンガーが、住む場所の違いで対立しあわなければならなくなってしまった。政治的なことに関わりたくはないけど、普通にいつも行ってた場所に突然行けなくなったんだ。若い奴らにとっては気に入らないことだった。自分はBunny WailerやPeter Toshと同じエリアに住んでいて、Bob (Marley)もそこで練習していたよ。White Streetだ。いつもBongo Jerryがギターを弾いていた。 初期の話だ。その頃二人のキーボーディストがいた。一人はTheophilus Beckfordだ。ボグジーってよばれてた。彼自身が歌ったのも何曲かあって「Easy Snapping」という曲は彼のだよね。彼はトレンチタウンの出身だ。もう1人が”Gladdy”Anderson。その頃良く一緒にいたシンガーはKen Boothe、Stranger Cole、Patsy(Millicent Todd)らだった。Gladdyはその時代のキーボード・プレイヤーだった。とても良い時代だった。Jackie Mittooはそのあとだね。
●どうやってNYで自身のスタジオやレーベルを始めたの? それはなぜですか?
B:NYに来た時に思い描いていたヴィジョンがあったんだ。当時ジャマイカではスタジオに行っても、なかなか楽器や機材に触れることはできなかった。誰もが何にも触っていけないし参加するのがとても難しかった。だから自分に言い聞かせていたんだ。いつか自分も自分のモノでプレイするんだ。そして他の人々も触れられるようにとね。もしキーボード・プレイヤーになりたいなら、キーボードに触れてもいいとね。ジャマイカではとても厳しかったんだ。ミキサーなんてエンジニアしか触れなかった。エンジニアになりたくてもミキサーが触れなくてはどうしようもないからね。楽器を所有していたら誰にも触らせたくなかったんだ。だから自分でやろうと思ったんだ。NYに引っ越して来て建設現場で働いたし、学校で学んだ室内装飾で働いたんだ。そしてある日稼いだ全てのお金をもってミュージック・ショップに行ったんだ。ドラム、そしてミキサー卓、、、すべてのお金をつぎ込んで買ったよ。マンハッタンにSam Ashっていうミュージック・ストアがあって、当時所有していた大きなシボレー・インパラのステーションワゴンで乗り付けて全ての機材を乗せてブロンクスに戻ったよ。それ以来、以前の職場に戻ることはなかった。それから毎日毎日自分のスタジオを作ることだけに没頭した。それはすごくタフだったけど、それが心から自分のやりたいことだったからね。そうやってスタジオが少しづつ機能し始めたら、ジャマイカから友達がNYに来た際に立ち寄ってくれるようになって次第に良くなっていったんだ。
●いつからWackie’sを始めたの?
B:70年代の初めごろ、自宅で始めたんだ。サウンドシステムをやっていて自宅でダブプレートを録音するようになったのが最初だ。ブロンクスの211ストリートにあった。それが70年代の後期から80年代にかけてだね。実は最近リリースしたJoe Morganは、その211ストリートのスタジオで80年代頭にレコーディングしたんだ。みんなが興奮していた。いいものは永久に続くんだ。
●そこからまた移るんだよね?それはどうして?
B:そこは地下にあるスタジオだったから、上の階で水の配管トラブルが発生してスタジオが水浸しになってしまったんだ。だからもう地下は勘弁だ。それで4731 White Plains Roadに移った。そこががWackie’s House of Musicだ。そこに13年ぐらいいて、80年過ぎくらいかな、Sonny(落合/石井の実弟)に出会って、OVERHEATのことを知ったんだ。ニュージャージーのSonnyの家の地下にWackie’sが移ったり、もうずいぶん昔のことだね。今でもこうやって石井と話をする。とても嬉しいことでとても尊敬してる。違う所で違うことをやっているが自分にとってOVERHEATはWackie’sだと思っている。お互い心を込めてやっている。関われてとても嬉しく思うよ。
日本に行った時、日本の人々は色々良くしてくれた。ある日のことだ、ステージショウの前にバックステージのずっと奥に連れて行かれてジョイントを渡されて「ジャマイカ、ジャパンはジャーピープルだ」ってその彼は言っていた。ずいぶん昔の話だけどよく覚えてるよ(笑)。