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Tha Blue Herb ILL-BOSSTINO (#2)

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Interview by Shizuo Ishii石井志津男 Photo by Yoshifumi Egami

●今日BOSSと初めてこんなに話しをするわけだけど、あの3.11があったあの日のBOSSの心境っていうのはどうだった?ニュースを見ても驚くだけだったと思うけど。

ILL-BOSSTINO(以下B):そうですね。

●ちょっと時間が経ってあの時の事を振り返ってみると、俺は軽いノイローゼみたいになってたと思うんだ。良くは分からないけど多分日本中がすごくノイローゼだらけだったと思うんだ。ある感覚でいえば。

B:そうかもしれないですね。

●その時にねBOSSはどう対処してたのかな。

B:確かに俺も半ばノイローゼでしたね、ただただ打ちのめされてました。それこそすぐ被災地に行った人達だとか、ハードコアのバンドの人達もすぐに動いた人達は沢山いたけど、俺は違った。で、すぐチャリティーの音楽作ろうって言うような人たちも沢山いたし、もちろん俺のところにもそういう誘いも沢山きたから、ジャンル問わずね。でも俺は動けなかった、正直。やっぱり動けなかったなあ二年前は、本当に、言葉っすからね、物資とか募金だったら実際すぐに動いたけれど、言葉ですからね。自分よりとてつもない悲しみとか苦しみを背負っている人間に安易に「がんばれよ」って一言すらかけられるかっていう事態ですよはっきり言って。

●あの直後に「上を向いて歩こう」をCMで使ってるのを見て、俺はビビっちゃったね。今はまだその曲は歌えないからっていうあれですけど。

B:そうなんですよ、ましてや離れた場所からね、あったかい部屋からね。

●その街にいるならできたかも。

B:そこは苦しかったけど、でも本当に言葉を発するというよりかは言葉を書くっていう事だけになんとか時間をかけて少しずつそこに戻ってきたって感じですね。今週そこにへ行くんです。つくづく思うんですけど2年かかったって感じですもん、直接行って地元の人達と向かい合って、結局は前向きな言葉を言いに行く訳ですよ、簡単に一言で言っちゃえば。世の中に溢れてる前向きなスローガンと同じ種類の言葉っす。ものすごい量の言葉を使うけれども、結果を言っちゃえばそういう事を言いに行く訳ですよ。そういうような前向きな事を言うには、その言葉が有効なのかや言葉の力そのものを信じる事にすら、俺はやっぱ2年かかったなと、今は思う。正直、その時はだめだったね、うん。言葉で生きてきて初めて言葉の無力さを感じてましたね。

●「CAN’T STOP TALKING TOUR」っていう今回の東北ツアーのタイミングはやっぱり今だっていうこと?

B:そうですね、僕の方から、あの日から2年後の週末に箱を借りました。ここしか無いって去年の暮れぐらいにそこの三つの箱にオファーをかけたんです。3月11日直後の週末なので絶対埋まってると思ったんですよ。でも三つともそこの週末が空いていて、じゃあ行くしかねえなみたいに思ったんですけどね。

●あの時は、自分で使えるスタジオと自分がマネジメントしてるアーティストがいても、1週間くらい何にもできなかった。本当に無力なんだなっていうことを俺も思った。1週間くらいして日曜日だったかな?アーティストでも何でもないのに、ふっとラブソングくらい作ってもいいんじゃないかって思って、それでバカだから生まれて初めてマジでリリックを書いたんだ。やっぱりスタンドアップってのは書けなくてラブソング。

B:いいっしょ、石井さんみたいな人が書くべきだよ本当に。

●いやいや、それはハズミだから。コンセプトになるリリックかどうかは微妙だけど、みんなにメールしてコレを基にして勝手に書いてくれって送ったんだけど、情けなくもみんなにはオリジナルは採用されなかったけど(笑)。でも被災地にとったら、金はいくらあっても良いんじゃないかと思ってチャリティーをね。

B:本当だよね。

●夜の12時過ぎた頃だったかな、僕の好きなアーティスト(Gladstone Anderson)のトラックをリメイクしてよって外池さんという人に「こんなチャリティーで」って電話したら、「やる!頼んでくれて嬉しいよ」って喜んでくれた。その人もどこにも逃げずに仕事をしてる人で、あっという間にこのトラックができて、LAのRAKAA(Dilated Peoples)とかにはTwitterで連絡したらすぐに返してきて「待ってるよ、ビッグネームの友達にも声かけるぞ」って言ってくれたけど、いやそれは要らないんだよ近い知り合いだけでやりたいからって返して、即行届いたデモはやっぱり「立ち上がれ!」っていうリリックだったから、あのリリシストのRAKAAに恐れ多くも直してもらったり、朝起きて、イギリスの友達でBitty Mcleanって声のきれいなシンガーから「♬悲しみの涙が、いつか喜びの涙に変わる時がある」って歌った英語のデモをダウンロードした瞬間に、丁度Dragon76君っていうアーティストがジャケットのハートの絵を送ってきて、曲と映像が同時にリンクして朝からウワ〜!ってなって、、、。
 本当にあの時は何もやる事が無くて、ライブも飛ぶし、本当に何もない。八百屋なら野菜を売るってことができたけどあの時に俺の周囲は音楽とか止まってたんだよね。それでBOSSみたいにあの震災がある前からあんな曲(Tenderly)を書く人が、その時どうしてたのかと思ったんですよ。

B:みんなそうだったと思うよ、音楽やってる人は特にね。音楽って本当に余剰品というか、世の中でいうとまず衣食住があってその後のものじゃないですか。

●音楽が無くても死なないからね、生死のとこじゃないから。

B:衣食住、音楽っていう風な感じで、普段は何気にねNo Music No Lifeみたいなフィーリングで生きてるし、もちろんそこのテンションで音楽を広めてはいるんだけど、でも実際本当に衣食住もあるかどうかわからないような状況になった時に、三つの頭越しに音楽で何かをできるなんていう、、、俺的には最初はそんな気持ちにはなれないっていうのが正直なとこだったね、本当にね。まず衣食住を確保する為に何をすればいいのか。よし、米を送るかって動いたのが一番最初ですね。結構ホームページにも「BOSS頼むよ」みたいなメールが沢山来たんですよ。「俺今真っ暗な街にいるよ」だとか、「俺の知り合いが死んじゃってさ」とか、「なんとか声出してくれよ」みたいな感じのメールがきた時は、、、苦しかったっすね俺。その人たちが受けてる苦しみに比べれば全然大した事は無いんだけど、本当になかなか言葉にならない苦しみでしたね。でも沈黙するっていうこともすごい勇気のいる事だってのもそういう日々の中に学んで、次に出した『TOTAL』ってアルバムに直接つながっていくんだけど、、、「言葉で生きてるから言葉出してくれよ」って言われたんだけど、言葉で生きてるから簡単な言葉は言えねえんだよっていうフィーリングもまた俺には正直あって、だから簡単に「頑張れよ」は言えるけど、その場しのぎじゃなくて、本質的に起こった事をどう納得させて、本当に頑張ろうって気持ちになってもらうにはどういう言い方がいいのかとか、どうやって最後の前向きさに結びつければいいのかを、俺Twitterとかやらないんで、Twitterみたいにタイムラインでどんどん流れていってしまうようないわゆる会話中での言葉とは、俺の音楽で扱ってる言葉は違うっていう風に思ってるからそのアルバム1枚、曲1曲でどうかっていう風に考えたら、ただの「頑張れよ」じゃ話にならないんだよなって事になる。やっぱりどうやって本気で、本気でですよ、今の状況をひっくり返すか、そのための言葉を揃えるにはすげえ時間がかかるからあえてそこは沈黙してましたねその時は。いつか必ずその時は来るって、ひたすらノートに言葉を書いてました。

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巽朗 Keep on Blowin’

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Text by 宮内健 Takeshi Miyauchi   Photo by 石田昌隆 Masataka Ishida

デタミネーションズやTatsumi Akira and the Limesとしての活動、またカセットコンロスとのコラボレーションなど、各所で美しくも艶のある音色を聴かせてきたサックス奏者・巽朗(タツミアキラ)。彼が41歳という年齢を迎えた2013年、初めてのソロ・アルバム『keep on Blowin’』を完成させた。デタミネーションズ解散以来初となるスカ・チューンをバンド編成で聴かせてくれる2曲を筆頭に、ダンスホール、ラヴァーズロックと多彩なトラックの上でスムーズなプレイが実に心地よい傑作に仕上がった。中には、リン・テイトとの時空を超えた共演など、聴きどころ満載のアルバムについて、巽朗本人にじっくり語ってもらった。本文に入る前に、これほどに充実した8曲入りのアルバムを「巽朗の名刺代わりだ!」と、日本盤としてはかなり思い切った1,400円という価格設定でリリースした、オーバーヒートに最大級のリスペクトを贈りたい。だって、これからツラツラと書かれた文章を読むより、音源聴いてもらえば一発で伝わる作品なんすから。

 長くメンバーとして在籍したスカ・バンド=デタミネーションズの解散後、巽朗はカセットコンロスとのコラボレーションでアルバム『KING goes CALYPSO』を発表し、その後もソカを演奏するTatsumi Akira and the Limesを結成するなど、ジャマイカ音楽と少し距離を置いた時期があった。

「ずっとスカ・バンドをやってたけど、自分が本当に好きな音楽とは何か? っていうのを探してた時期だね。やっぱり当時いたスカ・バンドのカラーがキツイから、他のものを求めてカリプソとか聴き漁って。やっぱり、トリニダード訛りが好きなんやね。マイティ・スパロウも大好きやし、今回ヴァーチャル共演させてもらったリン・テイトにしても、みんなトリニダード訛りなんですね。なんかちょっと引っかかるミュージシャンっていうのは訛りがある。コンロスと一緒にアルバム作ってる時は、ワダ(マコト)くんの家でリン・テイトとか聴いて、二人でいろいろ研究してた。The Limesにしても、とにかく何かやりたいっていう一心でやっとって。最初は耳馴染みがない音楽だし、なかなか好きにはなれなかったけど、リリックの意味だったり、ソカ・ビートの構造を探ったりしながらThe Limesはやってましたね。そんな蓄積かな、今考えると。カリプソ行って、ソカ行って、一周して戻ってきた時に、やっぱりスカも自分の中に刻まれてるもんなんだなって気付けたというか」

 3年ほど前に拠点を東京に移し、新しいコネクションも生まれていった。

「やっぱり東京のほうが刺激が多いし、いろんなスタイルのミュージシャンがいるし、技術的にもレベルが高いしね。それはレゲエのシーンだけじゃなくてね。サックスプレイヤーとしての友達も増えてくるわけだし、そういうヤツからの影響はすごく大きいですよね。なんか教えてもらうわけじゃないんだけど、最低限の基準がそこになってくるから。だから正直、練習は全然大阪時代よりも、こっちに来てからのほうが多いし(笑)。レゲエのプレイヤーを意識したというより、ジャズやポップスを意識する部分が大きいし。SOIL&”PIMP”SESSIONSの元晴やタブゾンビであったり、ジャズ系の先輩とか、そんな人たちのプレイのほうが、すごく意識してるというかね。だから、自分の音楽も、もうちょっとレゲエの枠とは違うところに伝えていきたいなって想いは強いですね」

 東京に越してきた直後、路上で偶然に再会したオーバーヒート石井とともに、巽朗のソロ作に向けた制作がはじまった。

「最初はデモを作る感じで、石井さんがいくつか持っていたトラックにどう乗っけられるか? って制作がはじまって。並行して、こっちでも自分のバンドをやりたいなと思ってたから、ハモンドオルガンの山口敬文(FULL SWING)を入れたりしてやってて。その間にオーバーヒートに来て、またデモを録っていって……アルバムを作ろうっていうよりは、とりあえずデモを録りためていこうっていうのがスタートでしたね」

 全8曲の収録曲のうち、オリジナル曲を含む2曲を日本人ミュージシャンたちとのバンド・セットで録音。Tanco(b)、森俊也(dr)、秋廣真一郎(g)という、レゲエやスカを追いかけている者にとっては、まさに垂涎のリズム隊に加え、元ブラックボトムブラスバンドの黄啓傑(tp)、レゲレーション・インディペンダンスで活動する齋藤徹史(tb)、そして先述したハモンドオルガンの山口敬文という、かなり異色の編成だ。

「でも、そこはさほど意識してなかったかも知れないですね。自分が気の合うというか、一緒にやっていけるなって思えるミュージシャンが集まっただけでね。とにかくライヴをやりたかったっていうのが一番大きくて、家で練習しててもしゃあないわけで、いろんな人といろんなところでプレイする環境を作りたかったっていうのもあって。たしかになかなか無い編成だとは思うけど、とくにハモンドオルガンって色の強い楽器だと思うし、そのベクトルに引っ張られすぎることも多々あるから、他のメンバーがバランスとって落としどころを見つけてる感じかな。これまで自分は、スタジオにみんなで入って一緒に作っていくっていうスタイルが多かったけど、このバンドについてはあらかじめPCでデモを作ったり、各パートごとに譜面を起こしたり、すごく勉強になった部分もあって。たとえば〈Theme of Mission Impossible〉なんかは、スタイルを壊さずにスカの雰囲気を出したまま、5拍子の原曲を4拍子にアレンジして。バンドで作り上げていくっていうよりも、自分の頭の中でアレンジしていってバンドでやってもらうっていうのが実践できた」

 収録曲の大半を占めるのは、リディム・トラックに巽がサックスでメロディーを乗せていく楽曲。

「バンドじゃなくトラック相手にインストでサックス乗っけるっていうのは、歌を乗せるのより数倍難しいと思った。だけど、これをやったおかげで、サックスだけで景色を変えるテクニックとかも研究出来きましたね。やっぱりそういう部分は、ジャマイカ人のプレイヤーって天才だと思うね。ワンコードで押し切るようなトラックでも、ちゃんとAメロ・Bメロ・サビって展開していくでしょ? 僕らではなかなかそうはなれへん。自分が思うところでオカズも入らないし、自分が思うところでコードもチェンジしないから。そこも踏まえた上で、フレーズを考えていって。それがわかると、だんだん面白くなってきた。メロディーのはじまる音やリズムを場面ごとで変えていったり、あとはハモってみたり。そういうので景色を変化させていく。そうするとストーリーが出来てきて。よく聴くと2コードの曲だけど、でもそう思えない、みたいな曲になったり。そういうことを意識して、メロディーは考えてますね」

 Steely & ClevieのClevie、TOKなども手がけるRichard “Shams” Browne、Boot Camp RecordsのComputer Paulといったプロデューサー陣による多彩なトラックに乗る巽のプレイは、突き抜けるように爽快で、惚れ惚れするほどにスタイリッシュだ。

「今回、石井さんと話をしながらレコーディングを進めていく中で、〈サックス〉〈インスト〉っていったら夜の感じになっちゃって、どうしてもムーディなものになりがちだけど、それを昼間のイメージでやろうっていうのがコンセプトのひとつだったし。昼間のイメージでレゲエとかスカってなったら、ビーチサイドで夏でみたいな感じやけど、そうじゃなくて、それをアーバンな感じで表現したかったから。それが上手く出てるんだと思う。」

 リディムに演奏を乗せていくナンバーというと、アドリブの度合いが強めなラバダブ・スタイルと考えがちだが、巽の場合は、じっくりと楽曲に向き合い、緻密にメロディーを組み立ていくという。

「たとえば〈Just as much as ever〉は、最初はバンドでカバーしてたんですけど、なかなか落としどころが見えなくて。この曲に関しては、それをComputer Paulにアレンジし直したトラックを送ってもらって、そのトラックにサックスを録音して、また向こうに送ってミックスしてもらって……っていう感じで作っていって。メロディーに力があるから、オリジナルの良さとは違う、レゲエでやる上でのアレンジの仕方というか……トラックになった時のほうが逆に、ここに行きたかったんだなっていうのが見えたかな。〈Keep on Blowin’〉はClevieのトラックだけど、最初作ったメロディーはもっと複雑やったかな。ジャズとかからも影響受けてるから、そういうアプローチでメロディーを作ったりしてたけど。石井さんといろいろディスカッションしながら、これは曲が出来てからこのメロディになるまでに半年ぐらいかかった」

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Lance Mountain  Keep on SK8ing

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Text by CB Ishii (石井洋介)  Photo by Shin Okishima (沖嶋 信) Group Photo by EC

 街でスケートボードをしていると、あらゆる場所がスケート・スポットに見える。ここを使ってどういうトリックができるのか?それを写真に撮るならどうなるのか?などと常に考えてしまう。単にクルージングしているだけでさえ、スケートはとてもクリエイティブなものだと思う。スケーターにクリエイターが多いのはそんなことにも起因しているのか?Riddim Onlineで特集されたBones Brigadeの記事を読んだ方も多いと思うが、Bones Brigadeのメンバーだった彼らもスケートから得たクリエイティビティを様々な場で表現している。Tommy GuerreroはMoWaxからアルバムを出した経緯があるミュージシャンとして高く評価され、Steve Caballeroもずっと長い間バンドを組んでいるし、Hot Rod好きが高じてペインティングもしている。映画「Bones Brigade」 の監督であるステーシー・ペラルタだって天才スケーターだった。そして今回インタビューをしたLance MountainもBones Brigadeの一員であったが、レジェンド・スケーターとしてだけでなく、グラフィック・デザイナーであり、ペインターであり、スケートパーク・ビルダーという多彩な才能の持ち主なのだ。今回Stussy Shinjuku Chaptの15周年記念でLanceのアートショウ「Never Grow Up」が開催され、来日した彼を代々木上原のカフェでキャッチ。聞いたのはもちろん思いっきりコアなスケート話。

C:このWebマガジンを読んでる人に、まず簡単な自己紹介をお願いします。

Lance Mountain(以下L): 僕は今48歳。名前はLance Mountainでカリフォルニア州のパサデナで生まれ、殆どの人生をパサデナで過ごしてきたよ。あとは、、スケーターです(笑)。

C:知ってます!(笑)。スケートボードはどれくらいやってるんですか?

L:10歳の時からスケートしてるよ。

C:うわっ! 僕と同じです。僕も10歳からスケートを始めました。じゃあ38年間スケートしてるってことですか?!僕はまだ24年だから、まだまだです。 スケートを始めたきっかけはなに?

L:1973年にアメリカでスケートボードのブームがやってきたんだけど、その頃丁度ウィールにウレタンが使われはじめて、とても乗りやすい物になったんだよ。たしか74年っだったけど、近所に住んでいた5歳年上の友達が新しいスケートボードをゲットしたから、彼の古いボードを貰ったんだ。まだウレタンじゃないクレイ・ウィールがセットアップされたやつで、それは本当に酷い状態でまあ乗れるような代物ではなかったけどね(笑)。

C: でも今はそういうスケートボードも価値が出てきてますよね(笑)。それで絵を描き始めたのはいつからでしょうか?

L:僕の父親はとてもアーティスティックなイギリス人なんだけど、アメリカに移って結婚をして最初に就いた仕事がMacy`s(デパート)のウィンドウ・ディスプレイを変える仕事だったんだ。最終的にはトレードショウのブースを作ったりする施行の仕事をするようになるんだけど、そんな関係で僕の廻りにはいつも木材、ペイント、クラフト、アートなど何でも揃っていた。だから小さい時から自然と何かは作っていたんだよね。スケートボードを始める前からドローイングはしていたのかもね。スケートボードに魅かれたきっかけはもっとなんて言うか、美的センスに引き込まれたっていうのかな。当時欲しくてたまらなかったのがALVA(レジェンド・スケーター)のTシャツで、買えない時が多かったから自分たちで描いて作ってた。まぁ全然描けてないんだけどさ(笑)。DOG TOWNのデッキがリリースされた時もお小遣いがなかったから、古いデッキを引っ張りだして自分で真似してペイントしてた。だからスケートボード・アートが僕をアートに引き入れてくれたとも言えるんだ。

C:貴方が描いてる有名な黄色いキャラクターには名前があるんですよね?

L:「Doughboy」っていうんだけど、名前をつけたのは僕じゃなくてPowellのデッキに使われた時に付けられた名前なんだよ。その時は「Doughboy」をメインに描いてたわけではなくて、どこのデッキを見ても真ん中にロゴがあってグラフィックで全部埋まっているのがほとんどだったから、僕はノーズからトラックの下も潜ってテールまでのラインで伸びているデザインをフォーカスして作りたかった。スケッチの段階では走ってる男の絵を描いていたんだ。そのアイデアをもとにいろいろ描いていたら「Doughboy」が生まれたんだよね。「Doughboy」は簡単に描けるキャラクターだからその後もずっと描いてきたんだ。その時実際にリリースされたデッキは僕のコンセプトとは全く違っていて、トラックの真下を潜ってデザインされてないから実は好きじゃないんだけどね(笑)。まあ、全然問題ないんだけど、ははは。だけど「Doughboy」は僕が思っていたよりも注目される様になって、「みんなからあの黄色い男は何?」とか「Doughboy」を描いてよ、とか言われるようになった。

C:アートのインスピレーションはどこから来るんでしょうか?

L:う~ん、普段の生活のあらゆるところからだよ。大きいのは僕の家族、つまりワイフと息子の存在かな。気ままに暮らしているとても恵まれた環境にいるよ。この小さなオモチャをずっと追いかけ続けていたら夢が叶ったんだ。つまり自分の自由な人生そのものからインスパイアされているってことだ。朝起きて、奥さんとお茶を飲んで、聖書を少しだけ読んで、そして早い時間にスケートをやって、、、。

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ミャンマーのスケートシーン「Youth Of Yangon 」

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Text by Hajime Oishi(大石始)

 2013年2月、僕はミャンマー最大の都市ヤンゴンにいた。軍事政権のもと長年鎖国状態にあったミャンマーは2011年3月に現在のテイン・セイン大統領が就任し、以降急激な民主化プロセスを突き進んでいる。僕がこの国を旅した2013年2月のヤンゴンではホテルやビルがそこいら中で建設されていたが、それ以外にもこの国が変化の時期にあることを実感させられる場面にたびたび遭遇した。かつては民主化運動のリーダー、アウンサンスーチーの名前を公共の場で口にするのも憚られたというが(そのため、人々はスーチーのことを話す際<おばあさま>という隠語を使ったという)、観光客が集まるヤンゴン中心部ではスーチーとオバマの2ショット写真をあしらったTシャツが販売されていた。スーツに身を包んだ各国のビジネスマンがヤンゴンの街中を闊歩する図は日常的なものだったし、最新型のスマートフォンをイジりながら会話を弾ませる若者たちの姿は他の国々と何ら変わらないものだった。
 そんな激変期のヤンゴンで、僕は『Youth Of Yangon』というドキュメンタリー映画のプレミア上映に立ち会う機会に恵まれた。現在のヤンゴンでは現地のパンクスたちを追った『Yangon Calling』という映画の制作が進められており、日本でも一部で話題を集めているが、この『Youth Of Yangon』はヤンゴンのスケーターたちを追ったショート・ムーヴィー。ヤンゴンのギャラリーで行われたプレミア上映の際もヤンゴン中のスケーターたちが集まり、大変な熱気に包まれていた。
 監督は自身もスケーターであるジェイムス・ホルマンとアリ・ドラモンドの2人。彼らは2011年のInternational Skateboard Film Festival において〈Best Independent and Emerging Film Makers〉部門を受賞したドキュメンタリー映画『Altered Focus : Burma』の制作チーム。同作ではアリたちが現地のスケーターたちとスケートパークで交流を重ねる場面が出てくるが、反政府デモを撮影していた日本人ジャーナリスト、長井健司さんが軍兵士に狙撃されたのは2007年9月のことである。『Altered Focus : Burma』が撮影された2009年はまだ軍事政権下だったわけで、動乱のミャンマーでスケーターたちのこんな交流が育まれていたなんて僕もまったく知らなかったのだった。
『Youth Of Yangon』はその後のヤンゴン・スケート・シーンを追ったドキュメンタリー映画。『Altered Focus : Burma』では反政府デモのシーンもインサートされていたが、『Youth Of Yangon』ではスケーターたちの穏やかな日常が切り取られている。軍事政権によって生活が制限されていた時代をサヴァイヴし、ようやく<自由>を与えられた現在のスケーターたち。彼らの日常に迫った『Youth Of Yangon』は、何気ないシーンのなかに激変期のミャンマーの姿が映し出された興味深いドキュメンタリー映画となっている。監督のジェイムス・ホルマンに話を聞いた。

●ジェイムスはイギリス出身なんだっけ。

ジェイムス・ホルマン(以下J):そうそう。今はニュージーランドのクイーンズタウン在住。24歳のころからプロフェッショナルに映像を撮り始めたんだけど、それもスケートがきっかけだったんだ。ウェブ・プロモーションやドキュメンタリー制作などいくつもの仕事をやるようになる前はテレビ用のスケート映像を何年も作っていたから。ニュージーランドに越してきたのは3年前。それからはコマーシャル映像などのプロジェクトにも関わるようになった。自分ではスケーターだと思ってるけど、今は昔ほどやってない。映像に撮ったり見たりするほうが好きだね。

●『Youth Of Yangon』というプロジェクトはどうやってスタートしたの?

J:『Youth Of Yangon』は3年前、アリ・ドラモンド、アレックス・パスクィーニ、そして僕という3人が『Altered Focus : Burma』という映画を作るためミャンマーに渡った時から始まったんだ。最初は何を形にするべきかまったく分からなかったし、それどころかスケートパークはおろか、どこにスケーターがいるのかも分からなかった。3年前のミャンマーは今とはまったく違う国だったからね。そんななか、たまたまAk BoやYe Wint Ko、Globeといった現地のスケーターたちと出会い、彼らの仲間たちと出会うこともできた。それから彼らのことを語る映画を作りたいと思うようになったんだ。ただ、それから2年が経過してもまだ制作に取りかかれなくて。昨年の初頭、イギリスに住んでるアリとSkypeで話をしたんだ。<誰かがやる前に僕らがやるべきだ>って。トゥワナというスケートパークが壊されてしまうということも分かって、その前に撮影を進めることにしたんだ。

●映画のコンセプトを教えて。

J:この映画が『Altered Focus : Burma』とはまったく違うものになるだろうことは最初から分かっていた。とにかくミャンマーは変わったし、僕らはその変化にアプローチしたかった。前回のように政治面に触れようとは思わなかったし、スケーターたち自身の物語を捉えようと考えたんだ。その意味では『Altered Focus : Burma』の続編というわけじゃない。『Youth Of Yangon』はあくまでもミャンマーのスケーターたちによって、しかも彼らの言葉で語られる彼らの映画。それが基本。

●現在のミャンマー・スケート・シーンはどんな状況にある?

J:3年前に比べると急激な勢いで発展してるよ。前は片手で数えられるぐらいのスケーターしかいなかったけど、今はさまざまな世代が興味を持ってる。しかも男女両方。一番年上は34歳のAk Boで、一番下が12歳。彼らはさまざまな世代が入り交じっていて、異なる価値観や趣味の持ち主だけど、スケートに対しては同じような興味を持っている。なかなかユニークなケースだと思うよ。ここ5年のうちに他の国と同様の大きなシーンができるはずだし、そうしたシーンが形成されることにより、他の国々に対して現在のミャンマーがいかに変わり、いかに開かれた国になったか示すサインにもなると思う。

●ミャンマーのスケーターたちはどうやってボードを手に入れてるの?

J:ヤンゴン中心部にはいくつかのショップがあって、みんなそこでボードを手に入れている。確かに大してクォリティーは良くないし、子供のおもちゃに毛が生えたようなものだよ。真剣にスケートをするには相応しいものではないと思う。アリ・ドラモンドはボードを手に入れるために苦労しているミャンマーのスケーターたちを手助けしていて、彼らのためにバンコク製のスケートボードやエクイップメントを持ち込んだりしてるんだ。

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Kads MIIDA 未来おみやげ展

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Text & Photo by Shizuo Ishii 石井志津男

Kads MIIDAにはCDジャケットのアートを頼んだこともあるし彼のライヴ・ペインティングも見たことがある。絵本を買ってサインをねだったこともあったはず。だが、常々ライヴ・ペインティングをやるってどういうことなんだろうと思っていた。Tokyo Cultuart by BEAMSでやる「未来おみやげ展」のメールに添付されていた画像は芹沢銈介の作品からインスパイアされたものだったから、気になって連絡した。

●そもそもMIIDAさんは学校はどこでしたっけ?

Kads MIIDA(以下M):東京造形大学です。グラフィック・デザインですね、好きなんですよね古い印刷とか。89年でしたか、学生時代からなんとか絵で仕事したいなと思って二十歳くらいの時からTシャツのデザインとかをやり始めて、「描かせてくれ」って、街の看板の仕事を受けたりしてました。昔から、アメリカの看板のデザインが好きだったのでそういうのを真似したりして仕事を始めました。

●アメリカの看板って具体的にどういうデザインですか?

M:イラストがあって文字がバンとある、いわゆるポップな看板が好きだったので、それをやってたんですけど。

●それはお店の看板を?そういえばMIIDAさんがやった沖縄のFLEXの看板とかもイイですよね。この間、恵比寿で彼に初めて会いましたよ。

M:ジャマイカ料理のお店やってる江上君ですか?FLEXの。

●そうそう。

M:今でもお店のロゴはよく描いてます。当時そういう仕事をちょっとやらせてくれということで始めて、大学の3年~4年生くらいの時に横浜のBANANA SIZEっていうレゲエのサウンドシステムの人たちが店をやるってことで、本牧のZEMAっていうお店の内装をやることになって壁画を描いたんです。その辺からレゲエっていうか音楽との繋がりもでてきて、そこにはPAPA U-Geeが来たりJr.Deeが来て歌い始めたりして、アートの活動としてはその人たちのサウンドシステムの横でライヴ・ペインティングをやったのが89年とかそれくらいの時代です。

●ライヴペインティングの面白さとはどういうところなんですか?ライヴペインティングっていうのは誰かが見ている状況でやっているわけですよね、グラフィティはまあ見てなくてもいいけど。

M:グラフィティは隠れてやるものですよね。(笑)

●うん、だから二つは違うんでしょう?

M:グラフィティとは明らかに違うと思います。絵は普通は部屋で一人で描くものですけど、ライヴ・ペインティングは廻りから同意を得ながら描いているようなそんな感じもあるんです。みんなに今の自分のスタイルを見てもらえたりとか、驚きを共有したりとか、自分を追い込んでそこでドンってやるというか、自分はミュージシャンにも憧れがあったからミュージシャン的に絵を描くっていうのはどういう事かって考えたらライヴ・ペインティングかなみたいな。ライヴ・ペインティングはかなり音と凄く関係していると思っているんです。みんなスタイルは色々あると思うんですけど、自分のは音と同時進行でこの曲だからこうなったっていうのを出来るだけ出したいです。で、最近使ってる紙なんですけど、ある日ライヴ・ペインティングで呼ばれて北陸に行ったんですよ。そこで「田舎だから何もないんですよ、和紙くらいしか」って言われて「和紙?見たいです」って工場に行ったら手で漉いてて素晴らしい。何百年もカビがつかない和紙があったり。今はそこで頂いた和紙を使ってライヴ・ペインティングをしているんです。筆は広島にライヴ・ペインティングしに行って、泊めてもらった田舎で「うちは田舎で何もなんです、筆しか」って(笑)。そこが熊野っていう最高級品の一本一万円くらいする筆を作ってる村で、そこで筆貰ってきて。

●へえ!

M:そういう出会いがあって、そのうちきっと墨の産地とかね、多分日本中にそういうのがあるから、ちょっとそういう出会いを期待してるんです。今、ちょっとずつ手法も変えていて、そうしたら何も持っていかなくて良いんですよ。墨なんてどこに行っても日本中でコンビニでも買えますよ、筆だけ持っていけば。今はそういうスタイルです。

●じゃあ色を付けない時もあるってこと?

M:色はちょっとだけで、極端な事を言えば習字屋さんの赤いのって分かります?

●分かる、朱ですか。

M:そうです、あれと黒だけで描いたり、青はちょっと絵の具入れたんですけど、木炭と墨だけで描いたりとか。やっとなんか日本人で良かったなみたいな気がしてきて、もっとそういう部分を研ぎ澄ましていっても良いのかなと。

●なるほどね、色が無い事はそれだけ大変なんだろうけど。

M:そういう事です。あとタッチ一発でキメなきゃいけないです。面白いですね。最近自分がやってる事と回りの動きが全て同じ所に向かってる気がするんです。

●89年から、そうやって20年以上ライヴ・ペインティングもやりつつ今回の芹沢銈介をイメージしたBEAMSでやる「未来おみやげ展」との接点というのはどういうことですか?

M:芹沢銈介さんの名前が出てたから、さすが見てるなと思って。やっぱりデザインとかアートが好きな人は言ってきますね「あっ、民芸運動?」とか。

●やっぱり(笑)。

M:「それは今必要かもね」みたいに、そういう気持ちが無いとデザインとかアートとかも今はもう大変な時代になってるからって。

●実はたまたま古本屋で芹沢銈介の本を買って、かみさんに多分好きだろうなってプレゼントしたら、子供のころから凄く好きで銀座の「あけぼの」の団扇を持ってるよ、みたいな。

M:JALの機内で使う印刷物のデザインとかね、そういうの全部やってたんですよね、芹沢先生。僕も季節ごとの日本の何か、そういうものをやりたいですね。今、地方の友達と出会って色んな物を作っているんです。失礼な言い方ですけど昔の枠にとらわれていてデザインしきれていないというか、それが売れないで困ってるとか止まっているような状態で、社長の世代交替もあって「なんか変えたい」と言っている産業もあったりする。そういうモノとコラボをし始めていて、大きい事を言えばそれらをもう一回デザインを加えて再生させたい。僕らは東京で勉強したので、売り方まではわからないですが「こうしたらこうなる」っていうアイディアとか。あと二世代目がレゲエが好きだったりして、僕の絵で何か作りたいとかそういうオファーもあったので、デザインをし直して整理して集められるだけ集めて、BEAMSに良い場所があるからそこで物産展みたいなイメージでみんなで作ったものを出して「これ全部日本製なんだよ」っていうところを再評価させたいなというのが今回のおみやげ展の趣旨なんですけど。

●どのくらいのモノが集まるんですか?

M:20点くらいですかね。

●それは全部MIIDAさんが何かしらデザインか何かで関わってる?

M:そうです、何かをやってるっていう。神戸、京都からは食品のラベル、あと四国の藍染め、ふんどしがきたりとか、昔よくあったペナントを東京の下町のプリント工場で一緒に作っていたりとか。最初はちょっとポップなものから始めて、漆器とか焼き物とかの工芸品までいきたいんですけど、いろいろと無限にありそうで、この先のアートのテーマになるかなと思っています。今は工賃や材料の安い国でいっぱい作らせて他の国でいっぱい売らなきゃいけないっていうシステムでみんながんじがらめになっている。ちょっと値段が高くても長く使えて、しかも日本で作っているものに僕は目を向けた方が面白いなと思っています。 

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COOL WISE MAN 20th ANNIVERSARY

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Text by Takeshi Miyauchi 宮内 健

結成20周年を記念して初のベスト・アルバム『20th ANNIVERSARY BEST SELECTION』を発表した、COOL WISE MAN。ピュアな初期衝動をフレッシュに保ち続けるスカ・バンドの足跡を辿る。

 ルード・ボーイたちの20年、スカ・ミュージックに育まれた20年──下北沢ZOOでスカという音楽にヤラれた男たちによって、1993年に結成されたCOOL WISE MEN(現COOL WISE MAN:以下、CWM)。当時集まったメンバーの中には、このバンドで初めて管楽器や鍵盤を演奏した者もいたという。まるで憧れが高じてパンク・バンドを組んだティーンエイジャーのようなフレッシュな初期衝動は、今でもCWMの音楽を生み出す原動力となっている。結成20周年を記念して発売された彼らにとって初のベスト・アルバムとなる『20th ANNIVERSARY BEST SELECTION』は、そんなCWMが歩んできた足跡が、2枚組・全33曲というボリュームで収められている。

 CWMは結成以来ライブを中心に活動しながら、1999年2月にファースト7インチ「Big Bong/City Riot」、翌年6月にファースト・アルバム『Bad Ska』を発表以降、オリジナル・アルバム6枚、アナログ・シングル10枚、そしてハンバート ハンバートとのコラボレーションによるミニ・アルバム、その他オムニバス・アルバムへの参加……と、コンスタントにレコーディング作品をリリースしてきた。たとえばセカンド『Faith』(2003年)は、スカを中心にしながらもダンスホールやルーツ・ロックなど、ジャマイカ音楽全般への好奇心を追究した作品であったし、続く『Unity』(2005年)では、King StittやDillinger、Papa U-Geeといったジャマイカ/日本のレゲエ・ディージェイをフロントに据え、前作で打ち出した方向性をさらに掘り下げた。そうしてバンド・アンサンブルの懐が深くなったタイミングで制作された『Salty Dinner』(2006年)は、エンジニアの内田直之とがっぷり四つに組んで、あらためて真っ正面から〈スカ〉に向き合うことで生まれた傑作だ。この作品の好評価も相まって、2006年にはRICO RODRIGUEZの日本ツアーのバックバンドに抜擢。RICOの高い要求に応えるべくバンドは全身全霊をかけて挑んだ結果、両者の間には信頼と絆が生まれ、翌2007年の来日ツアーでも共演を果たした(その模様はDVD作品としてもリリースされている)。さらに同年のフジロックではEDDIE “TANTAN” THORNTONと共演。TANTANはCWMの演奏と音楽に対する姿勢をいたく気に入って、2008年には豪州最大の野外フェス=BIG DAY OUTに揃って出演し、そのツアー中に出来た楽曲をオーストラリアの現地で録音した『EAST MEETS WEST』を発表。TANTANとは、その後も親密な絆で結ばれ、2010年にもTANTANが来日し、コラボ・ツアーが敢行されている。

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川上つよしと彼のムードメイカーズ moodholic~泡沫(うたかた)の日々

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Text by Takeshi Miyauchi 宮内健

 

 東京スカパラダイスオーケストラのベーシスト川上つよしが率いるロックステディ・バンド、川上つよしと彼のムードメイカーズ。マイペースな活動ながら結成12年目を迎えた彼らが、新作オリジナル・アルバム『moodholic~泡沫(うたかた)の日々』を完成させた。前作から約2年半ぶりとなるリリースとなるが、その間バンマスの川上はもちろん、メンバーそれぞれが充実した活動を行ってきた。

「スタジオで久しぶりにみんなと会うたびに、経験値が更新されてる感じはありますよね。みんなそれぞれの畑でやってて、ホントにすごい。サックスのてちゃん(西内徹)はソロ・アルバムを出したし、トランペットの黄啓傑なんかはブルームーンカルテットで、スカパラが逆立ちしても敵わないぐらいに日本中細かく回ってるしね」

 そんな腕利きたちが再結集したニュー・アルバムのテーマは、ズバリ〈酒場〉。ジャケットに描かれた小豆色の暖簾は、立石にあるもつ焼の名店〈宇ち多”〉オマージュ。というか、今回のリリースに合わせて撮影されたアーティスト写真のロケ地が、その〈宇ち多”〉である。カウンターにずらりと並ぶ、How Manyいい顔なメンバーたち。長い月日がそのまま堆積した下町酒場の光景に、馴染みすぎるほどしっくりと馴染んでいる。

「ヱビスビールのCMソングとして先にレコーディングしていた〈第三の男〉もあったから、テーマは酒にしようと思って。しかし、ここまであからさまに酒をテーマにしたアルバムって、意外とあるようでないですよね(笑)。僕らは、選曲のミーティングも、だいたいいつもメンバーと一緒に居酒屋で飲みながら。最近はそんなに長い時間かけて飲まなくなりましたね。だいたい山本貴志とおーちゃんがケンカしてたり、みんなの関係性も面白い(笑)」

 口開けは、川上自身の酒縁仲間でもある酒場詩人・吉田類の『酒場放浪記』のテーマ曲としても馴染み深い、「Egyptian Fantasy」のスカ・カヴァー。

「3テイクぐらい演奏したうちの1発目なんですけど、リズムが跳ねてて管楽器が跳ねてない、その噛み合わせ方がすごくスカっぽくて良いんだよね。今回、吉田類さんに推薦コメントいただいてるんですけど、ちょっと面白い話があって。僕と同じく吉田類さんと酒縁仲間で、類さんと酒呑みによるチャリティ・イベントも企画されてる須永辰緒さんがDJやってる時に、類さんがDJブースにツカツカと駆け寄って、『これ、かけて!』って僕らの〈Egyptian Fantasy〉かけてもらったらしいんですよ。あの須永辰緒にこれかけろっていう人はなかなかいない(笑)。その須永さんも『あの曲カッコイイね』っておっしゃってくれて嬉しかったですね」

 昭和歌謡チックな「琥珀の誘い」と、バート・バカラックのカヴァー「Long Day Short Night」では、ムードメイカーズの〈専属歌手〉である武田カオリ(TICA)が、それぞれガラリと印象の違う歌声を聴かせる。

「カオリちゃんも、元々は透明感派だったけど、最近ではだんだんどっしりとしてきて、揺るぎない歌声になってきてますよね。〈Long Day~〉のような、メロディがはっきりしてそうでしてない曲をさらっと歌える人ってなかなかいない。〈琥珀の誘い〉は、自分がイメージする昭和歌謡のラブソングをそのまま出した感じ。琥珀っていうと、普通はウイスキーかブランデーだと思うんですけど、ここは梅シロップで(笑)。〈Long Day~〉は、ムードメイカーズは最初からバカラックのカヴァーをやってるんで、今回も1曲。〈琥珀の誘い〉がすごく濃すぎるんで、チェイサー代わりにサラッと清涼感のある曲を。まあ、宇ち多”でいうところのサイダーですね(笑)」

 そうなるとインスト〈Hard Liquor〉は、テキーラやバーボンのような洋酒じゃなく、焼酎梅割りのガツンとくる酩酊感をイメージしてしまう。

「ダハハハ! なかなかそこをわかってくれる人はいないんだけどね(笑)。この曲は唯一ほとんどお酒を飲めないイッチーが作った曲なんですけど、グワングワン回るようなギター・ソロの酩酊具合が甲類って感じでしょ?」

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THE MAN

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Text by Takeshi Miyauchi

 東京スカパラダイスオーケストラを脱退後、自身のソロ・プロジェクト=DAD MOM GODで活動を続けてきた、冷牟田竜之。彼が昨年、新たなバンドTHE MANを始動させた。

 

2010年より活動しているDAD MOM GOD(以下、DMG)は、冷牟田を中心に池畑潤二、中村達也、ウエノコウジ、田中邦和、森雅樹(EGO-WRAPPIN’)など、腕利きのミュージシャンたちが集結した、言わばオールスター・プロジェクトだった。

「DMGっていうのは自分がやってきた音楽の中で、ロック・サイドを出し切るためにはじめた。だから、たとえばDMGでスカをやろうとしても、ドラムのパターンがワン・ドロップじゃなくて8ビートでやると、いわゆるダウン・ビートの、沈みこんで上がって沈みこんで上がってというアップダウンを繰り返すグルーヴは出せない。だから、そういうグルーヴを出したいなと思って、THE MANを作ったんだ。さらにもうひとつ言えば、DMGのほうは、さっき言ってくれてたけど、メンバーがオールスターであるがゆえにスケジュールがなかなか切れない。それで、自分の振れ幅の中でもっとグルーヴを主眼においたバンドを作ろうと思って、メンバーを探し出した」

 THE MANには冷牟田と同世代であり、MUTE BEATやKEMURIなどで、同じシーンで活躍してきたトロンボーン奏者の増井朗人を迎えた。が、増井以外は、冷牟田よりも若い世代のミュージシャンを集めた。

「とにかく若いメンバーと一緒にやりたいって思って。中には親子ほど年齢が離れてるメンバーもいるんですよ。一番下はドラムの海老原諒で、26歳。彼はNOKKOのサポートとかいろいろやってるミュージシャン。まだ若いのにビックリしたけどね。そういった若いメンバーばかりの中で、スカを知ってるのは増井くんと俺だけ。じゃあ、なんで増井くんを入れたかっていうと、やっぱりスカにはトロンボーンが絶対いるなと思ったのと、彼はやっぱりルーツを知っているから。ルーツを知った上でいろんな音楽をやって来た、そういう存在がTHE MANには必要だなと思った。だから二人して、スカっていうのはこういうもんだって教えるところからはじまった。たとえば、ドラムにしても、ハイハットのどこにスティックをどこをどういう風にスティック当てて音を出すのかとか、スネアのショットするポイントをどのへんを高さを叩くかとか、そういうところから一緒にやっていってて。ものすごい勢いで吸収していくから、やってて面白くてね」

 ソロ・プロジェクトであるDMGでは、全曲に渡って冷牟田が作曲を手がけているが、THE MANのレパートリーは、冷牟田以外にも他のメンバーが作曲したナンバーも採用されている。

「出来るだけ全員で曲が作れる体制にしたいなと思ってて。上がってきた曲を、自分がやろうやらないっていう判断をしてるし、アレンジにもかなり口を出しているので、最終的には自分で作った曲みたいなニオイというか色がついてるはず。だけど、これからもっと若いメンバーから上がってくるアイディアを、どんどん具体的にやっていきたいって思ってる」

 THE MANのファースト・アルバム『THE MAN』は、スカパラ時代から勝手をよく知る、GO-GO KING RECORDERSにて、オープンリールのテープレコーダーによる、一発録りの方法で作られた。

「テープレコーダーで録音すると音が中域に寄るんだけど、そういう中域の密度が濃い音で録りたいと思ったので。それをデジタルで再現しようとするとなかなか難しいんだけど、自分の聴いてきたスカっていう音楽もアナログでレコーディングされた音で耳に残ってるから、どうしてもそっちのほうがいいと思っちゃう。それに、ずっと聴いてて耳が疲れない音にしたかったんだよね。とにかく痛い音にしたくない、それが一番大きかったかな」

 中域にグッと寄った、タフでラフなそのサウンドは、狭いステージに男たちがせめぎ合うように演奏する、THE MANのカオティックなライヴの印象そのものだ。不穏なダブにはじまり、とびきりルードなスカ・チューンはもちろん、ガレージロックとスカのミクスチャーなど、まさに冷牟田が思い描く〈スカ・ミュージック〉が凝縮されたのが、このアルバムと言える。

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アイス-T 初監督の「Art of Rap」

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Text Egaitsu Hiroshi

ギャングスタ・ラップの”ゴッドファーザー” アイス-T。80年代後半にデビューして30周年を迎える彼が、初監督を務めた本作は、ヒップホップシーンの大物たちの証言を通して、ヒップホップのルーツと歴史を紐解くドキュメンタリー。今や音楽シーンの主流になったヒップホップが、どのようにして世界的な影響力を持つに至ったのか?ーー 

こうプレス・リリースにある映画「アート・オブ・ラップ」は、緩やかにヒップホップ/ラップの歴史を縦に、地域を横軸に「アフリカ・バンバータやRun-D.M.C.など往年のヒップホップスターから、今を時めくエミネム、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、カニエ・ウェストといった世界的スーパースターなど、過去と現在、そして未来を築くトップアーティストたちへ、アイス-Tが直撃インタビュー」していく構成だ。ここでは、本作の字幕監修を手がけたK-DUB SHINEさんに話を聞いた。

 

初期のラッパーについて
ラキムのリリックについての言及があるよね。

 

“I take 7 MC’s put ‘em in a line
And add 7 more brothers who think they can rhyme
Well, it’ll take 7 more before I go for mine
Now that’s 21 MC’s ate up at the same time”

 これはもうマスト。で、7という数字に拘ってるよね。最初の頃のリリックで自分のこと007とか言ってるけど、これは自分の名前のスペルの字数の話でもある(注:William Michael Griffin Jr.)。俺は大ファンなんで、ラキムに関していえば。俺にとっては通信教育の先生みたいな感じだから。他にも、チャック(D、パブリック・エネミー)先生でしょ、KRS-One先生でしょ、それから(アフリカ・)バンバータ校長でしょ。みんな通信教育の先生だよね。(この映画でのKRS-Oneのファットビーツ店内でのフリースタイルを聞いて)目眩がするかと思った。ああいうリリックを聞くと目眩がするので・・・次のリリック聞き逃すぐらい目眩がするから。グランドマスター・カズとかは、僕が聞き始めた頃には、ダメになっていた時期で、でも、ちょっと分析すると、カズはユーモアがあって、彼の影響はビッグ・ダディ・ケーンとかにも及んでるわけ。気の効いたこといいながら、にやついてる感じ?メリー・メルはライオン。クール・モー・ディーは言葉使いとかね、あきらかに大学行ってたっていうのが判る感じ。ボキャブラリー豊富だからね。(画面に出たら)むちむちしてたね、そういえば。『あれ?』と思った。Run-D.M.C.は、俺は大ファンだから。Run-D.M.C.のライブは、失神するぐらい・・・俺も・・・渋谷でオニキスと一緒にやったとき、で、ライヴの最後に全員で客席に飛んできたんだよね、糞びっくりしてね。そしたら、ジャム・マスター・ジェイがスクラッチ始めてさ『ラン、ラン、ラン・・・』・・・」(と、ライヴを口で再現)。

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JOHN CARDIEL

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Interview by CB Ishii Photo by Nakashima Photography

 ハイスピードとハイエアーで人々を魅了してきた超人スケーター、ジョン・カーディエルが世界のスケート界に与える影響力はハンパなかった。だが、2003年のオーストラリア・ツアーの最中、車に轢かれ下半身不随の車椅子生活になるも、決してあきらめないポジティブ精神と不屈のリハビリでなんとか歩けるまでになり、数年後にAnti Heroの広告でマニュアル(ウィリー)している写真が掲載された時は、世界中のスケーターがその復活に沸いた。彼の凄まじいまでのポジティブなエネルギーに背中を押され彼の動向や言動ひとつひとつが神格化されてもいる。しかし、皮肉なことに彼が愛してやまないスケートボードには満足に乗れていない。 それでも彼はスケーターなのだ。スケートと共に生きていたいのだ。希望と葛藤が見え隠れする彼の現在は?Riddim Magazine、これが2度目のインタビュー。

CB 石井(以下C):僕はカーディエルとスケートしたりSizzlaのコンサートに一緒に行ったりっていう間柄だけど、もう一度Riddimの読者に年齢やスポンサーを教えてもらえますか?

John Cardiel(以下J):ジョン・カーディエル、38歳。Anti Heroのデッキ、Spitfireのウィール、それにIndependentのトラックをセットアップしたスケートボードに乗ってる。靴はVansを履いてChromeバックパックを背負っているよ。

C:ではあなたの日常生活はどんな感じですか?

J:僕の人生はクレイジーだよ。コンスタントにツアーやイベントでアメリカだけでなく世界中をまわっていて、この混乱状態の生活をなんとか整理出来るように頑張っている。それに、なるべく沢山の人と触れ合う様にしているし、自分自身をポジティブに持っていける方法を常に探しているって感じかな。

C:サクラメントの貴方の家に行ってインタビューしたのは5~6年前かな?あれから足の調子はどう?

 

J:良くなったことって言えば、強いて上げれば精神的な部分かな。バイク(自転車)に少しでも多く乗る様にしているし、それが自分自身を鍛えることに繋がっている。でも車椅子に乗っているみたいなもので、僕の足の筋肉のほとんどが満足に動かないし他の筋肉がとても疲労するんだ。

C:一日中立っていたり歩いたりは出来るの?

J:いや、それは出来ないね。筋肉が弱っているからね。

C:カーディエルはスケートで活躍する前はスノーボードもプロの腕前だったと思うんだけど、どこかのインタビューでスノーボードをもう一度トライしてみようかな?みたいなコメントを読んだけどトライしたのかな?

J:いや、やってないよ。僕はグーフィー・スタンスで、僕の左足はとても弱くて右足も身体を支えきれるほど強くない。寒い気候も足には堪えるし、とても繊細なんだ。気温が極端に低いと脳からの伝達が脚に届かなくて大変なことが起きちゃうんだ。

C:それはシリアスな問題だ。それならスケートはどれくらい出来るの?

J:もちろん少し痛みがあるけど、友達と一緒にいる時はスケートしたりする。だけど自分がスケートに乗っていることが、みんなの目に変に写っているんじゃないかと感じたりするんだ。僕の身体はまったく思い通りに動いてくれないし、スラムもたくさんする。だから自分がバカなんじゃないかと感じるんだよね。シンプルなトリックをするだけでもかなりハードにトライしないといけないし、僕にとっては周りがポジティブなバイブス(雰囲気)であることが必要なんだ。

C:そうか、人一倍ポジティブなカーディエルでさえそういう気持ちになったりするんだね。このヘビーな状況をどうやって克服しようとしているんですか?

J:ウ~ン、続けていくしかないよね。ベストの状態になるように、僕が出来ることは全てやっているさ。そうすることで過去を振り返ったり不安な気持ちになることもなくなるし。自分の足や身体にあるこの忌まわしい問題から将来自由になれるとは言えないけど、前に進む為に僕が出来ることといったら、一生懸命頑張ることと常にポジティブでいることだよ。

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スヌープ・ドッグ ロード・トゥ・ライオン

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Text by Minako Ikeshiro 池城美菜子

 新しい友達、新しい恋愛、新しい体験。
 ぜんぶ、ドキドキして少なからず緊張して、怖がったり疑い深くなったりしながら、コンフォート・ゾーンから飛び出したことで、新しい自分に出会える。

 「オレが成長するため、自分自身のための旅だった」。2012年にジャマイカに赴き、レゲエ・アルバムとドキュメンタリー映画を作ったスヌープ・ドッグ改めスヌープ・ライオンは、3月の頭、LA のスタジオでこう語った。つまりは、自分探し。40代に届いたヒップホップ界のアイコンは、それまでに発信してきた音楽のリリックと、それと一緒に出来上がったイメージと、 セレブリティとして父親として、いま現在の実感がズレて来たのが悩みだったそうだ。「オバマ大統領だって、オレをホワイトハウスに呼びたいと思うんだよ。でも、オレにはホワイトハウスで歌えるようなポジティヴな持ち歌がない」。オバマ大統領の「親友」ラッパーといえば、同世代のジェイ・Z。東海岸のドン(ジェイ)を西海岸の雄(スヌープ)がちょっと意識したか、と思われる発言。レゲエをやる理由のひとつが、大統領官邸にふさわしい存在になるため、とは論理が飛躍しているというか、スケールがデカいというか。19歳でヒップホップ史に燦然と輝く『ドギースタイル』でデビューしてから20年あまり、ギャングスター・ラップの看板を務めたり、サウスに下ってピンプを気取ったりと、ひと通りやり尽くした感があったところで、P・ファンクにさらに傾倒したり、エレクトロ寄りの曲を発表したり、ここしばらく他ジャンルに浮気心を見せていたスヌープだが、今回のレゲエ/ジャマイカは、浮気どころか大の本気だ。

 原題は、『Reincarnated (再生/生まれ変わり)』。アメリカでは、4月にリリースされた同タイトルのアルバムに1ヶ月ほど先駆けて、映画が公開された。ジャマイカは、どこをどう切り取っても絵になる島だ。彼の地に訪れて「あれ? 写真の腕上がった?」と勘違いするほど、いい写真が撮れた経験がある人も多いだろう。ドキュメンタリーも然り。比較的、短い期間にカメラを回して形になっている作品は、こちらの映画祭などでも時おり、見かける。スヌープ・ライオンの再生物語も、例外ではない。パートナーには、ニューヨーク発のエッジーなフリーペーパーからスタートして、そのコンセプトをそのままウェブサイトに移して大成功したヴァイス(www.vice.com)を選んだ。変わった題材のドキュメンタリーが得意な彼らがカメラの後ろに控えて、スヌープがガンジャ畑を求めて山道を分け入ったり、先日亡くなったセドリック・ブルックス(R.I.P.)らを輩出した青少年更正施設、アルファ・ボーイズ・スクールで少年たちに語りかけたり。前半は、「これ、ガンジャ推進映画なの?」と思ってしまうほど、スクリーンが煙たい。スヌープはマリファナ合法化推進派だから、その意図もあったかも知れない。

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Johnny Osbourne

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Interview and Photo by Shizuo Ishii Translated by CB Ishii

久々に来日したJohnny Osbourneに会った。ダンスホール・シンガーとして自らを位置づけ、60年代末にデビューし、今も第一線で活躍する彼にインタヴュー。

●いや〜、久しぶりだね!

Johnny Osbourne (以下J ): イエス! 久しぶり、久しぶり!

●前回の日本にはJosey Walesと来たんだっけ?

J : Josey WalesとJaro(キラマンジャロ)とRankin Taxiのイベントだよ。97年だな。それからずっと日本には来てなかったからね。初来日はWackie’sと来て、2回目はReggae Japan Splash、3回目はJaro、今回が4回目かな。

●このRiddim onlineの読者に簡単にあなたのBioを教えて下さい。

J : Johnny Osbourne,、俺はダンスホールのゴッドファザーだ。この世界で60年代、70年代、80年代、90年代、そして2013年の今になってもタフにダンスホールをやってる男だ。

●あなたのイメージはStudio Oneなんですけど、初めてのレコーディングはCoxsonでしたっけ?

J :いや、違うよ。初めてのレコーディングはJJというんだが、彼はまだ有名なプロデューサーではなかった。2回目のレコーディングはThe Wildcatsというバンドの為に歌った。1963か64年に「All I have Is Love」という曲を作ったが、たぶんそれが初めて世に聞かれた曲かもしれない。その後はアルバムのレコーディングをWinston RileyのTechnicsレーベルで録ったんだ。それが1969年の「Come Back Darling」だ。1968から69年にWinston Rileyとレコーディングを始めて、1969年の「Come Back Darling」がリリースされた時に僕はカナダに移住していて、1979年にジャマイカに戻ってきた。だからStudio Oneで初めてレコーディングしたのは1980年だ。

●なぜカナダに移住したのですか?

J :カナダのトロントには母親が住んでいて、僕を心配してよんでくれたからなんだ。というのは1968~69年はジャマイカの政治の上のターニングポイントとなった年で、政治がらみの犯罪が急増していた。ジャマイカで銃が流行りだして二つの派閥が銃で争い合ったんだ。

●トロントにいた時には音楽活動はしていたんですか?

J :いくつかのバンドと音楽キャリアを切らさない為にやっていたって感じかな。Ishan Peopleというバンドで歌ってたら”Blood, Sweat & Tears”というバンドのDavid Clayton Thomasというプロデューサーに出会って、カナダのGRTレーベルから2枚アルバムをリリースした。Ishan Peopleはカナダでは最初のレゲエバンドだったし色々と頑張った。カナダ中をツアーでまわったしね。

●そういえばLeroy Sibbles(Heptones)もトロントに住んでいましたよね。

J : その頃はLeroy Sibblesは4ブロックしか離れていない所に住んでたよ。Stranger Cole, Jackie Mittooなんかも近所に住んでたね。

●どうしてみんなトロントに移住したんだろう?

J :う~ん、僕には僕の理由があったってだけで他の人の理由は分からないけどね。でもジャマイカで生まれ育ったら他の世界も見たくなるからね。それに今思えば他の国に出てジャマイカを見ることも大切だと思う。

●ではジャマイカに戻ったのは?

J :当時音楽的にカナダのレゲエは遅れていたんだ。僕には刺激も足りなかったし当時のカナディアン・レゲエはレイドバックしたものだった。僕はそういう気分じゃなかったし、ミュージシャンは正しくやっていたけどトロントが寒いからなのかレイドバックはしているんだけど何かが足りなかった。自分の中でもジャマイカとの繋がりが欠け始めているのを感じ始めていたし、それをどうしても取り戻したくて帰ったんだ。

●Studio oneでの最初のレコーディングは何でしたか?

J : 1979年の終わりから80年の始めくらいにレコーディングを始めたんだけど「Water More Than Flour」という曲が初めてで、アルバムを作ろうと決めたんだ。色んなリディムをテープを聞いたりしながら探して好みのリディムを選んだ。それを僕のベストアルバムだとかコレクターズ・アイテムだという人がいるんだけどそれが「Truths and Rights」だ。

●貴方にとってのCoxsonはどのようなプロデューサーでしたか?

J : Coxsonは憧れのプロデューサーだった。僕にとってのBerry Gordyだ。だから彼はレゲエ界のBerry GordyでStudio Oneはレゲエ界のMotownだ。そしてMr.Coxon Doddは僕にとって家族みたいなものさ。

●その頃のライバルとか、または最も仲が良かったアーティストは誰ですか?

J :正直言ってライバルは思いつかない。僕は誰とも競っていなかったし、僕は僕のことに専念して力を最大限に出すことを考えていたからね。僕は競ってこそはいなかったけどもちろんそこには競争はあったと思う。歌うことこそが僕の人生だから、ライバルのことなんて考えたことがないな。ただStudio Oneで仲が良かったのはFreddie McGregor、Jennifer Lara、Judah Eskender,、The Silvertones,、Devon Russellかな。みんなで一緒にハードワークしたんだ。

●Winston Rileyとは僕も30年くらいのつきあいでした。亡くなってしまって残念です。貴方とThe Sensationsのつながりは?

J :The Sensationsは友達でよく一緒に座って歌ってた仲だよ。僕が「Come Back Darling」のアルバムを制作していた時に、僕とThe SensationsとWinston Rileyはとても仲の良い友達だった。彼らがハーモニー、バッキングボーカルをあのアルバムで担当してくれていた。あのアルバムの中では彼らはとても存在感があった。だからJohnny Osborune & The Sensationというクレジットになった。だが僕はメンバーではないよ。

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HAKASE-SUN Reggae Spoonful

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Interview by Shizuo Ishii 石井志津男

HAKASE-SUNの7枚目のソロアルバム 「Reggae Spoonful」が発売中。先日FMで流れているのを聞いて早速コンタクト。そのコダワリのアルバムについてあれこれインタヴュー。

●では先ず生い立ちから聞かせて下さい。HAKASEがそもそもピアノにハマったっていうのは?

HAKASE-SUN(以下H):僕は大阪生まれで、ピアノは親に習わされたんですよ。小学校1年から中2くらいまで、兄弟三人が自分を含めてやっていました。ピアノの先生が「この真ん中の次男(HAKASE)は筋が良い」って言ってたというのを割と最近親から聞きました。でもその頃は嫌々ピアノをやっていて、高校とか中学とかでバンドやるじゃないですか。それでなんか勘違いしちゃったみたいで、ちょっとミュージシャンになろうって密かに思って、その時にOVERHEATで出してたバニー・ウェイラーとかグラディとか色々聴いていて。その頃は情報なんてなかった。85年に上京してMUTE BEATを好きになって、その辺の出会いっていうのが大きいので。

●あのフィッシュマンズにいたんだよね、一番最初からいた?

H:いや、ちょっと途中ですね。

●また途中からいなくなるんだよね、じゃあ80年代末のあの大東文化大の学園祭の時は?MUTE BEATも出てたけど。

H:あの時はいました。

●それでフィッシュマンズの事務所もここ(OVERHEAT)から歩いて1分のすぐそこだったもんね。

H:大東文化大の時はもう震えましたね、MUTEと同じステージに立って、松永(孝義)さんにサイン貰って、なんかこだま(当時は小玉和文)さんって意外と会うとゆるいなみたいな。

●ハハハッ(笑)

H:それからフィッシュマンズのファーストはこだまさんプロデュースです。それで仲良くさせてもらって。

●辞めたのはどういうきっかけなの?

H:あの時27才だったんですけどね、やっぱり自分の自意識が凄く高まっていた時期で、自分がやりたいものをやりたいなっていう感じですかね。もう忘れました。辞めて良かったと思います。バンドにとっても良かったんだと思うし、僕にとっても良かったと思うんです。

●今はソロ以外だと、ムードメイカーズとLITTLE TEMPOとあと何をやってるんでしたっけ?

H:割と最近なんですけど、OKIさんってアイヌの。

●OKI DUB AINU BANDですか?

H:今回は OKI SPECIAL BAND という名前で、ドラム、ベースも前と違う人で、ドラムがヤギー君って人でベースが河内洋佑君、あと僕がキーボード、それとOKIさんの4人でライヴやっているんですよね。都内でも何回かライヴをやってるんですが、それが今一番バンドらしくて面白い感じですね、新鮮です。

●今回声をかけさせてもらったのは、2〜3日前にFMで流れていたからなんだけど、この『Reggae Spoonful』は何枚目のアルバムだっけ?

H:オリジナル・アルバムとしては7枚目です。2001年に1枚目を出して、大体2年に1枚くらいのペースで出して、ベストアルバムを1枚出して、2008年には映画のサントラ(『人のセックスを笑うな』)を出して、それでもHAKASE-SUNのオリジナル・アルバムとしては7枚目です。4年ぶりという事で。

●すごいですね。

H:ずっとやっているとマンネリにもなるし、方向も自分の行きがちな方向が見えてきちゃう。それはそれで良い事ですけど、聞いてくれる人もそれを期待してるけど、やっぱりワンパターンになると良くないなと思って、今回は自分の中で少し新しい方向性っていうのを出していまして、だから60分あるんですよ。

●今はアルバム10曲の時代に帰ってきてるのに。

H:13曲の全てがオリジナルで、自分の中で曲の黄金律っていうのがあって、1曲にストーリーを持たせたいんですよね、起承転結というか。割と物語を読んでいる様な感じというか、それでこの『Reggae Spoonful』っていうアルバムは、そういうタイトルの小説を読んでる様な感じです。自分で分析すると作り方が文学的なんですよね。

●全て自分で作曲からミックスまでやっているけど、それってかなりの拘りだよね。ソロの最初からそうだっけ?

H:1枚目2枚目は外でミックスしたんですけど、あとそれ以降は自分でやってますね。ソロ・アルバムは自分の部屋で作るのを基準にしています。部屋があって横にキッチンがあって、シンクの前に立ってお皿を洗ったり料理を作りながら、次また音楽をやるっていう生活。凄く狭い世界だと思うんですけど自分の部屋から生まれてくる音楽というか、それを基準にしたいなと思っていて。

●なるほど。でもマスタリングだけは、いつもロンドンだよね。

H:ここ最近はそうです。結構お金もかかるんですけどね。やっぱり自分で持って行って。

●行ってるんだ!(インターネットで)データを送れる時代に!

H:行ってます。ファイルで送るのが嫌なんですよ。最近でこそ関係者にはファイルとかで送るようになったんですけど、今まではCDRをいちいち焼いて送ってました。ファイルでやりとりだったら本当は(経費が)安いんですけどね。何かが欠落するっていう気がしていて、スタジオに行って自分がその場所に居て、自分なりのヴァイブスを発して、マスタリング・エンジニアとやりとりして、そこまでやらないと自分の作品って気がしないんですよ。今時マスターをDAT テープで持って行って、あっちでマスタリングを仕上げてもらってまいす。良い所でやると仕上がりがやっぱり違うんですよ。今回もケヴィン(Kevin Metcalfe)っていうこの世界で35年間くらいやっている人ですけど、そうするとアルバム作ってからの耐久性が10年くらいある気がして。だから2002年からこのケヴィンにやってもらっていて、実際に10年前のアルバムをしっかり聴いてくれている人っていうのも存在するし。

●うんうん。それはマスタリングだけじゃなくて曲がいいってことかもしれないよ。

H:そこかもしれないですね。なんかおまじないっていうか、ここまでやれば大丈夫だろうっていう。

●マスタリングはもちろん重要で変わるけどさ、そこまで拘っているのは凄いなと。全てに凄く拘っているアルバムだよね。特にプログラミングからミックスまでは全部だからね。

H:ええ、拘っています。ドラムの音一つから、最終的にはやっぱ自分の好きな音、聞き覚えのある音っていうので作っているんです。でもそのやりたい方向とかイメージが100パーセント自分通りになるっていうものでもなくて、違う方向に流れていったりして、マスタリングしたマスターから焼いた時点でもう音質は多少変わったりするし、100パーセント自分のイメージっていうのは有り得ないから、今回は割とおおらかに作ったっていうことかな。

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Reggae Sumfest 2013 The Greatest Reggae Show on Earth ——世界で一番のレゲエ・ショウ

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Text and Photo by Minako Ikeshiro

今年で21回目を迎えたレゲエ・サンフェス3日間「ダンスホール・ナイト」「インターナショナル・ナイト1~2
を池城美菜子が現地レポート。

 今年で21回目を迎えたレゲエ・サンフェスのキャッチフレーズだ。「世界一」は、トリッキーな言い回しだろう。規模を持って一番というのか。出演アーティストの顔ぶれか。観客数、演出、フェス自体の知名度……要素なら、いろいろ上げられる。はっきり書くと、観客の動員数では、ヨーロッパや日本のレゲエ・フェスの方が大きい。だが、レゲエが生まれた国、本場のジャマイカで一番大きく豪華なコンサート、という点で、トニー・レベルのレベル・サルートや、キングストンで年末に行われるスティングと比べても、サンフェスは「一番」となる。何しろ、舞台となるモンティゴ・ベイはジャマイカ第2の都市ながら、人口はたった9
6千人。ヨーロッパ最大のサマージャムが行われるドイツのコロン市は100万人都市だし、横浜市の人口は300万人を越えている。「レゲエの島」とはいえ、ふだんは10万人もいない場所で、6千人〜1万人近い人々が3晩続けて6〜8時間ずつレゲエを楽しむのだから、それはもう街を上げて、いや、ジャマイカの威信とレゲエ/ダンスホールのメンツをかけたビッグ・ショウになるのだ。

 サンフェスは昨年、20周年という大きな節目を 迎えた。ジャマイカ生誕50周年も重なって、なにかと大掛かりだった前回に比べて、今年は手堅い印象で、ラインナップはむしろ地味な気がした。本音を言えば、私もコンシェンスやクリストファー・マーティン、ビジー・シグナル、モヴァードあたりの、最近コンスタントにヒットを放っていたり、話題性が高かったりするアーティストをもっと見たかった。例年の顔ぶれを考えて、インターナショナル・ナイトの目玉であるR&Bとヒップホップのアーティストも、ミゲルとフロー・ライダーのほかに、直前にもうひとり大物が足されるだろうとも思っていた。

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Reggae Sumfest 2013 Part.2 / International Night 1 & 2

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Text & Photo by Minako Ikeshiro

 レゲエ・サンフェスは3日間のフェスで、初日のダンスホール・ナイトと、2晩目と3晩目のインターナショナル・ナイトで構成される。初日とインターナショナル・ナイトの2日間の大きな違いは、出演アーティストとセット・チェンジの数だ。多くのアーティストが出るダンスホール・ナイトは10時間近いのに、ラフ・カット・クルーだけ。以前は複数バンドがいて1、2回セット・チェンジがあったように覚えているのだが、今年は私が見た11時以降は、もう、延々と後ろを固めるラフ・カット・クルーの姿があって、明け方にはマラソン・ランナーの様相を呈していた。インターナショナル・ナイトはその逆。出番が短い最初の2時間のアーティストこそバンドをシェアーするが、基本的には各アーティストが自分のバンドを引き連れて出演するスタイル。つまり、メーン・アーティストの数だけ、セット・チェンジがある。だから、ダンスホール・ナイトの回転数が45なら、インターナショナル・ナイトは33回転で進む。メーン・アーティストたちの持ち時間は40分から1時間強。そう、単独もしくは、自分がヘッドライナーのライヴとほとんど同じセット内容をじっくり楽しめるのが醍醐味。

 7月25日、金曜日。恒例のプレス・カンファレンスの最後の方で「来年から6月に行うことを検討している」と主催者が発表。7月だと世界中でレゲエ・フェスがある上、それを織り込む形で人気アーティストがツアーを組む傾向が強まり、7月第4週だとジャマイカに引き止められないからだと言う。日本の紅白ほどではないけれど、 サンフェスは国内のアーティストの出演料が安いと聞く。当たっているアーティストがあれこれ天秤にかけて、海外での営業を選んでも仕方ない面があるのだろう。 私としては、日本国内でもレゲエのイベントが集中する7月より6月の方が、サンフェスを目玉にジャマイカ旅行を組む日本人が増えるような気がするので、歓迎だ。

 インターナショナル・ナイト第1日目も11時に到着。いきなり、バーリントン・リーヴァイと大物が登場。6月にニューヨークで見たばかりだが、その時は R&Bの大御所パティ・ラベルのせいで出演時間を短くされたとかで、終始お怒りモードだった。今回こそ朗らかに歌うリーヴァイ卿を見られると思ったら……やはり「45分は短い!」と怒っていた。それでも、中盤に 彼が隠し持っているロックンロール(ロック、ではない)面が引き出されて、ガンガンペースを挙げて行く様は圧巻だった。声の素晴らしさに隠れてあまり指摘されないが、バーリントンはDJ並みのリズム感を持つシンガーだ。終盤の“Murderer”〜“Black Roses”〜“Too Experienced”の流れは素晴らしかった。

次がフロー・ライダー。ラッパーだが、ジャンルとしてはヒップホップではなくてEDMのアーティストだ。ジャマイカの大きなフェスではハードコアなラッパーより、シングルヒットの多いちょっとチャラい(すみません)ラッパーの方が受けるので、適役。 バラを配るわ、女性客をステージに上げてダンス大会にするわ、パーティー仕様でテンションを上げて、役割をしっかり果たしていた。

次はキング・ベレス。彼と彼のバンドは完ぺき主義のため、セット・チェンジが長くなるのが分かっていたので、会場全体をパトロール。携帯電話会社のデジセルのブースに人が集まっていると思ったら、なんと前夜にトリを務めたばかりのアイ・オクテーンがミニ・ショウを行っていた。デジセルの看板キャラクターとは言え、大らかだ。「昨日はあっちで歌っていたんだけど!」と逆側のステージを指して本人も言っていた。

 もし、サンフェスそのものよりジャマイカで重要な存在がいるとしたら、ベレス・ハモンドだろう。一昨年あたり、彼も海外でのツアーを選んでサンフェスに出なかったが、やはり穴が大きくて物足りない気がしたものだ。この夜は万全の体勢。歌い出してすぐに、「今日のステージは、本当はここにいるはずなのに一緒にいないブジュ(・バントン)に捧げる」と言って喝采を浴びた。彼は1時間以上持ち時間があるので、 比較的新しい曲や、初期の曲などいつも歌わないレアな曲も混ざる。聴ける確率が半分以下の“Don’t Disturb Sign”もしっかり歌ってくれた。“Putting Up Resistance”や“Rock Way”といった鉄板の代表曲も盛り上がるけれど、ジャマイカ人は“Double Trouble”や“Sweet Lie”のラヴ・ソングで合唱するのが大好きだ。私は、その合唱しているジャマイカ人を見るのが大好きだ。隠れクラシック“Love Means Never To Say I’m Sorry”の熱唱で、「ジャマイカのソウル」を歌えるからこそ、ベレスがキング・オブ・レゲエなのだと思い知る。

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ILL-BOSSTINO   PRAYERS (#1)

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Interview by Riddim online

 たまたま、スケジュールが調整できたインタビュー当日は参院選投票日、7月21日(日)だった。 
 選挙結果に、事前から半ば諦めとそれでも淡い期待を混濁させながら、THA BLUE HERBがあの日から2年目の節目に敢行した、岩手県は宮古、大船渡と宮城県は石巻の東北被災地3箇所をまわったツアーと、8月14日に発売されたDVD「PRAYERS」について聞いた。
 聞いた話に胸を熱くしたのも束の間。
 投票結果はご存知の通り、そして東京電力は選挙の次の日、狙い済ましたかのように大量の汚染水の海洋流失を認めた。
 もう、誰に頼るわけでもなく、ただ漫然とヒーローの出現を待つだけでなく、僕たち一人一人が考え、動き、声を出す時ではないか?
 しかし、いざその時になってみると、出し方すら見失いがちな最初の一歩。
「この状況で、声出さなくて、どうすんだよ」
 それを踏み出し続け、体現していることを説得力としながら頼もしく背中を押してくれるのが、ILL-BOSSTINOの言葉である。

●とにかく、今日が今日という日なのでこの質問からお願いします。投票には行かれましたか?

BOSS(以下B):不在者投票してきたよ。

●18時頃の時点で、結局投票率は、前回を相当下回っているとのことでした。

B:そうなの?自分のまわりの状況とは乖離があるね。俺の周りはみんな「当然行く」って。選挙の度に、「自分は少数派なんだな」って気付かされるよね。

●その、「少数派であること」は居心地良いことですか?

B:まさか、全然。むしろ「なんで行かないの?」って、ビックリだよね。

●「こちらが王道である」し、「正論なのに」と。

B:もちろんそう思ってる。でもこの国に生きていると、「正論だから少数派なのかな」とも思えるような気がするね。

●それは「この国」でしょうか?または、世界が全体としてそうなんでしょうか。

B:いや、でも「この国」なんだと思うな。全世界のやつと喋ったわけじゃないけど、どこに行っても、若いやつはもうちょっと意識高いよ。ヨーロッパとか行くと、若いやつでもみんな政治のことに敏感で、もちろん全部を知っているわけじゃないけど、直感でそう感じる。日本でも、少しずつそういう感じになりつつあるのかな?と、思ってはいるけれど。賛成反対、保守革新問わずに周りには意識の高い人達はたくさんいるけれど、投票率の低さが如実に現状の日本を物語ってるよね。

●DVDではステージから、「この状況で声出さなくてどうすんだよ」、「今こそ声が聞きたいよ」と仰っていました。しかし、東北という土地柄からか、「でも、自分よりも大変な人もいるんで」との声も聞こえてきます。それは北海道ともたぶん違う、そもそも我慢を美徳とする文化があるのかもしれません。

B:前に福島のいわきに行った時に、俺は現地の人がもっと怒るべきだと思ってたし、みんな実際に怒っているとばかり思ってた。街中が怒りで満ちてると。それは俺の感じた範囲でだけど、現地の人は意外とそうじゃなくて。それで、「何でなの?」って聞くと、「一生、怒りを抱えて生きるのはしんどいんすよ」って。そう言われた時に「あぁ、確かに」って、何にも言えなくなっちゃった。怒りをキープしたまま生きるって、「それは疲れるよな」となると、人間の本能としてそこを封じるというか、それは東北に限ったことではなく、人間は、日々生きていく過程でそういう方向に本能的に傾いていくのかなって思ったりはしたんだ。やっぱり内側から出てくるものだから。でも、そこは何でなんだろうね。東北の歴史、置かれてきた経緯とか、そこから発展して、色んなことを考える。北海道は開拓の歴史で考えても100年ちょっとで、外から来てるし、ある意味で俺らの先祖なんてアメリカにおける開拓にやって来た白人みたいなもので、アイヌを殺して全部奪ってやってきた。そういう北海道なりの原罪がある。東北の人たちとはそもそも歴史が違う。だから東北の人たちの気持ちややり方に関しては、不思議に思ったことは何度もあるけど、答えは出せてない。

●今回の東北ツアーでは、そのわからない感じを再確認したのか、それとも新たな何かを見出せましたか?

B:まず今の「怒り」ってことに関しては福島の人たちに対して思ったことだけど、今回のDVDに入っている、岩手と宮城3箇所のライブ・ハウスで思ったことは、またちょっと違うんだと思う。

●津波の被災地においては、もっと、言葉にすると「悲しみ」から始まる何かということでしょうか。

B:うん。その方向の方が強くて、もちろん政治や復興に使われるべき金が機能してないということへのフラストレーションは抱えているかもしれない。でも、かといってそれが「怒り」に直結したりしているとは思わなかった。

●もしかすると、福島は今も現在進行形ですし、仰られた「怒り」も絡んできて、その違いがあるから今回のツアーに入っていないのかなとも思いました。

B:いや、まずは今回行った3箇所を金土日で1回で行って、福島にはその約1ヶ月後に行ったのね。だから純粋に「この3箇所に行こう」というのがまずあった。でも、もう一つはさっき言ったみたいに、確かに俺の中で、東北全域に対する気持ちと福島の人に対する気持ちがちょっと違う。やっぱり福島の場合は、震災は勿論だけど、原発の問題がとてつもなくややこしくて、かたや東北は完全に自然災害で。

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ILL-BOSSTINO   PRAYERS (#2)

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Interview by Riddim online

「考え、改めて自分の立ち位置を再確認するきっかけになった」と語る先の参院選を引き合いに出しつつ、自らが音を鳴らし、ライブを続ける根本姿勢に言及してくれたILL-BOSSTINOインタビューの前半。
 後半は、DVDと新曲のタイトル が「PRAYERS」=「祈り」に行き着いた経緯。そしてそれは、満を持して足を向けたつもりの東北の被災地で、自身がかつてないことを体感しながら入っていった、新フェーズの話へと繋がっていった。

●そうして自分の立ち位置、進み方を確かめながら、2年間かけて紡いだ言葉を現場で鍛え上げ、いざ東北で満を持してライブを敢行し、そこでDVDにあったのは「高校生に心動かされてしまった」と。

B:(笑)この一年、昨日までで93本ライブをやってきた。やってて、それが自分の精神修養というか、「これは『修行の道』だな」ということは多々あったよ。ライブを聴いてくれてるお客の周りで、別のお客がふざけたり、色々やってるのもみーんなステージで認知しながらラップして、「何だよコイツら、やる気あんのか」とか、そういうことを思う小さな自分もライブ中出てきたりしながら、「俺っていう人間は本当に変わらないな」ってこともたくさんあって。

●一年でライブ93本は、キャリアにおいては多い?

B:今までのペースとはそんなには変わらないけど、でもまあ、多いとは思う。一年間で47都道府県も全部行ってね。

●それだけやって「喋り足りない」部分は残りますか?

B:今日の段階ではもうない。吐き出しきってる。むしろ、ちょっとインプットしないとヤバいと思うから、今後3ヶ月間、8、9、10月はライブをやらないんだ。

●DVDの楽屋シーン、さっきの「高校生に心動かされた」ということもあれば、最初からガッツポーズのシーンもありました。ガッツポーズが出る時の、その分岐点にあるのは何でしょう?

B:どっちも到達感はあるけどね。特にこのライブ3本に関しては、1本目は自分と東北の被災地の、それは自分の気持ちとお客との噛み合い方からして手探りだったし、そんな中で目の前には、はしゃいでる高校生もいて、気持ちが揺れちゃって。だから結構、宮古でのライブはしんどかった。でもそれも、今思い返すと絶対に必要な過程だった。その「このお客が何を思ってるか」ってのは永遠のテーマだね。これは相方の(DJ)DYEともよく話すんだけど、俺ら的に「がっつりやったけどあんまりお客がついてこなかった」って言うけど、いざ終わって外に出ていくとみんなすごい感動してたとか、俺らがすごいやり切って、最高お客とリンクできたと思うけど、実はそう思わない人も多かったとか、「何を思ってるか」なんてテレパシーの世界だから。それでまず宮古は、お互いの間にそびえ立つ大きな壁を乗り超える難しさ、その目の前に現れた高校生とのコミュニケーションの難しさ、この両立が難しく感じた瞬間があったのは事実だね。でも、最後はやっぱり色んな違いを超えて「イェー!」ってとこまでいけたと思っているんで、バッチリでした。その後、大船渡と石巻では普段のライブとそこまで変わらなかったというか、もちろんその2箇所も被災地ではあるんだけど、俺も被災地の空気を吸った後だったし、その辺が最後のガッツポーズに繋がったのかなって。

●ライブ中には、「このままじゃ操られるだけの、ただの哀れなバカになっちまうぞ」という言葉がありました。そこは、今日であれば無関心を装って投票に行かない人たちが連想されつつ、言葉の矛先は東北に限らず、日本全国に向けて?

B:そうだね。ライブは3月の15、16、17日なんで、あのあたりは特にそういうテンションでセットを組んでいて、それも今はまた違うセットに変わっている。あの頃、かなり気持ち入れて鳴らしてた部分ですね。

●DVDと新曲のタイトルは「PRAYERS」です。今回、どういう経緯で「祈る」という言葉に行き着いたんでしょうか?

B:「祈ってる」というセリフ自体は、「あなた方のことを、俺はちゃんと見続けているよ」とか、「ずっと忘れないよ」、「絶対また帰ってくるよ」みたいな、そういう意味になる言葉として使っていました。「みんなに話し続けるよ」、「物資送り続けるよ」とか、そういう伝えたい気持ちの色んなこと全部が「あなたたちの幸せを祈ってるよ」という、その言葉に集約されたという感じです。俺は特定の宗教を信じているわけではないし、でも「祈る」行為は、神様か誰かに祈って、間接的に何かをしてもらうためにってこともある。でも、俺はそういう感じで祈ってはいないし、鎮魂ではない。東北の地で、亡くなられた方々への鎮魂の祈りを捧げている、今を生きている人に向けた祈りですね。

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H-MAN 天地人

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Text by Naohiro Moro 茂呂尚浩 Photo by EC

 8月に通算8枚目となるオリジナル・アルバム「天地人」をリリースした孤高のリリシストH-MAN。世相を取り巻く、怒り、悲しみ、喜び、空しさ、希望、絶望、願望、妄想。全てを取り込み、飲み込んだ末の達観。淡々とライムするタイトル曲「天地人」からは、H-MANの心境なのか、そんな印象を受ける。
 その「天地人」の世界観を、茅ヶ崎在住で多くのジャパニーズ・レゲエ作品のミュージック・ヴィデオ(最近の作品ではMIGHTY CROWN「STAY POSITIVE」と「STAY POSITIVE NANIWA」、CHOZEN LEE「Miss Okinawa」、Jr.Dee「Knowtenki」、TAK-Z & NATURAL WEAPON「あとの祭り」やARROWMAN RECORDS(YARD BEAT)のほとんどのMVなど)を手掛けて来た映像作家泰太郎が監督。海岸線に連なる断崖絶壁を舞台に、シンプルな作りながらそれを逆手に取ったセンスあるカット割りと、ロケ地の持つスピリチュアルなパワーが相まって、楽曲のイメージを見事に表現し切った作品となっている。
 そんなH-MANと泰太郎氏に連絡して小田急江の島線藤沢本町駅前のカフェ「凛」で待ち合わせた。レゲエDee Jayバミューダの店である。撮影時のことや、アルバムのことなどを語ってもらうためだ。9月の暑い昼下がり。のんびりと取材は始まった。

●このPV、アルバムのジャケと同じ場所で撮影されたんだと思うけど、これ、すごい場所だよね。この場所の持ってるパワーがまず違うかな。ここはどこなの?

H-MAN(以下H):屏風ヶ浦。千葉の。(EC)社長が知ってた場所なんだよね。

泰太郎氏(以下Y):曲を聞かしてもらった印象と風景がものすごく合ってたから、、、。何て言うか、もう次元の違う場所っていうか、、、。

●これはジャケ写の撮影とPVを一緒にやった訳じゃないんだよね。

H:別でジャケット撮影は7月。PVは8月の真っ只中のスッゲー暑い時でさ。もう夜中に出て、朝イチから撮影始めて。軽く憂鬱だったよ(笑)。しかもあの衣装着てさ(笑)。

●でも天気にも恵まれて、1日で撮ったんでしょ、朝から夕方までかけて。

H:いや朝イチから始めて昼頃には終わってたよ。もうこっちを夜中に出て、、。

●あ、そうなんだ。エンディング付近で出て来る空の色。あれは夕方っぽいけど、逆にあれは朝陽なんだ。ふーん。ほんとに場所の持ってるパワーがすごいよね、あの地層むき出しの断崖絶壁がスピリチュアルというか、パワースポット的な、、。

H:自殺の名所みたいですよ(笑)。

●ホントに!!やっぱそういう人の生き死にに関わる場所なんだ。

H:地元の人は何か言ってるらしいね。まあちょっと、現実離れした雰囲気の場所だね。

●それも含めてパワースポットと言うことで(笑)、、、。泰太郎はH-MANのPVは初めてだっけ?

Y:初めてです。もうパイセンですから(笑)。もう知り合って10年以上になりますけど、その間、ずっとパイセンですから(笑)。いやもう何回PVやらせて下さいって言ったか分かんないけど。やっと出来ました。

H:話しにはいつも出てたんだけどね(笑)。

●知り合った頃はまだ映像やってなかったでしょ?

Y:もうやってたかな。ちょうどやり始めた頃とかそんな感じなのかな。

●最初は山嵐のPV作ったんでしょ?それが何年前?

Y:25、6の頃だから15年ぐらい前で、その後MOOMINや三木道三をやらせて貰って、、、。

●マイジャ(MJR)やって、、、。いろいろ作ってたよね。じゃあH-MANはとっくに歌い始めてるから、最初は泰太郎がそんなにレゲエどっぷりなところから始まってないからかな。

Y:そうですね。バンド・カルチャーというか、最初、そっちだったから。年齢的には3つぐらいしか変わらないけど、もうレゲエの世界ではパイセンですから(笑)。Hさんは最初の頃からいつも会うと背筋が伸びるっていうか。怖い人だから(笑)。

H:怖くねえよ(笑)。

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Trilla U

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Text by CB Ishii(石井“CB”洋介) Photo by EC Ishii

 Thriller Uの曲を一度も耳にしたことがないレゲエ・ファンなんていないだろう。90年代初めにはジャマイカだけではなく、イギリスの某レゲエ・チャートで常に上位に食い込んでいるダンスホール・シンガーだった。美声と長身にスリムな体型、それと憎めない笑顔で、ここ日本ではVICTORとavexからリリースされ沢山のファンを掴んでいた。その頃のマネージャー/プロデューサーが日本人のEC(Riddim Online編集長)だった。彼は6枚のフルアルバムと1枚のミックス・アルバム、たくさんのシングルを制作し、リリースした。その中にはレゲエ畑だけではなく、NYでのKRS-One、Gang StarrのGURU、そしてSalaam Remi、イギリスではUB40やIncognitoのBlueyといった時代の寵児達にプロデュースされた素晴らしい曲も含まれていた。
 僕はまだ小学生だったけれど父(EC)の関係で、Trilla Uが出演する渋谷クアトロやOn Airというクラブには何度も見に行っていた。

● ECが88年にマネージメントを終了してから今までにアルバムは何枚出しましたか?

Trilla U(以下、T) : ECとの仕事が終了してからはアルバムは1枚しか出してないよ。でもそのかわりシングルは沢山出してきたし、無名でも若くて芽が出そうなプロデューサーたちと曲を作ってきたよ。

● L.U.S.T.とソロアーティストのTrilla U(以前はThriller U、現在はパトワ綴り)となぜ2つをやっているのでしょうか?

T: ECとのマネージメントが終了したあたりの98年にL.U.S.T.を結成したんだ。僕たちは全員がジャマイカではシンガーとしての地位を確立していたんだけど、ジャマイカの音楽業界の中でもっと何かスペシャルなことをやりたかったんだ。ビジネスサイドから考えても違った角度から切り込もうとね。だから今までとは違ったモノを人々に届けようとL.U.S.T.としては2枚のアルバムをリリースしているよ。Trilla Uとしてはアルバムは1枚だね。今現在世界中のほとんどのグループはソロ・アーティストとして確立されたアーティストが結成するグループはないよ。もちろん素晴らしいグループだったNEW EDITIONとかが、解散した後にボビー・ブラウンがソロで成功してっていう流れはあるけどね。でもL.U.S.T.は違うんだ。Tony Curtis、Trilla U、Lukie D、Singing Melody、僕ら全員が既に世間に認められているんだ。だからグループをもっと強力なモノにするし、スペシャルなモノにする。だからTrilla UとL.U.S.T.として2つで歌う理由はL.U.S.T.を強くしていく為でもあるんだ。ほとんどのグループはリードシンガーという役割がいるけど、L.U.S.T.は全員がソロで活躍している実力者なんだ。ソロとしてのキャリアもキープしつつL.U.S.T.をより良い物にしていく。だからL.U.S.T.をブッキングしようものなら個々の4人とL.U.S.T.と合計5アーティストをブッキングした様なものなんだよ。だから僕はTrilla UとしてもL.U.S.T.としても活動している。そして今回はTrilla Uとして日本に来たんだ。

● T.O.K.やVoicemailとの違いはどこなんでしょうか?

T : それは同じ答えになるけどやっぱり各個人がソロ・アーティストとして活動してきていること、そして僕たちはダンスホールじゃない。T.O.Kはダンスホール・グループだし、Voicemailもどちらかというとノリの良い曲が多い、でもL.U.S.T.はもっとメロディアスであらゆるジャンルの曲を歌える。ラーバズ・ロック、スカ、バラード、ハードコアからソフトなレゲエまで出来るんだ。そこが彼らとの違いかな。

● 最初は誰のアイデアなんでしょうか?

T : う~ん、Lukie Dの頭の中にあったものなのかな。キング・タビーが亡くなる前の80年代からFire House周辺(キング・タビー・スタジオのあった地域名)やストリートでみんなお互いを知っていたんだ。ただTony Curtisだけは島の反対側だったから、当時はそこにはいなかったから、グループの中では一番最後に入ってきたことになるのかな。Trilla U、Lukie D、Singing Melodyの3人はよくキング・タビーのスタジオに出入りしていてほとんど毎日顔を会わせていたんだ。この頃のことはよく覚えているんだ。それから永い時間が過ぎたある日、僕たちがRecord Factory Studioにいた時なんだけど、Lukie Dがグループを組もうよってしきりに言い始めて。で、当時はBeenie ManとBounty Killaがダンスホール・スタイルで感情剥き出しでバチバチやりあっていて人々の注目もそっちに行きがちだった。ヒップホップで例えると2PacとBiggieみたいな感じって言えば分かるかな。だからLukie Dが「今こそ僕らがグループとしてまとまってシンガーというものをみんなに見せつけようよ、音楽に対するLoveやUnityを広めよう」って。だからそうだね、Lukie Dのアイデアだと思うよ。

● それとあなたは誰も体験しないような不幸に出会ってしまった。当然ECも知っている2人、ニキータとカミールについて話してもらえますか?あの頃、奥さんのカミールとまだ1〜2歳だったニキータにはあなたのPVに出演したりしていますね。

T : あのPVから時間が経って僕の娘のニキータ・ハミルトンは16歳になっていたんだ。娘と妻のカミール、その他の2人の友人にとって2009年の事件、、それは僕の誕生日の3日後のことだった。僕は娘と妻をアメリカのマイアミの友達の家に送り出したんだ。妻と娘は車で友達の家に到着して、皆のために買ってあった食べ物を車から娘と友達が降ろしていたそうだ。すると一人の不審な男が近づいて来て、妻にお金を要求してきたらしい。妻はお金は持っていないと言ったけど、この男が少し混乱気味で身なりも汚いというのが分かったそうだ。すると突然男が拳銃を取り出し、妻の頭に銃口を突きつけたんだ。そして子供達に家の中に入る様に指示をし、財布の中身を奪って、全員の手首を腰の後ろで縛り、脚もガムテープで縛たんだ。そして、信じられないことに、、、まったく無抵抗な全員の頭をブチ抜いたんだ。幸い妻だけは撃たれた弾が顔の左側だった為に一命を取り留めたけど、他の3人は帰らぬ人となってしまった。警察は容疑者を逮捕して今は公判の日を待っているところだよ。僕にとってはあまりにも辛すぎる悪夢の出来事だ。亡くなった娘のニキータも僕が残りの人生を悲しみながら生き抜いていくのは本望じゃないだろうという考えにようやくなれて、最近は立ち直ろうとしているんだけど、やっぱりそこはとても難しいんだ。毎朝僕は娘の名前を心の中で呼びながら彼女の魂が天国で安全に暮らしていますようにと神に祈っている。妻は左目を動かすことが出来ないし視力もほとんどない。僕らはず〜っと一緒に居たわけだけど、この悪夢があってから僕らの人生の全てが変わってしまったんだ。

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新バンドでルーツに迫る 今野英明

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Text by Hajime Oishi 大石始

 森俊也や小粥鉄人など現在も日本のレゲエ・シーンを支える敏腕たちも参加していた名ロックステディ・バンド、ROCKING TIMEの一員として麗しい歌声を聴かせてきた今野英明。2004年に同バンド解散以降は弾き語りを中心とするソロ活動に軸足を置いてきた今野だったが、その彼が久々のバンド活動を再開。メンバーはヤマグチユキノリ(ハモンド・オルガン/FULL SWINGほか)、モッチェ永井(ベース/eskargot miles)など今野よりも年下の世代。今野英明&Walking Rhythmとしてリリースされた初アルバム『Walking Rhythm』には、ROCKING TIME時代のファンも涙するロックステディからそのルーツにあるソウルやニューオーリンズR&B、さらにはファンクやブルースも散りばめられ、<今野英明とその仲間たちによるリズム探検記>といった雰囲気の作品となった。
 そんなわけで、ROCKING TIME以降の心の葛藤や震災以降の思いまで今野の本音も盛り込まれたロング・インタヴューをお届けしよう。味わい深い力作『Walking Rhythm』に耳を傾けながら、ゆったりとした気持ちで読み進めていただければ幸いだ。

●Walking Rhythmとして活動を始めたのはいつぐらいからなんですか。

今野英明(以下、今):ちょうど1年ぐらい前ですかね。去年の春ぐらいが初ライヴで、その前に急遽集めたバンドだったんですよ。ベースの永井くんとギターの八木橋(恒治/bogalusa)くんとはそれまでも時々やってたんですけど、ライヴハウスから話がきたんで、だったらバンドでやってみたいと。このメンバーだったら今までやりたかったことができるなと思って僕が盛り上がっちゃって。

●このバンドの前は弾き語りやソロの活動が中心でしたよね。ROCKING TIME解散以降、バンドでの活動に気持ちが向かわなかったのはなぜ?

今:まあ、バンド活動にくたびれてしまったこともあったんですが……<踊れる音楽をやりたい>っていう欲求がだんだん高まっていたんでしょうね。特に震災以降、<本当にやりたい音楽ってどういうものなんだろう?>って自問自答していたところもあって。人がなんと言おうと、売れようと・売れまいとやりたいことをやろうと思ったんです。

●もう一度バンドをやるにあたって不安はなかったんですか。

今:ありましたよ、もちろん。<また始まっちゃうのか>っていう(笑)。バンドって奇跡みたいなものだと思うんですね。バジェットがあって、いいミュージシャンを連れてくれば最高のバンドになるかっていうと、そう簡単なことでもない。音楽に時間を割ける環境があって、同じような音楽で盛り上がれるメンバーが集まるのは本当に難しいんですよ。ROCKING TIMEについても<なんで止めちゃったんですか?>ってよく聞かれるんですけど、<よく9年もやったね>って誰かに褒めてもらいたいぐらい(笑)。今回は出会いに勇気づけられましたね。だってウッドベースとハモンド・オルガンが常にいるバンドって、ものすごくリッチなことじゃないですか。<だったらこれもできるし、あれもできるな!>って盛り上がったんですね。

●今回のアルバム『Walking Rhythm』、音楽性がとても幅広いですよね。これまで表に出てこなかった今野さんのルーツが出てますけど、それもバンドとのやりとりから引き出されたものなんでしょうか。

今:それもあるでしょうけど、僕はもともと(忌野)清志郎やタジ・マハール、松竹谷清さんのように<ジャンル関係なくその人の歌になっちゃう>というアーティストになれればと思ってるんですね。でも、若いころは<ゲームのルール>を決めないといけないところがあって。その一方では昔からいろんな音楽が好きだったし、<どんな音楽でも自分の音楽にできるはず>と思ってやってたんですね。ROCKING TIME時代ももちろんロックステディは大好きなんだけど、俺が歌うと<ロックステディ>っていう言葉がどこかにいっちゃうんですよ。

●ロックステディっていう<ゲームのルール>にこだわりつつも、今野さんが歌うとそのルールに囚われないものになる、と。

今:そうだといいなと思ってるんですけどね。昔からブラック・ミュージックが好きなんだけど、そもそも黒人ぽく歌いたいわけじゃないんですよ。だって僕は昭和40年代に団地で育って、黒人になりたいわけでもなくて。だから、今回のアルバムに関していえば、これまで聴いてきたものをこのメンバーで濾過したらこうなったっていうことだと思うんですね。

●今回はそれぞれの楽曲の細かい部分もお聞きしたいと思ってるんですが、1曲目の“晴れた日”はヘプトーンズ“Why Did You Leave Me”のベースラインを使ってますね。

今:そうですね。ROCKING TIMEでやっててもおかしくないような曲だと思う。今回結構暖めていた曲も多くて、これもそうなんです。

●今まで形にできなかったけど、このバンドだったらできるんじゃないかと?

今:そうですね。あと、このメンバーでやったらどうなるんだろう?と思って。レゲエ・マニアがやるレゲエって、分かっちゃうんですよ。<ああ、リー・ペリーが好きなんだね>みたいな。でも、自分でやるときはそうじゃないものをやりたいんです。

●<レゲエ・マニアがやるレゲエじゃないものをやりたい>という気持ちは以前からあったものなんですか。

今:聴くのは大好きなんですよ。例えばSKA FLAMESはいい意味でスカ・マニアがやってるスカ・バンドですけど、昔から大好きなんです。ROCKING TIMEも最初はそういう感じで、スタジオ・ワンのカヴァーばっかりやってたんですけど、さっきも言ったように僕が日本語で歌うとマニアックな部分がどこかにいっちゃうんですね。僕、松竹谷清さんが師匠だと思ってるんですけど、清さんは<世界中の人が自分の母国語で歌ってるんだから、自分もそうしたい>ということで、最近のライヴではスタンダードを全部日本語にして歌ってるんですよ。それがまた独特すぎて、原曲とは似ても似つかない感じになってて最高で(笑)。そういう感じにできればいいなと思ってるんですよ。ブラック・ミュージックをやりたくてどんどん専門的に研究していっても、僕の場合は遠ざかっていっちゃう気がする。

●遠ざかる?

今:<黒人独特のノリを出したい>とこだわっていっても、もともと持ってるリズム感が違うわけで、いくら研究しても黒人にはなれないわけですよね。だからロックステディを研究してロックステディをやるんじゃなくて、ジャズやリズム&ブルースなどいろんな音楽を聴いてロックステディをクリエイトした人たちの<気持ちの部分>をカヴァーしたいんです。

●なるほど。今回ソウル調の曲もありますけど、スタックスみたいなバックでオーティス・レディングみたいに歌ってるわけでもないですもんね。

今:ブラック・ミュージック追求型じゃないんですよ、僕は。自分のなかにマニア気質がない。いろんな音楽の美味しい部分を楽しみたいんです。

●2曲目の“いつも一緒”はシンプルなロックステディで、これも素晴らしいですね。

今:ロックステディにはやっぱり思い入れもあるし、自分のなかでスペシャルなんですよ。性格的にもあまり早いものだと合わなくて、歩くぐらいのテンポがちょうどいい。それでWALKING RHYTHMっていうバンド名にしたんです。

●3曲目の“どこかに消えた”はROCKING TIMEのセルフ・カヴァーで。

今:もともと早いスカでやっていたものをミッドテンポでやってみようと。こんなリズムでやってみたいというアイデアは前からあったんですよ。あと、自分のなかでAORとかフュージョンみたいなアーバンな音が最近ブームで。この前もジョージィ・フェイムとベン・シドランのライヴに行ってシビれまくったんですけど、自分のなかではそういう感じのリズム。アコースティック・ソウルというかね。

●AORは最近聴くようになったんですか。

今:いや、昔から好きは好きだったんですけど、ニック・デカロとかマイケル・フランクスがしっくりくるようになったというか。あと、最近そういう雰囲気がちょっとありますよね。知り合いの一十三十一ちゃんのアルバムもコンテンポラリー・ソウルみたいな感じですごく良かったし。

●“真夜中に”は一転、今野さんのブルースハープが唸る濃厚なブルースですね。

今:これはもう……JIROKICHI(註:高円寺のブルース専門ライヴハウス)に通っていた若いころを思い出したような曲というか(笑)。単純な3コードの曲、昔はどうやっていいか分からなかったんですよ。そういうのが一番難しい。最近になってこういう曲をやってみてもいいのかなと思うようになって。

●でも、今野さんが歌うと単純な3コードのブルースにはならないですね。

今:黒人じゃない人がどう黒人音楽にアプローチするのか、ジョージィ・フェイムとかモーズ・アリソンを聴いてると参考になるんですよね。無理してシャウトしなくてもいい、というか。曲調としてはファンキーなブルースなんですけど、別に唸らなくてもいいんじゃないかと思ってこう歌ったんです。

●別にハウリン・ウルフみたいにダミ声じゃなくてもいい、と。

今:そうそう(笑)。今回のアルバムに関して何人かが<オザケンを思い出した>って言ってくれたんですけど、確かに彼とは年も近いし、影響を受けてるかもしれない。彼のまったく気合いの入ってない<グッゴー>は当時衝撃受けましたし(笑)、彼の『Life』(1994年作)はすごく好きでした。

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