Inteview by Yosuke “CB” Ishii Photo by Masataka Ishida
Keith Hufnagelの“HUF原宿”のオープニングでトッド・フランシスが来日。あのAnti Heroのイーグル・ロゴのデザインや一筋縄ではいかないシニカルなアートワーク、そしてKeith Hufnagelとの出会いについて聞いた。
●昨年全米をツアーしたアートショウ”Worst of the Worst”はいかがでしたか?
Todd Francis(以下、T):とっても楽しかったよ。色々と準備が大変だったけど沢山の人が来てくれたし、とても良い時間が過ごせたよ。すごく価値あるものだったと思う。ニューヨークから始まったんだ。ブルックリンのHouse of Vansで開催したんだけど、H09909(ホラーと読むらしい)のバンド・プレイも素晴らしかったし、とても大きなイベントだった。その後はバンクーバー、サンフランシスコと周り、最後はロサンゼルスのShepard Faireyが所有しているSubliminal Projectsというギャラリーでやったんだ。僕が今住んでいるのはロサンゼルスだから、僕の家族や古くからの友人も集まってくれて、彼らはあまり僕の作品を見たことがなかったから、それも最高だったよ。
●そこではアートは販売していたのですか?
T:過去のアーカイブのデッキは展示だけで販売はしなかった。だけどそのショウの為にAnti Heroから以前出したJulien Strangerのデッキで犬が警官の顔に噛み付いているK-9というモデルだけは150本だけ作って販売したよ。オリジナルアートもきちんとフレームして、いくつかのペインティングを販売したよ。オリジナルのAnti Heroのアートグラフィックは買えたんだ。
●羨ましい!! 最近は誰と仕事をする事が多いですか?
T:Anti Hero, Vans, HUF, あとは雑誌のPenthouseには挿絵を送ってるよ。それ以外でも小さい仕事は定期的にあるけどね、最近はEmojiカンパニーのEmoJamというアプリとも仕事してるけど、メインは最初に挙げた4つのブランドかな。
●DLX Distribution(サンフランシスコにあるAnti Hero, REAL Thunder, Krooked, Spitfireを抱えるスケートボード・ディストリビューター)で働き始めたきっかけは?
T:カレッジを卒業した後にサンフランシスコに引っ越したんだ。それが1993年でDLXが人材を探していると耳にして、自分のポートフォリオを握りしめてDLXへ車で行って採用してもらった。まあ最初はたいした仕事じゃなかったけど商品の制作アーティストで、それ以来ずっとやっているね。もうすごく昔の話みたいだよ。
●Anti Heroの、あのイーグルロゴはどのように生まれたんですか?
T:ちょっと笑える話なんだけど、Anti Heroがスタートした時にはすでにいくつかロゴがあったんだ。その頃はボードのグラフィックの方が優先で、Anti Heroにとってロゴはあまり重要視していなかったし、どれもハマってるってほどじゃなかった。そこにピジョンのロゴが生まれて僕たちは凄く気に入っていた。だけど残念なことにあまり売れなかったんだ。Anti Heroはまだ1歳にも満たない時期だったし、スケートボード業界もまだ小さなものだったからね。そんな時にREALとAnti Heroが合同でツアーに出かけて、彼らが留守だった時に当時のDLXの社長だったJeff Klindtがアートルームへやって来て、「ピジョンはやめろ、もっとタフでアメリカを象徴するようなもので、デッキにうまくハマる新しいロゴを考えてくれ」と言ったんだ。それでタトゥーの本などを引っぱり出したりして94年か95年にあのイーグルに行きついたんだ。
●それじゃあ基本的にはToddのアイデアということで良いのかな?
T:うん、まあ、そうだね。でもJeffがタフなモノって言ってきたからでもある。典型的な愛国心を現すイーグルではなくてもうちょっとタフでタトゥーっぽくてバイカーっぽいイーグルになったね。
●イーグルとピジョン以外では他にどういう候補があったんですか?
T:ひとつは炎と水がミックスされたロゴとか、タトゥー・タッチの海賊船の帆にAnti Heroと書かれているものだったり、あとは自分で自分の顔にパンチを入れているものだったり、見ざる聞かざる言わざるの三猿を書いたり、スーツにネクタイを締めたビジネスマンなんだけど歯がないものとかね。それはデッキにはとてもフィットしていたんだけどTシャツのデザインには合わなかった。でも当時は本当にロゴに関しては全然気にかけていなかったから正式なロゴが決まるまでは時間がかかったんだ。
●Anti Heroはブランドが立ち上がった当初からChris JohansonやJef Whiteheadのデッキを出していて、他とは異なっていましたがそれは誰のアイデアだったのですか?
T:Julien Strangerは彼ら2人と仲が良くてJef Whiteheadが初めてAnti Heroのデッキをやった時はJefがタトゥー・アーティストとして名前が知られるようになる直前で、Chris JohansonにしてもAnti Heroのデッキをデザインした時はアーティストとして有名になる前の話しだよ。彼らから送られてきたデザインを僕がどのようにデッキに落とし込むかを話し合いながらやったんだ。でもそれが終わってしまうと次に何か他のものをやらなければならなくなり、もうアーティストにもギャラが払えないから社内でやるしかなくて必然的に僕がやる比率が上がっていったんだよ(笑)。
●それでは定期的にJulien StrangerとAnti HeroのアートディレクターのNovakとミーティングをしたりするんですか?
T:NovakはもうAnti Heroでは働いていないんだ。いまは新しい人になってその人も素晴らしいよ。僕たちはビジネスマン的なミーティングじゃなくて、だいたい僕とJulienは電話で話すだけだね。僕が描いた落書き程度の下描きを送ったり、Julienにアイデアが浮かぶと電話をかけて来たりっていう基本的にお互いのアイデアを投げ合ってるだけだね。だけど今は商品数も多いから2人のやり取りはとても多いよ。2〜3日に1度は必ず連絡を取り合ってる。だいたいは僕の落描きから始まってそれをJulienが膨らませていく。Julienはとてもクリエイティブでアイデアも素晴らしい。Julienと働くのは大変なのでは?と思っている人も多いと思うけど「これはダメだな、これはもっとこうした方がいいなとJulienがはっきりと言ってくれるからとてもうまくいってるんだよ。
●99年にLAに引っ越してGiant Distribution(90年代にNew Deal, Mad Circle, 411 Video Magazine, Mad Circleなどを抱えていたディストリビューター)で働きましたよね?そしてまたAnti Heroと働くようになりましたが経緯は?
T:結婚して子供ができるからLAに戻ることになって、もうスケートブランドのグラフィックはできないだろうなと思っていた。でも友人のNatas Kaupasがその時にGiantで働いていてNew DealやElementのグラフィックをデザインしていたんだ。それで彼が僕をGiantに誘ってくれて彼と仕事を数年やったんだけど最高に楽しかったね。でもNatasはQuiksilverからクリエイティブ・ディレクターのオファーを受けて移ってしまったんだ。しかしGiantもアーティストが必要だったから僕はElementのハードグッズのアートディレクターとして4年間フルタイムで働いていたよ。そして僕の給料が高過ぎたのか、働く姿勢が悪かったのか(笑)、突然必要ないと切られた。首を切られたその日、落ち込んで車を運転して帰っている途中にJim Thiebaudから電話がかかってきたんだ。「Todd、聞いてくれ、君に戻ってきてもらいたい。Anti Heroが君を必要としている、僕らも君を必要としている、戻ってきなよ」ってね。
アーティストという仕事はとてもハードで安定もしていない。だから僕はその時は正直迷った。今までスケートボードのデザインに携わってずっと生計を立ててきた。でももう子供もいた。自分が本心からやりたいと思える仕事でなくとも子供を育て住む家をキープするために犠牲にしなくちゃいけないこともあった。僕は正直言って怖かった。子供を授かるにあたって、子供には苦労をさせないと誓ってこの世界に誕生させたわけだ。だからJimが電話をくれた時に僕は泣きながら運転してたよね。LAに行っても僕はJulienとは常に連絡を取り合っていたしすんなりAnti Heroに戻れたよ、それが6年前かな。 Anti Heroと物作りをすることは僕にとってもすごく馬が合うしAnti Heroの一部となれてとても光栄だよね。