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Wayne Wonder

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text by Minako Ikeshiro (池城美菜子)

 最新作『MyWay』を引っさげて、ウェイン・ワンダーが3年振りに日本にやって来る。スレンダーな長身からくり出す甘い歌声。90年代前半のペントハウス全盛期で名を挙げ、後半は盟友デイヴ・ケリーとマッドハウスでダンスホールの流行を塗り替え、2002年にモンスター・リディム<ディワリ>の代表曲“No Letting Go”で一躍インターナショナルなレゲエ・スターに。その後もコンスタントにヒット曲とアルバムを放ち、いまや世代や国籍を問わず、みんなに親しまれるアーティストとして安定した人気を誇る。その軌跡と素顔に迫る90分インタヴュー。

●以前、日曜日のオールディーズ・ダンスで有名なレイ・タウンで育ったのが、音楽的に影響を受けたと言っていましたよね。

Wayne Wonder (以下、W):俺の出発点だね。外に行かなくても全部曲が聞こえるくらい近くに住んでいたから、物心がついた頃は玄関先に座ってずっと聴いてたよ。

●あなたがメロディー重視の曲が得意なのは、スタジオ・ワンやモータウンがよくかかるあのダンスを聞いて育ったからでしょうか?

W:それは絶対あるだろうね。新しいアルバムを取り組む度に機材やシンセサイザーをアップグレードして、昔とは違う音が出て来るけれど、コアにあるのはオーセンシティ、そこは変わらない。俺はボーカリストだから、これはR&B、これはダンスホール、これはレゲエ、という風に分けて歌ったりしない。その曲のムードを重視して歌うだけだよ。

●子供の頃のお気に入りのシンガーは?

W:ヘプトーンズが好きだった。ボブ・マーリー&ウェイラーズ、ボブ・アンディ、デルロイ・ウィルソン、ジュニア・バイルズ、バリー・ブラウン、ベレス・ハモンド…、ダディ・U ロイやランキン・ジョーもよく聴いて、自分でもDJができるようになった。リサーチするタイプだから、ファンデーション系のDJはカセットで、(レゲエの)ヒストリーを追うような聞き方した。

●デルロイ・ウィルソンとジュニア・バイルズはとくに納得が行きます。どちらもソウルフルで、泣きのメロディーが得意という点が、あなたに似ています。

W:デルロイ・ウィルソンは特別な存在だ。ペントハウスで実際に 会った時に、“あなたの歌を聴いて育ったからカヴァーしたいと伝えたら、本人が “ 君は歌えるから大丈夫だ”って<Movie Star>(注: 元曲は“I Don’t Know Why”)を歌ったらいい”と言ってくれたんだよ。ブジュ(・バントン)のパートが加わったのが、“Bonafide Love”だ。

●80年代の修業時代は、メトロ・メディアで歌っていたんですよね?

W:88年の頭から水曜日の夜にメトロ・メディアのダンスに行って、マイクを握るようになった。当時はサウンド・システムで自分を鍛えてからスタジオに入るのがふつうだった 。

●ニンジャマンはキラマンジャロ、とか当時はサウンド・システムにアーティストが所属していたんですよね? その場合、ほかのサウンドでは歌いたかったら、ピーター・メトロの許可を取らないといけなかったのですか?

W:許可とまでは言わないけど、ほかのサウンドで歌うのはメトロ・メディアのダンスがないときだったね。 ステレオ・マーズが俺を使いたかったら、 もっと払わないとダメだったし。

●最初のレコーディングがキング・タビーというのはスゴいですね。

W:ダブ・オーガナイザーのやり方はユニークだったね。スタジオでしばらくウロウロしていたら、ある時、肩に手を置いて“ユース、明日の朝、8時に来い”って言われた。レコーディングもファンデーションのやり方で、ミスしたら頭からやり直しだったから、勉強になったよ。かけがえのない体験をさせてもらったと思っている。

●キング・タビーは早く亡くなってしまって残念です。

W:売れた後のウェイン・ワンダーを見せられなかったのは、心残りだよ。最初の45を切ってくれたのは本当にデカい。夢が叶ったのが嬉しくて、どこに行くにも25枚入りの箱を持って行った。キング・タビーに紹介してくれたのは、シンギング・メロディーだ。

●90年代に入ると、20代前半だったトニー&デイヴ・ケリー兄弟と多くのヒット曲を作りました。元々、友達だったそうですね?

W:デイヴは音楽関係なしに10歳からの知り合いなんだ。トニーとも地元やサウンド・システムで会っていたから、すぐに仲良くなった。

●ブジュ・バントンとの出会いについて教えて下さい。

W:彼とはウィンストン・ライリーのレコード屋で会った。 (サウンドの)シンジケートが“Stamina Daddy”をもうかけていたから、名前は知っていた。声をかけたら俺と一緒にダンスに行きたいと言い出して。その夜、リッチー・Bのダンスにアパッチ・スクラッチとかと出るとき、クラレンドンの奴の家まで迎えに行った。そのときからずっと仲良しだ。

●ブジュ本人もあなたに面倒を見てもらったと言っていました。

W:俺だけではなく、レッド・ローズやバニー・リーもブジュがスタートしたときに力を貸しているけどね。俺はスタジオに連れて行ったり、91年のスティングでステージに呼んだりしたし、キングストン東部出身だから、その辺りでのショウでは必ず紹介した。ほとんどのスタジオは西部にあったから、東部で顔を知られるのは大事だった。

●91年には一緒にジャパンスプラッシュで初来日を果たしています。

W:俺、ブジュ、カティ・ランキン(ランクス)、トニー・レベル、デイヴとトニー。みんなで行ったよね。

●あなたはヒット曲もあって知られていましたが、ブジュは契約の段階では無名で、来日直前にジャマイカで火がついて面白かったです。みんな、仲がよさそうでした。

W:うちは母さんと弟がアメリカに移住して、ジャマイカには俺一人だったから、フランキー・スライとブジュは俺にとって弟みたいなもんだった。デイヴとトニーも兄弟、ジャーメインは父親のような存在だった。

●ペントハウスの名曲の中で、思い入れがあるのは?

W:“Saddest Day”は高校のときに書いた実話だ。休暇が終わって新学期に学校に行ったら、彼女に“この関係は発展しないと思う”って振られたんだ。

●ペントハウス・クルーは音楽だけでなく、髪型や服装も流行らせましたよね。ぶかぶかのビギーの服とか。

W:あれを有名にしたのはシャバ(・ランクス)だよ。シャバはビッグスターで、イケていたから、俺らも素直にマネしていた(笑)。外見から振る舞いまで、初期のブジュ・バントンはシャバの影響を受けている。まぁ、引き込んだのは俺だけど。当時はまだ、ブジュは俺の言うことをよく聞いていたから。

●90年代が進むとあれほどヒット曲があったカヴァーをあなたは一切止めました。その際、ドノヴァン・ジャーメインに相談、もしくは宣言したのでしょうか?

W:いや、それはしなかったな。シンガーとして知られて来て、海外によく行くようになってから、ほかのジャンルのアーティストの曲を歌うのはおかしい、と思うようになった。同じステージに立つことだってあるんだし。高校のときから曲は書いていたから、 曲の構成から考えて音楽作りをするようにした。ベレス(・ハモンド)が“外国の曲と同じくらい(上手に)、自分の曲を歌えるじゃないか”って言ってくれて、励みになったね。

●分かりますが、R&Bやカントリーの曲をカヴァーするのはレゲエ・カルチャーの一部ですよね?

W:オリジナリティが大事だよ。それをずっと続けていたから、ビルボードのチャートに入るような曲ができて、グラミー賞のノミネートももらえたと思っている。

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THE HEAVYMANNERS Extermination Dub

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Text by Hajime Oishi(大石始)

『Extermination Dub』――〈皆殺しのダブ〉と名付けられたTHE HEAVYMANNERSのダブ・アルバムは、DRY&HEAVY~REBEL FAMILIAを通じて険しいレゲエ道を歩んできた秋本“HEAVY”武士(ベース)にとっては、まさに〈夢のようなアルバム〉だと言う。なにせダブ・ミックスを手がけているのは、キング・タビーの愛弟子にして70年代末から80年代初頭にかけて多くの傑作を作り上げてきたサイエンティスト。しかもジャケットのイラストを手がけているのは、サイエンティストが関わった当時の名盤の多くを彩ってきたトニー・マクダーモットだ。
 スライ・ダンバー、イエローマン、リンヴァル・トンプソンなど泣く子も黙るレゲエ・グレイツも参加したオリジナル音源をサイエンティストはいかに料理したのか?秋本との会話はレゲエ/ダブのディープな精神論まで辿り着き、ラストには驚きの宣言も――。あまりにも濃厚な秋本との6500文字インタヴュー。心して読むべし。

●秋本さんがダブの存在を意識するようになったのはいつごろからなんですか。

秋本“HEAVY”武士(以下、秋):俺が初めて観たダブのライヴって、アスワドとエディ“タンタン”ソーントン(トランペット)が確か、郵便貯金ホールでやった来日公演で。アスワドのドラムとベース、ギター、それとタンタンという編成。ダブ・エンジニアが誰だったのか分からないんだけど、俺が17、8のころだから86、7年だったと思う。

●それまでにレゲエはだいぶ聞き込んでいたわけですよね。

秋:そう、ウェイラーズに完全に持っていかれてた時期で、そういう最中にアスワドのライヴを観て。当時はまだ〈ダブ〉というものを強く意識していたわけじゃなかったけど、そのライヴが衝撃的だった。最小限の編成なのに、こんなことができるんだ!っていう驚きがあって。エフェクトで音がグルグル回ってるし、空間を最大限に活かした凄いライヴで。

●そのライヴが秋本さんにダブという存在を植え付けたわけですね。

秋:レゲエってぶっとい筆に墨をたっぷり染み込ませて、白い画用紙にバン!バン!バン!って点を書いたようなものだと思ってて。レゲエほど音数の少ない音楽ってなかなかなくて、ものすごい緊張感の上で成り立っている。3つの点しかない絵だったら、その点にはどうしても目がいくわけで、ひとつひとつに意味や緊張感がないと絵として成り立たない。作り込んだ音楽は西洋の絵画みたいなものだと思うんだけど、レゲエは違う。

●じゃあ、ダブは?新しい色をそこに加えるものなのか、白で消してしまうものなのか。

秋:レゲエの3つの点を動かして2つにしてみたり、ひとつにしてみたり、点の配置によって新たな視点やインパクトを作り出すものなんじゃないかな。

●なるほど。

秋:あと、ダブはリミックスの根源でもある。優れた歌ものに対する名テイクのダブには、〈これがこんな曲になるんだ!〉という驚きが詰まってる。キング・タビーにせよエロール・トンプソンにせよ。新たなストーリーを生み出してるような曲と出会うと、ダブという方法論の凄さに驚かされるんだ。ここ数年ベース・ミュージックについてよく言われているように、過去レゲエをルーツにするいろんな音楽が生まれてきたけど――昔だったらドラムンベース、トリップホップ、最近だったらダブステップだとか――自分の考えのなかではどれもレゲエっていう巨木の中の一枝っていう感覚があって、レゲエのなかには全部があると思ってる。何十年前に作られたダブやルーツの名盤がまったく消費されることなく輝き続けているけど、それは音に〈スピリット〉が乗っているというのが大きいと思う。人間の喜びとか哀しみ、苦しみ、勇気、未来とか全部が溶け込んだ音だから……レゲエにはただ音圧があるわけじゃない。〈理由がある音圧〉なんだ。

●〈理由がある音圧〉、ですか。

秋:どんなハコにいっても、70年代の優れたレゲエのレコードをかけると〈ウチのPA、こんな音が出たの?〉ってびっくりするんだよ。何よりも出るよ、レゲエが。若いベーシストも〈どうしてあんな音が出るんですか?〉って聞きにくるんだけど、俺、なんのエフェクターも使ってないんだ。ベース・アンプだけ。要はイコライジングじゃない。グルーヴで音圧を稼ぐという技がレゲエにはあるんだよ。

●グルーヴで音圧を稼ぐ?

秋:スピーカーやCDの音圧にはマックスがあって、ヴォリュームなら10あるうち10までしか出せない。でも、みんな10までいくようにいろんな音を詰め込もうとする。皆、そこで競ってる。それってそれぞれの音がブツかっちゃうからすぐにピークまでいっちゃう。で、レゲエの場合は一番の音圧のピークがくるのがバスドラとベースじゃん。他の音楽はバスドラとベースがジャストにきて、ドン!と鳴る。だからすぐピークがきちゃうんだけど、レゲエはバスドラのわずか後ろにベースがある。DRY&HEAVYの場合も七尾(茂大/DRY&HEAVYのドラマー)くんのバスドラが俺のベースよりもほんの少しだけ前で鳴ってるから、ドン!じゃなくてドフッ!ってくるんだ。今でも七尾くんとツアーで回ると、ハコ専属のPAがみんなびっくりするわけ。〈ウチのスピーカー、こんなに出るの?〉って。だから、単純な音量じゃなくて、グルーヴなんだよ。グルーヴのコンプがかかるんだ。

●なるほど、人間コンプですね。

秋:そう、人間コンプ。

●ちなみに、秋本さんが一番敬愛するダブ・ミキサー、ダブ・エンジニアって誰なんですか。

秋:やっぱりキング・タビーかな……エロール・トンプソンも好きだけどね(笑)。

●タビーならどのアルバムですか。

秋:全部好きだけど、一番自由なのはアグロヴェイターズのアルバムかな。(オーガスタス・)パブロも凄いけど。エロール・トンプソンならバーニング・スピアのダブ(『Garvey’s Ghost』)。あとは〈African Dub〉のシリーズ。あれは神懸かり的な凄さだね。オリジナルの音源を聴くと、凄さがより際立つと思う。あと、ダブって言葉のない音楽だから、タイトルとかジャケットにこだわる音楽でもあって。意味深なジャケットも多くて、ある意味聞き手に丸投げの表現手段でもある。だからこそ魅力的なんだよね。

●では、秋本さんにとってサイエンティストはどういう存在だったんですか。

秋:タビーの一番弟子が(プリンス/キング・)ジャミーで、二番弟子がサイエンティスト。サイエンティストがなぜあそこまで名をなすエンジニアになったかというと、そこには理由があって。タビーにアグロヴェイターズというバンドがいたように、サイエンティストにはルーツ・ラディクスがいた。サイエンティストのエフェクトのグルーヴ感というものは、アグロヴェイターズだと合わないんだよね。一番ジャストなルーツ・ラディクスというバンドがいたからこそ、相乗効果で上り詰めていった。やっぱりエンジニアのテクニックだけじゃないんだよね。相性のいいバンドがいたからこそ。

●秋本さんはラディクスについてどう捉えているんですか。

秋:俺にとってはバレット兄弟、スライ&ロビーという両巨匠がいて。ロビーはバレットの流れを汲んでいて、どっちもベースを銃みたいに扱うベーシストでもある。バレットが一撃でしとめるライフルの名狙撃手だとすれば、ロビーはマシンガンのように撃ちまくって、全てを破壊してしまうんだ。その2人は俺のなかであまりに大きな存在で、ラディクスはスタイル・スコットとフラバ・ホルトというドラムとベースが支えてるんだけど……やっぱり俺はウェイラーズとスラロビなんだよね。ただ、スタイル・スコットがいなかったらダンスホール・レゲエって生まれてなかったと思う。平坦なんだけどクールに淡々と続くスタイル・スコットのグルーヴ。バレットとかロビーはメッセージが強いんだけど、ラディクスはムードありき。ウェイラーズみたいにドロドロしたところがなくて、もう少しクール。

●サイエンティストといえばルーツ・ラディクスですけど、秋本さんからラディクスの話を聞いたことないなと思って。その意味で、今回サイエンティストにダブを依頼したのはちょっと意外だったんですよ。

秋:そうだよね。ラディクスについては若いころクソミソに言ってたよ。てめえは何も成し遂げてないのに(笑)。そうは言いながらも、サイエンティストもラディクスの作品もかなりの枚数持ってて。サイエンティストとラディクスの漫画ジャケのアルバムであるとか、トーヤンの『How The West Was Won』(81年)とか。一番好きなのは、バーリントン・リーヴィの『Poorman Style』(82年)っていうアルバム。全盛期の作品で、歌モノのアルバムなんだけど半分ダブで。

●歌はそのままで、バックがダブワイズされているということですか。

秋:そうそう。ものすごいバランスだし、音もムードも最高。俺はあれがサイエンティストとラディクスの最高傑作だと思う。サイエンティストはタビーやジャミーと比べて一番ダイナミックに空間を活かすエンジニアで、手法としても大胆なんだよね。

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西内徹バンド 西内徹DUB

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山口’Gucci’佳宏 (RAKSTONE Records)

昨年、初のソロ・アルバムをリリースし、先日、そのアルバムのダブ・ヴァージョンをアナログLP盤でリリースしたレゲエ界の巨匠 (?!) サクソフォーン奏者、西内徹にダブ・アルバムに関して、そして彼とは旧知の仲なので四方山話を沢山聞いた。

●でも、てっちゃん (自分は、長い付合いの中、「てちゃん」ではなく「てっちゃん」です) との付合いは結構長いけど、こうやってあらたまって二人で話すことは滅多にないですね。

西内徹(以下、西):そうだね、ないっすね。いつもベロベロに酔っている…。

●まぁ、ベロベロ (打ち上げとか) か、前は差し呑み (自分は下戸ですが) をチョイチョイしてたけど、最近はないですよね。それで、てっちゃんとの付合いは、ホント長いですが、今も川上つよしと彼のムードメイカーズに参加してもらっているし、かれこれ25年位の付合いですかね?

西:えー、そんなになるかな?! 確か自分が30歳の時だったから22年前だと思う。

●レゲエ業界での仕事はランキン・タクシーのバック・バンド (※1)、日比谷野外音楽堂でのトゥーツ&ザ・メイタルズの前座で出演したのが最初ですよね?

※1: 当時のランキン・タクシーのバック・バンドとは「佐川&チャッピー・ディジタル・バンド」のこと。佐川修: ドラム・マシーン、チャッピ

●(現チャパ・ランクス): シンセ・ベース、堀口馨 (The K): ギター、西内徹: サックス

西:そうそう、この前、佐川さんと会ったら「パンク・バンドをやろうよ」と言ってました!!

●是非、やって下さいよ (笑)。野音のイヴェントは確かラテン系のイヴェントで、ウィリー・コロンとかも出演していたと記憶します。それで、あのセットで、その後はライヴしましたっけ?

西:4~5回、ライヴしたと思う。後楽園遊園地の野外劇場で戦隊ショーの後にラガ・レンジャーとか言って (笑)。代チョコ (※2) でも演ったんじゃないかな。

※2: 代々木チョコレートシティ (今は亡きライヴ・ハウス)、タクシー・ハイファイのレギュラー・ダンスやヒップ・ホップ系のイヴェントも行われていた。

●そうだ。代チョコはいろんなシンガーやDJが出演したイヴェントでした。それで、そのバンドの前は何かレゲエは演っていましたか?

西:それが、この前、思い出したんだけど、大石 (※3) がやっていたバンドに参加したことがあった。

※2: 大石幸司、リトル・テンポ、ムードメイカーズ等のメンバーであるレゲエ・ドラマー。

●それが22年前、早いですね。

西:早いっすね。あっと言う間でしたねぇ。

●はは、お互いに。そして、その後は VIP とか…?

西:VIP (※3) があって、ドラヘビ (※4)、レゲエ・ディスコ・ロッカーズ、そして現在はクールワイズマンやムードメイカーズなど諸々、ゴチャゴチャとやってます。元VIP のドラマー、今ちゃん (今野=Kang Don) がやってるダブ・バンド、ダッピーズ・バンドとかも。

※3: ボーイ・ケン、HEY-Z、シバヤンキー等が在籍するダンホール・クルーお抱えのバック・バンド。

※4: ドライ&ヘヴィー、七尾 “DRY” 茂大 (ドラムス) と秋本 “HEAVY” 武士 (ベース) が中心となるダブ・レゲエ・ユニット。

●まぁ、そんな昔話はさて置き、最近はソロ・アルバム、そのリリースのいきさつはどんな感じだったんでしょうか? 5年程前にも、そんな話をしていたでしょ。

西:前はいっぱいゲストを呼んでと言う感じの話だったじゃないすか。でもファーストだし、インストで勝負したいな、と思って。

●で、やっぱりレゲエだと。

西:うん、レゲエしか出来ないし、レゲエの仲間しか居ないし。それで周りのメンツを誘って。

●何かメンバーにこだわりはあったのですか? これはこの人だ、的な。それとも自然の流れで?!

西:いや、やっぱり自然の流れでメンバーが決まったんだよね。

●それで、今回のダブ・アルバムのリリースとなる訳だけど、他のインタビューを読んだのですが、当初はダブ・アルバムのリリースは見据えてなかったらしいじゃないですか。

西:プロデューサーの意向もあって、それではリリースしようかと。

●録音は内田くん (※5) だし、もちろんダブ・ミックスも内田くんと言う自然の流れですよね。それで、出来上がり聴いてみてどう思いましたか?

※5: 内田直之、日本でダブを作らせたら右に出る者は居ないと言っても過言ではない程、唯一無二のエンヂニア。ドライ&ヘヴィーやリトル・テンポ、クールワイズマン等を手懸ける。

西:そうね。聴いてみて、やまん (※6) な感じでした (笑)。

※6: 西内徹考案の「ナイス」、「イイ感じ」、「大丈夫」など、良いフィーリングを表す便利な言葉。

●具体的には?

西:今の処、アナログ盤のリリースでアナログで出せて嬉しい。ファースト (※7) と並べてみた時にイイなぁ、と。

※7: ファースト・アルバムの方もアナログ盤でリリース済。

●それ、何かジャマイカ的な感じで、作っている側として冥利に尽きるんじゃないですか? 改めて、そう言われると2枚が揃うのは凄くイイですね。

西:そうですね。

●ダブを作る時に内田くんへのリクエスト、希望はあったのですか?

西:いや、お任せで、好きにやって下さい、まぁ、より踊りやすくはして欲しいな、と。

●そうか。実際、自分も聴いてみて、ダブにもいろいろなタイプがあると思いますが、チルアウトな感じではなく、とてもダンサブルに感じました。重たい感じではなく、楽しく思えました。その点は、出来てみて良かったと?

西:うん、良かった!!

●今まで内田くんの手懸けたダブを聴いて来ましたが、その中でもとりわけ、シンプルに感じました。元曲がシムプルだからかもしれませんが、とてもソリッドだと思います。このダブ・アルバムの中で、お気に入りのミックス曲はありますか?

西:”You Wondering Now” とか。

●ああ、自分も。何だかリム・ショットとベースの音の処理がメチャメチャ変ですよね (笑)。好きです。

西:あのニューウェーヴ感と言うか、昔のラフ・トレード (※8) のコンピに入っていても良さそうな感じがイイんだよね。

※8: UKに於いて80年代台頭していたレコード・レーベル。主にパンク、ニューウェーヴのコアな音源をリリース。デニス・ボーヴェルやエイドリアン・シャーウッドもエンヂニアとして参加していた。

●ホント、自分もそう思いました。イイですよね。こんな流れで、ちょっと聞いてしまいますが、てっちゃんはずっとパンク、ニューウェーヴを聞いてるじゃないですか。自分もそうで、レゲエ業界、そっち出身の人も多いですが、その辺が今のてっちゃんのレゲエに影響してますか?

西:そうすね。何でもあり感って言うか、何でもありにしたいなぁ、と言う感じが一緒。これをやっちゃうとレゲエじゃなくなっちゃうから、みたいな考え方をしたくない。

●そう言われてみれば、レゲエって言うのも本来、そう言う音楽ですよね。ジャマイカ人が思った様に演っている音楽ですから。あと、何かパンクやレゲエに共通するメッセージ的な意味合いに影響されたってことはないですか?

西:ないです。自分にはメッセージはないっすね。

●まぁ、そうっすよね。そこまで、ちゃんとパンクやレゲエのメッセージを理解出来ないですもんね。それで、今でもよく聴いているパンク・バンドは?

西:う~ん、ダムド、バズコックス、セックス・ピストルズとか。

●レゲエはやっぱりパンクからの流れで聴き始めたんですよね?

西:そう。ポップ・グループやスリッツ、ON-Uのエイドリアン・シャーウッドやデニス・ボーヴェルからかな。

●当時はあまり分からなかったけど、ニューウェーヴのバンドとかってアルバムに何曲かレゲエ・テイストの曲を収録していたりして、それだけレゲエの影響力が凄かったんだ、と今は感じます。それで、てっちゃんの演奏スタイルとか音とか、やっぱりパンクっぽいなぁ、と思います。さっき言っていた、捕われないやっちゃえ感とか。

西:そうすか。

●自分はてっちゃんはある意味、天才肌だと思うんですよ、ホントに。そして天才肌なのに努力家でもあると思うんですね。

西:(笑) えー、どっちも違いますねー。才能はないし、そんなに努力もしてないっす。努力している人は一日12時間ぐらい練習しているんではないでしょうか。

●それはそうですが、ベクトルは違えど、てっちゃんはかなり努力していると思います。常に前向きでアグレッシヴだし。そう思いませんか?

西:そうですか?! 自分では全然、そうは思わないです。凄く怠けていると思います。

●まぁ、あとは実践ですかね?

西:そうですね、何だかんだ場数って言うのは必要ですよね。

●それが、出来る人と出来ない人が居ると思うんですよ。上手い下手は関係なくて、そこに踏み込めるか否か、さっき言っていた、とにかくやっちゃえ、みたいな。そんな人は最近はあまり居ないと思うんで、そこがてっちゃんは凄いのではないでしょうか。それで、ちゃんと形にしてしまう処が天才肌だと思うのです。でも、練習してるでしょ? 多摩川土手とかで。

西:まぁ、基本的なことはやってますけど、でも、それを始めたのは40過ぎてからです。

●40だったら、10年ちょっと前、つい最近のことじゃないですか。それは何でまた?

西:師匠である生活向上委員会 (※9) の原田依幸さんに言われたんです。その頃、一緒にバンドを始めて、全否定されて、「やめちまえぐらいなことを言われて、その時、初めてちゃんとやろう、と思ったんだ。

※9: 70年代終りから80年代初頭に活動したジャズ系大楽団。ジャズ界の大御所サックス奏者、梅津和時氏を始め、実力派のミュージシャンが多数在籍していた。

●じゃあ、それまでは無鉄砲なだけだった?!

西:うん。もっと前からしっかりやっておけばよかった、と思いました。

●でも、そんなこと、楽器に限らず、歳を取って経てから分かることじゃないですか。もうすぐ、52歳でこのスタンスは素晴らしいです。

西:うーん、モテたいですよね、52になっても (笑)。

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ORIENTAL ELEMENTS 2 TOKYO TOSHIKAZU NOZAKA x USUGROW

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Text by Taku Takemura(竹村卓) Photo by Yoshifumi Egami ,Miki Matsushima

スケートボーダーであり彫師、そしてアーティストとして活動する野坂稔和。パンクやハードコアバンドのジャケット、フライヤー、スケートボード、ファッションブランドなど数多くのアートワークをはじめ、グループ展のキュレーションなども手がけるアーティストのUSUGROW。この二人が「ORIENTAL ELEMENTS 2 TOKYO」と題し、東京のGALLERY COMMONで二人展を行なう。スケートボードやハードコアなどの世界で名が知られるが、彼らの作品からは日本の美しさが感じられる。そんな二人に今までのこと、展示のこと、そしてこれからのことを聞いた。

●二人の出会いは?

野坂(以下野):当時、たしか19才だったときに下北沢にあったスケートショップ、バイオレントグラインドにUSUGROWが電話してきて、「野坂くんいますか?」と。19才の時に会ったこともない18才のヤツからインタビューしたいって言われて、すごい度肝を抜かれた。そのあと手紙とファックスでインタビューをして。手紙ですよ。なんかいい加減な自分が出ちゃったなって。

USUGROW(以下U):そんなことないですよ。すっごく字が綺麗で。ビシッっと書いてあって。ものづくりのこととか絵のことやその時にやっていることを聞いたんです。当時フリーペーパーを作っていて野坂さんにインタビューしたかったんです。

●野坂くんのことはどうやって知ったのですか?

U:当時は福島に住んでいて、なかなか東京に出てこれなかったので。雑誌を見たりとか、よく通っていたお店で野坂さんのことを知って。フリーペーパーの内容は地元のバンドのライブ情報とかも載せたり、あと絵とか載せたり。

野:でもそれから実際に会うのは10年後くらいなんですよ。でも、いつ出会っていつ頃からちゃんと話すようになったのかまったく覚えていなくて。

U:オレは野坂さんが何かをやっているときは影ながらチェックしていました。

野:自分の絵のショーをやるようになったのが10年くらい前だったけど、2回目のショーを中目黒でやったときくらいからよく話すようになったんだ。本当にこの10年くらい。だから20代の10年間は会ってもいないし連絡もとっていなかったね。

U:フリーペーパーをやったりしていた10代の時は自分の意識が完全に外に向いていたんです。そして20代になってからは逆に自分のことだけを見るようになって。

●それは自分の作品作りとか?

U:そうです。作品作りとかバンドのこととか。10代の時は社交的だったんですけれど。

●野坂くんは彫り師をやっていて自分の作品を発表するようになったのはいつ頃から?

野:30才になってから。絵は描いてはいたんだけど、僕の場合、20代の10年間は彫り物の世界で仕事していたんで。その10年は彫り師として時間を使っていた。だから地方へ彫り物の出張に行っていました。それがひと段落ついて、これからは日本の彫り物の世界も変わってくるんじゃないかなと思って、絵も頑張ってみようと。僕はスケートボーダーでそのあと彫り師になったんで、まずはスケートボードの展示と彫り物の展示をそれぞれ発表して、絵の展示はそれからにしたいなと勝手に決めて。とりあえずは僕を知っている人たちにスケーターとしてのルーツや表現と、彫り師としての考え方をそれぞれ発表してから絵描きとして作品発表ができるようになりたいなと思ったんです。

●USUGROWさんは?

U:最初はレコードジャケットとかフライヤーから始めて、それをずっとやっていて、10年くらい前に東京に移ってきて、それからですね、ギャラリーとかで展示するようになったのは。野坂さんが展示をするようになったときと同時期くらいに個展をやって。それまでずっと絵で食ってきていたんですけど、東京に来てから1年間だけ仕事に就いて働きながら趣味で絵を描くという生活をしたんです。その1年間だけというのが大きかったんですよね。

●絵で食べていくって大変。絵を仕事として受けるということも簡単ではなさそうですね。

U:基本的に自分の絵が好きで頼んでくれる人がほとんどなんですけれど、それでもちょっと疲れちゃって、一度趣味として絵を描いてみようと1年間は仕事をしながら絵を描いていたら、楽しく絵を描くことをちょっとずつ思い出せたしリフレッシュしたんです。そんなときスケートしてて脚の骨を折っちゃったんです。

野:スケートで脚折ったっんだ。スケーターとしたらそれって勲章じゃん(笑)。

U:それどころじゃなかったんですよ!仕事ができなくなって家賃とか大変で。その時にいろいろ気持ちも柔らかくなった分、また外のことがちゃんと見られるようになって、そしてもう一度絵でやっていこうって。

●そんな二人が10年越しで話すようになったのは?

野:10年前は絵を描いてアートショーで作品を発表している人って多くなかった。そのときお互い考えている方向が一致していた時期だったんだと思う。だからよく話すようになったし、彫り物の話しとか絵の話しとかをするようになった。オレもずっとひとりでやっているし、USUGUROWもとても独立した人だから、そういう部分で歯車が合うようになったんだと思う。そして5年くらい前にスタジオをシェアしてみようという話になった。そのあたりからアートショーで海外を一緒に廻ったりもすることもあったりして。

●スタジオをシェアするきっかけは?

野:住んでいるところが近所だったから。

U:ギャラリーとかで作品を発表するようにもなって自宅だと手狭になったんで。

●今回ふたりでこの「ORIENTAL ELEMENTS 2 TOKYO」をすることになったきっかけは?

野:2011年にメルボルンで二人のアートショーをやってたんで、今回また二人でショーをやろうと。今まで4年間二人でスタジオをシェアしてきて、そろそろまたセパレートしようという話になったけど、4年間も一緒にいたから別々になる前に何か形になることをやりたいねということになって。メルボルンでやったときのタイトルと同じ「ORIENTAL ELEMENTS」が、いろいろ考えた結果、それに「2」が付いた。メルボルンの人たちが見た時に自分たちの作品を表わすタイトルはなんだろう?って考えてこのタイトルになったんだけど、結構気に入っています。メンバーも同じだし、今回もこのタイトルでいこうとなった。

●シェアしているスタジオってどんな感じ?

U:お互いの部屋とリビングがあります。

●お互いにどんな会話をするの?

野:話すときはすごく話すけれど、会わないときは週に1、2回くらいしか会わない。基本的に僕が昼でUSUGROWが夜の人間なので。僕は朝の9時に来て夜の6時でぴったりに帰る人間なんですよ。夕飯の支度あるんで、みたいな。USUGROWは夜からエンジンがかかってきて朝の10時くらいまでやっている感じだよね。

U:そうですね。昼くらいに起きて3時くらいにスタジオに行って、ああでもないこうでもないって言いながら朝になっちゃいますね。野坂さんが、朝来る頃にはおかしなテンションになっちゃっていることが多いですね。

野:簡単に言うと、僕がうるさい太陽でUSUGROWは静かなお月さま。

●それって作品にもあらわれているかもしれないね。

野:僕もスタジオに籠もって描いているのも好きなんだけど、でもそれをずっと続けるのは無理なんですよ。体が苛ついちゃってダメ。すぐ飲みに行っちゃうし。

●ひとりで描くときと二人で同じキャンバスに描くときの違いは?

野:ライブペイントの時はいくら打ち合わせしていても、最初に一筆を入れた人に引っ張られるんですよね。誰が始めに一筆いれるか?みたいな。結局はそれを中心にどうやって自分のスキルを表現していくのかっていう感じになりますね。バトルではないんですが、より上手にかぶせてお客さんに喜んでもうらか、みたいな。逆にアートピースでは一緒に描いたことはなくて、僕が描いて渡して、重ねてもらって、またそれを戻してもらってまた描き加えて、それをまた最後仕上げるみたいな。2往復くらいして完成させる感じですね。

●二人がスタジオをシェアしていて、その二人がアートショーをするってなんか分かりやすいし気持ちの良い展示ですね。

野:二人の生活を見るとまったく行動も別だし、タイプも真逆。本当に月と太陽。例えば1年の間に二人で飲みに行ったことも1回あるかないかだし。だけど時々夜とか一緒の時間に話しをすると、やっぱり同じ惑星から来ているんだなっていう感覚があるんですよね。他の人から見られるイメージは、ハードコアが好きとか彫り物をやっているとか、パンクバンドのジャケットの絵を描いているからそういう感じの人に思われることが多いんだけれど、実はふたりとも全然そのイメージと違っていて、ものすごく綺麗な物が好きで、純粋に美しい物を追求しているし、僕も日本の彫り物とかが美しいと思ってやっているので。ストリート・アートっていう言葉が使われるようになって、そういう感じに見られることもあるけれど自分はそういうつもりでやってきたことはないしね。

●そうなんですね。作品を見ているとその感じはわかります。野坂くんからみたUSUGROWさんはどんな人?

野:修行僧だね。横文字でいうならインク・モンスターっていう感じ。まだそのことを考えていて、まだそれを追求したくて、まだ寝ていないんだ!っていういうくらい徹底的に追求している。本当に痕つめている人だね。だから彼はたぶん机の上でラフスケッチしたペンを持って描きながらバタッって死ぬんだろうなーって思っている。毎朝スタジオに来るたびに死んでないかっ、大丈夫か?って確認しちゃうくらい(笑)。本当にすごいですよ。

U:さっき言ってましたけれど、野坂さんはハードコアなイメージに思われることが多いんですが、でも本当はナイーブで破天荒のように見せているけれど、ちゃんと手順を踏む品の良さというのが作品によく現れていると思います。良いことを言ってもらった後にこういう話しもなんなんですが、僕は結構適当なんです。画材の話しとかしていても、野坂さんは「ここはちゃんと下地を作らないと」とか言ってくれるんですよ。手順を踏むんです。それって伝統を守る人とか、そういう意識がある人にとっては不可欠なことだと思うんです。そういう意味で品があるんだと思います。彫り物の話になっちゃうんですが、あまりタトゥーアーティストが描く絵とかには興味がなくて、それは絵に対してなにかが欠落しているような気がしちゃって。でも野坂さんの描く絵が他の人と違うのはそういう基本的なことがちゃんとできているからなんです。

野:そんなに言われると今回もその手順を踏めているかどうか、プレッシャーになるね。頑張ります。

U:つい合理化で飛ばしてしまうことをちゃんとやる人なんです。

野:自分のあこがれがどこにあるか?ということだと思う。ストリートのグラフィティとかに憧れた人は初めからそういう手順を求めるだろうし、僕が美しいと思っているのは江戸末期から明治にかけての日本画だったり、絹本という絹に描いた掛け軸だったり、そこにすごく日本の極みを感じるんです。一生かけてなれるようなレベルではないんですけれど、そこに憧れているんです。

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ZEEBRA 25 To Life

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Text by Riddim Online

アーティスト活動四半世紀を迎えたZeebraがリリースした13曲入りの記念すべきアルバム『25 To Life』。若いインディーズ・アーティストからベテラン勢、さらに福原美穂と多彩なアーティストが参加、加えて自らが手がけたトラックまでを熟練のリリシストが乗りこなす。

●まず、25周年おめでとうございます。初期のヒップホップは、それこそアンダーグラウンドで、その「知られていないこと」自体が「格好良い価値観の一部」だったかもしれません。Zeebraさんは、その成長と変化の最前線で牽引されてきて、当初あって今はなくなった魅力、そして時が経っても変わらない魅力とはどういうものでしょう?

ZEEBRA(以下Z):短い時期だけを考えると、これはクリアランスの問題で「もうPUBLIC ENEMYの2枚目はつくれない」って言われるじゃないですか。今あれをつくると、売れば売るだけ赤字になる。DE LA SOULのファーストなんかもそうかもしれません。そういう「サンプリング・コラージュ」に対する規制は当り前かもしれないけれど、規制によってそこにあった可能性が薄くなっちゃったのは、今までの歴史で一番残念なことな気がします。ヒップホップのプロダクションに関して「これ、ループ何個重ねてんだよ?」っていう。あの、「ここのサンプリングの中域削ってる分こっちの中域出して」とか、色んなことをやってコラージュしてつくる感じは、当時自分でもつくってて本当に楽しかった。でもそれだって1987、8年から2、3年の間であり、「その時が特別だった」と思うしかないのかなって。あとは、もし当時「ヒップホップは新しい、みんなが知らないもの」という優越感があったとすれば、それは「『日本では』みんなが知らないもの」。逆に言うと、オレにとっては初めから「『USでは』ストリートの若いヤツらがみんな知ってるもの」という意識だったので、「ポピュラーである」ことに対して斜めに見ることは一切ないんです。

●最初から素で、「本来とてもメジャーなもの」という意識。

Z:ただ当時、「あえてもっとポピュラーにしようとする」ことによってダサくなってるヒップホップって向こうにもあったと思うんですね。それはMCハマーだったりとか。

●嫌いじゃないけどYOUNG MC的な。

Z:他にはTONE LOCや2LIVE CREWとか。その辺ていうのは、当時かたやRAKIMやKRS-1とか、アートフォーム、テクニック的にもどんどん進化しているヒップホップがあるのに対して、商業的な成功をおさめるためにつくられたようなラップの曲があって、それらは正直滑稽に見えてました。そこで例えば「L.L. COOL J.がすごい売れている」と。それをヘイトの目で見るのは「ただのヘイター目線」で、実際フッドの女の子たちはキャーキャー言っている。それはTHE SOURCE以前、向こうの「WORD UP」マガジンとか「HIP HOP MASTERS」あたりの雑誌で、BIG DADDY KANEとBOBBY BROWNが同列に「女子高生たちのアイドル」的な扱いだったわけですよね。それで裏にはBELL BIV DEVOEのポスターも付いている。だからある意味、ラッパーもストリートでは「アイドル的存在」だったわけです。

●「全国区のアイドル」と「フッドの人気者」が同列に扱われていた。

Z:オレはもともと「それが正しい」と思っていて、だから「エンターテイメント的に消化する」みたいなことに対して、すごく普通な気持ちでやってるところがあるかもしれないです。だから、「知らないものを知ってる自分が嬉しい」というより、純粋に「ヒップホップを知ってる自分が嬉しい」気持ちがメインでした。もしオレが「人の知らないもの好き」だったら、たぶんZOOが流行った段階でやめてますね。でもあの時、「よしきた!」と思ったし、「これからヒップホップが日本を席巻する」と思いました。

●1曲目「The Last Letter」のリリック「激甘MC I eat u like a cupcake」が、Rakim“Microphone Fiend”の「I melted microphone instead of cones of ice cream」を連想させました。

Z:昔、覚えたくて仕方なかったリリックはRakim“Microphone Fiend”。あれは80何小節、サビ無しでずっとラップする。本当に「Fiend=魔人」だけに、当時、「ラップをすることに中毒な感じ」というのが、しかも毒々しく表現されている感じがすごくして。もちろん歌詞カードなんかなかったですが、「これは何としても覚えたい」と。

●やはりRakimは凄い?

Z:映画「ART OF RAP」で本人が語っていますが、「親がジャズやソウルを聴いてて、そのジャズのソロのようにラップをデリバリーした」というのは、本当にその通りだと思います。当時はまだ、そんなRakimの言葉は伝わってきていませんでしたが、オレはその頃から「これはそうだろう」と思ってました。自分も「何らか刺激を受けられるかな」ってコルトレーンやマイルスを聴いてましたし、それは特に「ソロの時の持っていき方」。ソロでは決まったフレーズをずっとやるわけじゃなくて、展開させていくわけじゃないですか。その「展開のさせ方」が、あのラップの「決まった譜割りで歌わない」感じに通じている気がして。最近のダンス・ミュージックっぽい曲では決まった譜割りっぽくなる傾向が強いですが、あのRakimの感じは「ジャズのソロに近いのかな」と。

●アルバムの後半、前半はそれこそ最近のダンス・ミュージック的なものから、最後の方はサンプリング色が強くなっていくように感じます。そこはやはり思い入れがあるから?

Z:あまり「昔の音をやりたい」という意識はありません。今回結構サンプリングの音が入ってきたのは、たぶん実際に今のワールド・ヒップホップ的な部分に、そういうぶり返しがあるというのがデカい。例えば、リズムの取り方はサウスっぽい、BPM70ぐらいのものを倍でとるような曲でも、例えばASAP Rockyはそれをサンプリングでつくってる。ウチの息子が今21、22歳ですが、ヤツら世代が意外とそういう90年代の音が好きなんです。それこそ次男坊はビートつくるんだけど、基本4つ打ちとヒップホップの中間みたいなビートで、でも、できたのを聴かされたことは一度もない(笑)。とはいえ音が鳴ってるのは部屋から聴こえてて、この前はBRAND NUBIANネタがまんま4つ打ちになってたりしてました。だから、オケ的にはサンプリング感出てるけど、キックの感じはモロ4つ打ち。それって、オレは1971年生まれなんですが、70年代の音楽は心地いいんですね。それがもしかすると、「90年代生まれには90年代の音が染み付いている」感じがして、だからそういうブリ返しが、同じものではないけれど、何かが回転してるのは感じるんです。

●お子さんに特に意識的に教えたり、伝えていることはありますか?

Z:何にもないですね。

●ただ、ご自分のライフスタイルを見せている。

Z:とはいえ、「ケンドリック・ラマーの新しいヤツ聴いた?」、「あのヴァース、ヤバくね?」みたいな会話はいつもしています(笑)。まあでも、あれぐらいの世代となるとヒップホップは空気みたいなものですよね。

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Jah Cure Commanding Voice

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Text by CB Ishii(石井洋介) Photo by lili Peterson

Jah Cure、若くして類いまれな才能を持つレゲエシンガー。銃器不法所持と強盗、レイプなど4つの罪で逮捕されたが否認、15年の刑期を言い渡されるも留置場に繋がれながらシングル・ヒットを連発。去年は2PACとの共演曲など話題の尽きない彼が、初来日して日本各地でLiveを行った。しかも新たにマネージャーとなったのが、90年代初頭にSuper CatをメジャーのColumbia Recordsで成功させ、Shaggyの『Hot Shot』を1000万枚以上売って文字通り世界制覇を成し遂げたロバート・リビングストンだというのも、とても気になるところだ。となれば、Riddim編集部に誘い込んでジャマイカ・ローカルの話をじっくりと聞いてみた。Cureの語る年号などが巷でいわれるものと少し異なるのだが、当時は彼が刑務所生活であったことを考慮して戴きたい。

●簡単にあなたの生い立ちについて教えて下さい。

Jah Cure(以下J):育ったのはモンテゴベイにある小さなコミュニティ、ハノーバーだ。“レゲエ・サンスプラッシュ”はモンテゴベイのJarrett Parkでスタートしたから、沢山のアーティストを観たし、彼らの音楽から影響を受けた。途中から“レゲエ・サンスプラッシュ”は、ボブ・マーリー・センターに場所が移るんだけどね。俺はまだ子供だったからパーティには行かせてもらえなかったね。でもママの目を盗んでこっそりと抜け出して観に行ったりしてたんだ。背が小さくてよく見えなかったからポリスマンが俺を持ち上げて「お前、ベッドで寝てる時間だろ」って見せてくれたりしたよ。その頃Electro Forceというモンテゴベイのサウンドシステムを好きになって、もう一つがモンテゴベイのTikka Soundのプレイする曲にも影響を受けたんだ。レゲエの力強いヴァイブスにすごくインスパイアされて、家をこっそり抜け出してはよくパーティへ行って歌ってたんだ。ある夜、ママは俺がベッドにいないのに気づいて、探しに出たらサウンドシステムから聞こえてきた歌声が俺だったなんてこともあった。

そこでは歌のコンテストが行われていて、まだ12歳だった俺がたまたまそこで優勝したんだ。次の日は貰った賞品のフード・バスケットを家族みんなで食べたんだよ。その時に俺は、将来シンガーとしていつの日かやっていけるんじゃないかって意識を持ち始めて、ママは俺がキングストンに出るのをOKしたんだ。

キングストンには父が住んでいて、その家に住み始めた時にもうモンテゴベイには戻らないと決めたんだ。その頃は。はっきりと音楽が好きだと実感できていたし、キングストンの方が音楽が更に身近にあったんだ。当時、父はギャングスタとつるんでいてほとんど家にいなかった。その頃の若手シンガーと言えばGhostかスパニッシュタウンのLikkle Crissっていう2人で、俺も刺激を受けてどうしてもキングストンに住もうと苦労していた。その頃知り合ったヤツがCapletonととても仲が良かったからタバーンというエリアへ連れて行ってくれてCapletonに会わせてくれたんだ。それはまだ14歳の時だ。昔からCapletonの曲が大好きだったから、彼らと一緒にダブ録りのスタジオへ行くようになっていったんだ。

●CapeltonがJah Cureの名付け親だって聞いてますが?

J:うん、まあそうとも言えるんだけど、そこにはCapleton以外にもDavid House Crew等もいたからね。それ以前の名前はLittle Melodyって名乗っていたんだ。Courtney MelodyとSinging Melodyが好きでこの2人にとても心酔していた。そこからAll CureとかYoung Cureとか色々アイデアが出たんだけどJah Cureが一番良いってことになって、CapletonもJah Cureを推してくれて名乗り始めた。でもその時はJah Thunder、 Jah Lightning、Jah Masonと色んなJahがいたんだよ(笑) 。

その頃にBuju Banton、Wayne Wonder、Grindsman、Shabba Ranks、Ninjamanなどの有名なアーティストに会ったんだ。当時のArrows Recording Studioは皆がつるんでいる場所だったからね。当時のダブ録りは今とは違って1テイクのみで絶対に失敗は許されなかったんだよ。(Arrows Recording StudioはSP盤と同素材のアセテート盤を一発録りダイレクト・カッティングするマシンだった)そういえば、ある日、沢山ダブ録りをしていたBujuにお金をねだったらJ$200(約¥200)をくれて、俺はめちゃめちゃハッピーになった時もあったな。すぐにスタジオから駆け出して食べ物を買いに行ったよ。それでなんとか、1週間食いつなげたんだ。97年ぐらいまではそこでダブ録りを始めて、色々と学んでいた頃にSizzlaが売れ始めてCapletonがラスタ・アーティストとしてとてもホットになり、Sizzlaはタバーンの近くのオーガスタス・タウンから頭角を現したから全てほぼ同じエリアでそれは起っていたんだ。Sizzlaととても仲が良くなり、Sizzlaに料理を作っていたこともある。俺は料理を作るのが好きでCapletonにも作っていたんだけどね。

ある日Sizzlaと一緒に「Divide & Rule(Cureの曲「King In This Jungle」)という曲をレコーディングしていたらBeres Hammondが声をかけてきたんだ。「このフレーズを歌っているのはこのYouth(小僧)か、キッズのくせにCommanding Voice(堂々と威厳のある声)を持っているな、とても良い声だ」と言ってきた。俺たちはその曲「Divide & Rule」をその夜に録り終えたよ。

そんなことがあった後、BeresがSizzlaに「名前を忘れたが、あの若いシンガーはどうした?連絡する様に言ってくれ」と伝言してたんだ。だけど俺は「Beresに会いに行け」とだけ言われただけだったから、あまり重要には思っていなくて放っておいたんだ。するとBeresからダイレクト・メッセージがきて、すぐにBeresのところへ行くとBeresは俺を見るなり「どこへ行ってたんだ!?」と怒鳴りつけた。俺をとても気に入ってくれていて「これから自分の息子をベッドの上で叱りつけるように教育していくぞ」と言われた。それからイギリスやオランダへのツアーに連れて行ってもらったんだ。その時はAnthony Bが行くプランもあったんだけど、Beresは俺をツアーに連れて行ってくれたんだ。だからBeresがボーカルやオーディエンスの前でのパフォーマンスの仕方を教えてくれたことは間違いない事実だ。Beresのショウにはいつでもたくさんのオーディエンスで溢れていたからね。あの大勢の前での経験は、今とても活かされているんだよ。

●そうすると最初のヒットチューンは「Divide & Rule」ですね?

J:そうだよ、97年にBeresがHarmony House(Beresのスタジオ)でプロデュースしてくれたSizzlaとの「Divide & Rule」が俺の最初のヒットチューンで、そこから俺のキャリアが始まった。当時はSizzlaが一番キテいるアーティストだったから、彼とのコンビネーションも幸いしたんだ。

●あなたは投獄されましたが、、(と一応、水を向けてみたが、、)。

J:うん、ちょっとトラブルにあった。

●でも服役中にもアルバムが出ていましたよね?

J:うん、それは俺にとっては歴史的瞬間とでも言うのかな。

●服役中もBeresが何曲もあなたの曲をリリースしていたと思うのですがそれは具体的にどういうことでしょうか?

J:Beresが弁護士を使って、刑期を減らす様に働きかけてくれた。本当であれば去年か一昨年ぐらいまで服役していなければならなかった。そのおかげで俺は2007年に出所出来たんだ。Beresは2003年にアルバム「Ghetto Life」をリリースしたよ。

●聞きたかったのは刑務所の中でどうやってレコーディングしたんですか?

J:服役中に3枚のアルバムが出たけど、実は殆どの曲は捕まる前にレコーディングしていた物だよ。1999年(2000年か?)に「Free Jah’s Cure」が出たよ。捕まって1ヵ月後に出て、2003年になるとBeresが「Ghetto Life」を出した。最初のSpanish Townの刑務所では、彼らは俺が音楽で生活しているのを知っていたから、牢屋の中に機材を持ち込んで音楽を作れたんだ。2枚のスポンジ布団で寝ていたんだけど音楽を録る時はそれを使って少しでもキレイな音を拾える様に工夫した。寝る時間を割いて5曲録るなんて時もあった。尚かつダブ録りもしたよ。

●Spanish Townの刑務所で録られたヒット曲「Longing For」はどのようにして作られたのでしょうか?

J:実は俺は2004年に仮出所の予定だった。だけどこの年に仮出所出来なかった。だから真剣に牢屋で音楽を作りを始めよう、自由になるまで待ってなんかいられないと決心したんだ。牢屋の中から自分で自分の道を切り開こうと。それが最初のアイデアだ。だから仮出所が取り消されて牢屋にいることが決まった時に「この牢屋の中から1曲でいいからナンバー1ヒットを誕生させてください、歴史を作らせて下さい」と神に祈ったよ。そしてDon Corleonが送ってきたリディム(トラック)にボーカルを乗せて送り返したんだ。

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MISTA SHAR THE EXPERIENCE

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Text by Naohiro Moro

 横浜はもちろん、川崎、相模原、横須賀と各地から次々と発火する神奈川ヒップホップの炎。その中でも最も現在注目を集める藤沢シーンの重鎮、DJ MISTA SHARが、とうとう自分名義のビートメイカー・アルバムをリリースした。そのフレッシュな内容はジワジワと評価を高める一方だ。
 その彼に話しを聞いた。場所は彼の地元、藤沢。江の電江ノ島駅からほど近く、店の窓から河口の先に江ノ島を見晴らす居酒屋「まる」。昼から緑茶ハイを一口含んでMISTA SHARは話し始めた。

●結構時間掛けて作ってたの?このアルバム?

MISTA SHAR(以下S):1年半ぐらいですかね。一昨年の正月からだから、そんなもんですね。

●C.I.C.のアルバムをリリースしたのが、、、?

S:2007年ですね。

●その間、トラック提供やプロデュースをしながら湘南ヒップホップ・シーンを見つめて、活動を本格化させて来たと思うんだけど、やっぱりこの数年それが盛り上がって来てる感触はあったでしょ?

S:ありましたね。若手のリリースもあったし。湘南、というか藤沢のヒップホップですね、特に。DINARY DELTA FORCEとかBLAHRMYとか。彼等が全国区に駆け上がっていくのを見てるし、流れが来てるのは感じてましたね。

●その辺の世代っていうのは年齢的には?

S:20代後半ぐらいですかね。

●なるほど。今30歳ぐらいの連中っていうのは、96年の「さんピンCAMP」の時に小6とか中1とかで、日本語ラップのかっこ良さがどんどん広まってる時期に中学時代、高校時代を過ごしてる黄金世代な訳だもんね。

S:いわゆる“クラッシック”といわれる名曲を中高生でリアルタイムで聞いてた世代ですね。

●そこがどんどん力をつけて来るのは当然なんだろうね。それとその中間の世代の平塚勢、茅ヶ崎勢、DROとかBULLとか力を付けて来た勢力とのリンクもあったし。

S:奴らはもう結構前からの付き合いですね。C.I.C.のアルバムを出す少し前ぐらい。BAZOOがまだThe Brobusにいた頃で、メジャー・デビューするなんて言ってた頃だから2006年頃からですかね。

●それとこの数年じゃあ、その上の世代、往年の「Best Of Japanese Hip Hop」シリーズのコンピにも収録されたこともある平塚の老舗MICRO TACSのDJ460たちとのリンクもあるよね。本当、この数年、湘南でSHARを中心にヒップホップが盛り上がってきてるのは感じてたよ。頑張ってたのも。で、今回、ソロ名義というかプロデューサー名義でのアルバム・リリースってことなんだけど、そこに込めた思いみたいなものを聞かせてよ。

S:色んな人にビートを渡したり、アルバムに参加させてもらったりとかやってきて、藤沢の中でも盛り上がってきてるのも感じてたし、この数年ヒップホップを取り巻く状況がどんどん熱くなって行く中で、「じゃあオレも出したいな」って気持ちが高まってきて、、、。それで60トラックぐらい用意していろんな人に送ったんですよね。そこからやりとりが始まって。で、これだけの人数とやってる訳だから、最初はタイミングが合わなかったけど、作ってるうちに参加してくれることになったり、オケも最初に送ったのが違うな、って感じだったら、また合う様なものを送ってみたり、、、。

●ケツが決まってる訳じゃ無いもんね。

S:そうですね。だから自然体で1曲1曲作ってるうちに1年半ぐらいかかって。で今回は流通をファイルレコードさんでお願いしてるんですけど、ほぼ完パケに近い状態のものを聞いてもらってから動けたんで、その辺も良かったです。

●ファイルと言えばジャパニーズ・ヒップホップの名門、てイメージあるもんね。

S:そうですよ。MICROPHONE PAGERからRHYMESTERから。今またDINARY DELTA FORCEとかSD JANKSTAとかもみんなファイルですよ。やっぱB-BOY的には憧れのレーベルじゃないですか。

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Andrew Pommier

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Text by CB Ishii (石井洋介)  Photo by Healthy

RVCAのANPアーティストとしてアートワークを提供するAndrew Pommier(アンドリュー・ポミエ)が初来日し、自由が丘のギャラリーDIGINNER GALLERYでアートショウを開いた。彼はadidasやNIKEなどのシューズ・カンパニーをはじめSTUSSY、FOUR STAR、TOY MACHINE、ELEMENT、Girl Skateboards、Heroin Skateboardsなどのストリート・ファッションやスケート・カンパニー、そしてThrasher Magazine、Juxtapozなどの雑誌にアートワークを提供してきた。

●あなたの育ったホームタウンはどのようなところでしたか?

Andrew(以下A):オンタリオ州の北にある鉱山業の盛んな工業都市で、スケートボードは86年に始めたよ。スポットもいくつか在ったし、スケーターもいたんだ。スケートの環境としてはそれほど悪くはなかったね。地元の女性が、スケートが流行っているからってショップを始めてくれたから、そこで色々な物を手に入れる事もできたしね。

●兄弟でスケートをしていたはずですが、スケートはAndrewが先に始めたのですか?それとも弟のScottが始めたのですか?

A:僕が先に始めたよ。近所に住んでいた友達がBanana Boardを持っていたんだけど、ほとんど貸してくれなくて、、。両親とトロントに行った時にデッキを見つけたんだ。それはBanana Boardに比べて大きいし幅も広いし、不細工なシェイプのデッキに見えたけど、両親に「バースデープレゼントに」って頼み込んで買ってもらったんだ。バースデーより一ヵ月早かったんだけどね。 (笑)

●当時のスケーターでは誰が好きだったんですか?

A: Lance Mountainかな。彼は変わり者のキャラだったし、アーティスティックだった。絵も描いていたし、僕にとってはTony Hawkよりも魅力的だった。Lanceは今でもガンガンスケートしてるよね。ちょっと前に出ていたFlipの広告のLanceのボールでの写真は圧巻だった。

●当然デッキのグラフィックにも興味がありましたよね。どれが一番好きでしたか?

A: 90年代のAlien Workshopのグラフィックだね。スリックのデッキが出てた時とか。New SchoolのMario Rubalcabaのデッキが凄く変な絵で、ワニの頭に蛇の腕がついたグレーの板で、それが一番好きだった。名前も書いてなければブランド名もなかった。でも当時はスケートボードもビジネスとして大きくなかったからそういう類いのデッキが出ていたんだ。Micheal Siebenが今でも何となくそういう感じの事ことをやってるよね。グラフィックはデッキのど真ん中にドカンとあるのが好きだね。昨晩ギャラリーで描いたものがそんな感じだったと思うよ。トラックとトラックの間にグラフィックがある感じ。

●Andrewにとってスケートボードとは何ですか?スポーツだと思いますか?

A:スケートは僕の一部分で、アイデアを与えてくれるもの。ピュアなモノで貸し借りがない、不思議な物だよね。パークをクルージングして、マンホールをオーリーで飛んでというシンプルなものだけど、僕にとっては単にアクティビティというよりは、もっと有益な基礎になるモノっていうのかな。そのおかげで僕は今この日本にいるしね。幸か不幸かスケートボードは莫大な金を産むモノとなり、TVでも見る事が出来るようになり、人々はそれに熱狂し、スターになる事を夢見る人もいる。Paul RodrigezやRyan Schecklerなど沢山のスケーターはスケートの”ある一部分”をビジネスとして考えているかもしれない。僕の推測にすぎないけど、そういったスケーターはスケートというモノを純粋にカルチャーやバックグラウンドまで含めて大好きなのかはわからない。スケートボードの歴史や90年代の流れとかね。だから今の流れをスポーツだとは断言しないけど、ビジネスに比重を置いて考えているスケーターもいるかもしれないね。

●では小さい時から絵を描いていたんでしょうか?

A:たぶん物心が付いた時から今までずっと絵を描いていると思う。スケートボードのグラフィックこそが自分の中ではいつも新しい発見で、有名なアーティストがグラフィックを描いたボードに乗っているんだと気づいて、自分もできないかなと思い始めたんだ。大きな意味でのアートという世界を意識し始めたのもスケートだった。

●あなたの絵が初めてグッズになったのは何でしたか?

A:それはトロントに住んでいた時だ。大きなモールの裏の教会にマニュアルが出来る2段と3段の小さなスポットがあり、ダウンタウンのスケートシーンはそこから誕生したんだ。Bill Weiss, Thomas Morgan, Justin Bokmaなどのプロが滑っていたスポットだ。自然に彼らと話すようになり、ある時グラフィックをやってみたいと言ったんだ。当時BillはBalance Skateboardのライダーで、僕のスケッチブックから彼が選んだ絵を家に帰ってキチンとしたグラフィックにして、カリフォルニアのBalance Skateboardに電話をして送ったんだ。それは虫が手にビールのボトルを沢山持っている絵と、空き缶がBalanceの文字になっているロゴをデザインしたものだった。さらにTシャツのシルクスクリーン用に5枚のレイヤーに分けて送ったけど、結局ボツになったんだ。そうしたら、フロリダのTampa Amスケート・コンテストに行った弟が「あのロゴのTシャツを見たよ!
と教えてくれて、すぐにBalance Skateboardに電話をしたら、$50送ってくれたよ(笑)。それが最初だね。

●アートに興味を持ち始めて、どのようにスキルアップしましたか?

A:最初はコマーシャルアートを勉強したくてアートスクールに通いました。アートこそが僕がやりたい事だと思ったからね。

●それではもうその頃にはスケートよりもアートが好きだった?

A:そう、僕はトロントにいてアートで何が出来るのかを追求したかった。絵を描くのはずっと好きだったからアートスクールに通ったのも当然のことだった。実は弟も1年だけは僕と同じアートスクールに通いましたよ。

●弟のScottはどこかのチームに所属してましたよね?

A:彼はファンタスティックだった。とても上手かった。Woodchuck LaminatesとVans Canadaとトロントにあるローカルのスケートショップのライダーで、Woodchuck Laminatesのビデオではいくつかパートを残したけど、背中を捻ってしまったり、足首はずっと痛めてばかりと怪我が多すぎて、、。まだスケートはしてますから乗れば上手いですよ。この前も彼がスイッチ360°をやっているのを見てアセりました。

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ジャッキー・リーム・サッローム Jackie Reem Salloum

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text by Masataka Ishida 石田昌隆

 パレスチナのヒップホップを追ったドキュメンタリー映画『自由と壁とヒップホップ』が公開された。原題は“Slingshot HipHop”。撮影を始めたのは2003年で、完成して公開されたのが2008年だった。
 監督は、ジャッキー・リーム・サッローム。ご覧のように美しい女性である。

Jackie Reem Salloum(以下、J):ミシガンで生まれて今はニューヨークに住んでいます。母はパレスチナ西岸地区出身、70年に祖父母に連れられてアメリカのミシガンに移住しました。祖父がパレスチナで政治的活動をしていたことと祖父の兄弟がそのときすでにミシガン大学で教鞭を執っていたので移住することができました。父はシリア出身です。初めてパレスチナに行ったのは、まだ子供の頃、80年代です。母に連れられて1か月ほど滞在しました。楽しかった思い出です。

ジャッキーはアメリカのパスポートを持っているのでアメリカ人だが、もちろんパレスチナ人でもある。パレスチナ人には4種類の立場がある。彼女のように外国に住んでいる人、ヨルダン側西岸地区に住んでいる人、ガザ地区に住んでいる人、イスラエルに住んでいる人という分類だ。このうちイスラエルに住んでいるパレスチナ人は、アラブ系イスラエル人と言われることが多く、じつはイスラエル人の2割にも及ぶ。

 『自由と壁とヒップホップ』の主役、ターメル・ナッファール、ソヘイル・ナッファール、マフムード・ジャリーリーという3人からなるDAM(Da Arabian Mc’s)は、テルアビブ近郊の街、リッダ(イスラエル人は「ロッド」と呼ぶ)が拠点のアラブ系イスラエル人によるグループだ。  イスラエルとパレスチナが最も和平へと近づいたのは1993年にオスロ合意がなされて、ワシントンで、ビル・クリントン米大統領をはさんで、アラファトとラビンが握手したときだが、その後、関係は少しずつ悪化していき、2000年に、リクード党首でその後首相になるアリエル・シャロンがエルサレムで最も重要なイスラム教の聖地、岩のドームに足を踏み入れたことをきっかけに第二次インティファーダが始まり、和平へのプロセスは完全に崩壊してしまった。

J:DAMは1998年にデビューしました。第二次インティファーダが起こった後に〈誰がテロリスト? 俺がテロリスト?〉という意味のリリックが印象的な〈WHO’S THE TERRORIST?!(Meen Erhabi)〉という曲が書かれました。私が彼らの音楽を初めて聴いたのは2001年で、会ったのは2003年です。

●〈WHO’S THE TERRORIST?!〉は素晴らしい曲ですね。

J:当初は“arabrap.net”からフリー・ダウンロードできるようになっていて、数百万人がダウンロードしました。今はYouTubeで見ることができます。チャックDのラジオにDAMが登場するシーンは、ニューヨーク、ブルックリンのラジオ局で2006年に撮影した映像です。〈WHO’S THE TERRORIST?!〉はアメリカでも話題になったので、渡米するチャンスがあったのです。

●DAMとコラボレーションした〈Born Here〉によってパレスチナのヒップホップ・シーンに地位を確立したという女性シンガー、アビール・ズィナーティもリッダで生まれ育ち、イスラエル人とともに教育を受けていたとありますが、ヘブライ語を喋るということですか?。

J:DAMのひとり、ソヘイル・ナッファールもイスラエル人とともに教育を受けました。家ではアラビア語、外ではヘブライ語を話します。

●DAMの音楽を聴くイスラエル人というのもいるのですか?。

J:少ないながらもDAMを聴いて支持しているイスラエル人もいます。イスラエル人のミュージシャンとコラボレートするときもあります。しかし一方で、イスラエル人のヒップホップのミュージシャンも多いのですが、右翼的なことをラップする人が目立ちますね。〈朝目が覚めて、アラブ人、やられる前に俺がやってやる〉みたいな。

●難民キャンプの集会所みたいなところでDAMがライヴを行なって、集まったパレスチナ人たちにみるみる伝わっていく様子は感動的でした。

J:それは、ヨルダン川西岸地区のディヘイシャ難民キャンプで行なったワークショップの一環のライヴのシーンです。

●リッダに住むアラブ系イスラエル人が西岸地区へ行くのは問題ないのですか?。

J:厳密に言うと、イスラエル人のIDを持っているパレスチナ人が西岸地区を訪問することは可能なのですが、チェック・ポイントで警告を受けたり、西岸地区から帰ってこられると思うなよ、と脅されることがよくあるそうです。

●アラブ系イスラエル人がガザ地区に行くことは可能ですか?。

J:今はたとえ親族が住んでいても無理のようです。

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森田貴宏とISFF 2013

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Text by Shizuo Ishii   Photo by Ken Goto, Yuichi Ohara

 FESNを主宰するスケーターの森田貴宏が昨年12月、LAで行われたISFF 2013(インターナショナル・スケートボーディング・フィルム・フェスティバル)に招待されて帰って来た。さっそくRiddim Onlineのオフィスまできてもらって話を聞いた。

 森田貴宏と知り合ったのは15年くらい前だ。既にクオリティの高いスケート・ビデオをリリースしていたので、Panasonic(当時の松下電器)のRiddimVoxというラジカセの広告に彼を起用しようという打ち合わせだった。それがきっかけで新しいDVDやサントラができるとサンプルを持って突然現れた。それはたいてい夕方の暗くなった時間だったから、きっと大好きなスケートが一段落したころだったのだろう。スケーターでありながら、FESN(ファー・イースト・スケート・ネットワーク)の名前でスケート・ビデオを出し、LIBE BRAND UNIVS.と言うブランドもやっている。今回のLAで行われたISFF(インターナショナル・スケートボーディング・フィルム・フェスティバル)へダン・ウルフらに混じっての招待は、今までの映像作品が評価されてのものだろう。ちなみにオフィシャル・セレクションのウイナーにはRiddim Onlineでも紹介したタイ・エヴァンスやスパイク・ジョンズ達の作った「Pretty Sweet」が選出されている。

●最初に、なぜスケート・ビデオを作って発売しようって思ったわけ?

 森田貴宏(以下M): それは当時の僕らには無かったからですよ。Thrasherの「スポンサー・ミー」っていうビデオを見た時に、「これだ!」って自分でも作りたくなったんですよね。93年からスケートを撮り始めて、二度カメラの盗難にあって(笑)、ようやく最初のビデオ「FESN」を発売したのが95年ですね。

●その時のカメラは?

M:SONYのVX1です。

●もうそんなに良いカメラで撮ってたんだ。

M:良いカメラで撮れば「カメラが悪いからね」とか言われないだろうと思ってました。あの頃たしか24万くらいするカメラを使いこなせないのに無理して買って、そうすれば自分でも逃げ出さないだろうなと。ドキュメンタリー・フィルマーだと思ってやってる頃は、カメラ2台と三脚2本とテープとライトのバッテリーをそれぞれ10個くらい、それにフィッシュアイ、広角レンズをそれぞれバッグに入れてプッシュしていました。フル装備だと20キロ近くあって、それを背負いながら、撮影するスケーター達のスピードに合わせて自分も走らなけりゃならなかったから、そりゃ当時は過酷な修行の日々でした(笑)。だけどこれでホントにスケートがうまくなりましたね。それ以降の2008年から僕はスケーターを「撮る」側から、スケーターとしてもう一度「滑る」側になりたいって正直に思ったんです。

●えっ、それはどうして撮るのを止めたの?

M:「オーバーグラウンド」(DVD)を作ることで、僕が会いたいと思っていた世界中のヤバいスケーターたちには相当数会ったんです。
正直ほとんどの人に会えたと言っても過言じゃない程。それから日本に帰ってきて思ったのが、仲のいい友達のスケートなら撮りたいですけど、興味の無いスケーターにカメラを向けるのは僕自身出来ないって思ったんです。やれば嘘になるって。そうなって考えた時に、僕自身、純粋にスケートというものの中で興味があるモノが、もはや自分のスケートしかなかったんです。だから今、僕は滑る側なんです。今は僕自身スポンサーとかの縛りも特に無いから誰に文句を言われる筋合いもないですしね。それに僕がスケートすることで実際僕に対して直接文句言ってくるのは僕のお嫁さんぐらいなもんですから(笑)。今はそんな俺のスケートを必要だと思ってくれるカンパニーが日本にも海外にもいてくれて、さらには俺のシグネチャーモデルを随時作りたいと言って来てくれる状況になった。そうなった今、もう俺のスケートを止めるものは何もないですよ。

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管野秀夫 #空でつながる

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Text by Shizuo Ishii 石井志津男

「 #空でつながる 」というプロジェクトをやっている管野秀夫はX JAPANのhideやGLAYなどのアーティスト写真を撮っている音楽写真家。そんな彼とはもう30年以上の旧知の仲。しかも同じビルの中に事務所を持ってからでも20年以上になる。こんなに近くにいるのに仕事上でのつきあいは1981年に一緒にNYに行ってもらった以外はほとんどない。だが、「 #空でつながる 」という311以降の復興プロジェクトをやっているらしいことは、何となく知っていた。突然、俺の事務所にやってきた彼にインタヴュー。

●カメラマンになって何年ですか?

管野秀夫(以下C): 35年ですね。

●そんなに長い間、たくさんのアーティストを撮ってきて、たとえばB’zとかデヴューの時から撮影しているわけだけど、このアーティストはきっとスゴくなるなっていうのは、分ったりするわけ?

C:分かります!

●具体的にはどういうことですか?

C:それは抽象的な感覚なので、ロジカルに説明するのは難しいですけど、実は人として、あたりまえの事でもあるんだと思います。先ずリスペクトと感謝、向上心、努力、好奇心、根性、怠けものではない人、義を重んじる人。あともうひとつ、タイミングを見逃さない感覚。そして当然メロディーメーカーとしての才能があっての事です。

●では写真を撮るうえで最もこだわっていることは何ですか?

C:被写体を好きになる事です。

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Rockers 外伝

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Text by Shizuo Ishii(石井志津男)

ジャマイカを舞台にした超一級のカルト・ムーヴィ「Rockers」は1977年に撮影がスタートして78年に完成した。スタートした時は監督のテッド・バファルコスが30歳、プロデューサーのパトリック・ホージーは28歳だった。はっきり言おう。この映画の完成以降35年が経過しても「Rockers」を超えるジャマイカ映画を俺は知らない。そしてこの映画の裏には日本人Cherry Kaoru Halseyも関わっていたことはあまり知られていない。「Rockers」を80年から5年間、最初に日本配給した関係で彼女とは35年の付き合いになる。

1月の終わりの暖かい日、表参道ヒルズ前で久しぶりに会ったCherryの体調は良さそうだった。「フライが食べたい」というから、トンカツのまい泉に行ったのだが長い行列。しかたなくトンカツ弁当のテークアウト。OVERHEATまで話しながらぶらぶら歩いて来て、ゆっくり食べたトンカツは美味しかった。

●Cherryとは本当に長い間の知り合いなんだけどさ、実は知らないことだらけ。どんないきさつで70年代の中頃、パトリックと結婚してジャマイカに行ったわけ?

Cherry(以下C):結婚する前に海外旅行をしたいと思って、最初はカリフォルニアのスタンフォード大に行っていた友達の家、次にマンハッタンのチェルシーに住んでいた絵描きの友達の家に泊まっていたんです。チェルシーはまだあの時代はお金のない人が住む汚い地域でプエルトリコ人とかスパニッシュの人たちが住んでいたんです。あるとき泥棒が入ってお金を盗られたりして、ヴィレッジの床屋さんでシャンプーするアルバイトをしてたの。あの時代はユニセックスとかいって、女の人も床屋さんで髪を切るのがちょっと流行ってる頃。窓から長い金髪の男の人がジーッと中を見ていて髪を切ろうかどうしようか迷ってるふうだったから、オーナーが「さっさと呼んで中に入れろ」って言うから「ハーイ」とか言ってね。それがパトリックとの出会いです。「ここら辺に日本レストランはない?」って聞かれてあそこにあるらしいって言ったら「食べに行かないか?」とか言われて。行かなかったけど、、、あとで分かったんだけど、彼はすぐ近くに住んでいて全て知ってた。

●知ってたんだ、あっはっは。その頃のパトリックは映画の仕事をしていたの?

C:あの取材(1981年、近代映画社刊「New York City Book」)に行ったハリー・スミスを覚えているでしょう?1991年に亡くなったけど、パトリックは彼のアシスタントをしていたの。ハリー・スミスはフィルムメーカー、画家、音楽家、評論家、哲学者、人類学者、奇術師、詩人、レコードや絵本のコレクターとしてすごく偉大な人なのよ。ハリー・スミスのコレクションがゲッティーなんとかってあるでしょ。

●あのホテル・チェルシーに住んでいた人でしょう?覚えているよ。それってGetty Research Instituteかな?(写真の人物がハリー・スミス)

C:そうそうゲッティーのミュージアムには、つい最近ハリー・スミスのための場所が設けられたし、ハリーが集めたアメリカインディアンの民族衣装などはスミスソニアン・ミュージアムに収まってるし、音楽ではハリーが十代のころから集めていたアメリカンフォーク、ブルーグラス、ブルースなどの音源を1950年代の始めに6枚組の『アンソロジー オブ アメリカン ミュージック』としてLPを出して、色んな人たちに多大な影響与えたりで、それが認められてハリーは1991年のグラミー賞でライフタイム・アチーブメントをもらったけど、その数ヶ月後に亡くなったのね。その後2006年にはこのアンソロジーとハリーとに関するドキュメンタリーも制作されて、その頃はもう パトリックは亡くなっていたけど、彼が持っていたフィルムとかそういうのも貸してあげたり。その頃に公開されていた『マハゴニー』って言うフィルムもパトリックが撮影を担当していたもので、実験的映像として有名なのね。なにせハリーはフィルムのワン・フレームごとに手でペイントしたりしてた人。そのハリーのアシスタントをしていたのがパトリックで、後にも先にも彼のアシスタントはパトリックしかいないの。

●すごいね。パトリックとハリー・スミスさんとの出会いは?

C:パトリックのお姉さんが友達だったみたいで、それでパトリックが最初にニューヨークに来た時は、お姉さんのところにお世話になっていて、その家はハリーもだけど、詩人、ビートニック、ああいう系統のすごい人達が集まるところだったらしい。

●パトリックはどこの出身なの?

C:パトリックはミズリー州。テッド(バッファロコス)も 彼の自伝書みたいな本『Rockers DIARY』(アップリンク刊)の中で言っている様に、パトリックはフィルムの大学に行って勉強したとかそういう人じゃなく何の理論の束縛もなく開放されていた。だからフィルムの道はハリー・スミスさん。だからそれだけでもすごい。ハリー・スミスはすごい人だったと思う。

●そのテッドさんもハリー・スミスと関係あるの?

C:ないないない、テッドは全然関係ない。

●彼のバイオグラフィーにはコマーシャル・フィルムをやってたと書いてあったね。(2005年の来日時にRiddim誌でインタヴューした)

C:テッドは高校まで、ギリシャで育ち、 お父さんが船員で世界中を廻ったお父さんの勧めでアメリカ東海岸のロードアイランド・アートスクールという有名な大学に留学したのね。その時の同じ学校の仲間がパトリックと仲の良い人で、テッドがパトリックに興味があったのはただ一つ、ハリー・スミスのアシスタントだったからっていうそのことだけ。というのはテッドの年代の人は大学時代といえば必ずスミスさんのレコード・コレクションで育ってる。とにかく気の利いてる人は、そのハリー・スミスのコレクションを持っている時代で、みんな奪い合いだったんだって。ハリー・スミスは双子座だからなんでもやるけど、それが全部すごい人なんですよね。パトリックが関わったのは大体が映像。だからテッドともそういう風に知り合いになって、そんな感じかな。テッドも変わってる人で、みんなマリファナをスパスパ吸う人達で、もうハリー・スミスもすごい(笑)。

●パトリックの映像作品ていうのは他にあるの?

C:あるある、あるけどお金になる様なモノじゃない。

●アーティスティックなもの?

C:アーティスティックでもない。彼は大体ドキュメンタリーが好きだったの。インディアンとか先住民とかそういうのが好きで、私の前のガールフレンドのお父さんも、パナマの有名なサンブレス・アイランド島のなんとか族っていう人で、そういう所に行って、16ミリ(フィルム)で撮ってたのね。サウス・アメリカのスリナムのアマゾンジャングルに住んでる幻の金髪のインディアンを撮りに行ったりとか夢を追う人で、結局その金髪には巡り会えなかったけど。今はもういないみたいだけどインディアン古来の生活をしている原住民を撮ったり、だからアマゾンを上って行ったりとかそういう作品はあるけれどね。

●ドキュメンタリー作家だったんだ。

C:そう、この間、私はそのフィルムを見つけて勿体ないからどこかに売ろうかと思って、一生懸命色々企画書を書いてナチュラル・ヒストリー・オブ・ミュージアムに行ったら、そこでインディアンのフィルムがずっと流れていて、パトリックより良いのがガンガン流れていて、これはダメだって(笑)。もっと良いフィルムを見つけてもう諦めた。笑っちゃうでしょ、私シビアだから。

●いいねえ、Cherryらしい(笑)。

C:だからお金にはあまりならないみたいだけど。

●でも映像っていうのは、その時しか撮れないものだから一概に価値の評価は言えないけどね。

C:そんな感じかな。

●で、テッドとパトリックがそうやって知り合って、、、。

C:そう共通の仲間の紹介でね。私たちが巡り会う前からパトリックはレゲエが好きで、テッドもレゲエのドキュメンタリーみたいな共通なものがあって、、その頃はレゲエが最高の時だったから。

●テッドはジャマイカにも行ったりしていたんだよね。

C:そうみたいね、パトリックも興味あるから、多分テッドにとってはパトリックは、うるさく言う人じゃないし自分のやりたい事をやらせてくれそうな人だったからかもしれない。映画が出来てからは喧嘩をよくしていたけど、お金が無いからあまり払えないからそれが不満になるのは分るけど、みんなが無かったからね。で、私はいつも怒るでもないけど、何年も経ってからパトリックの悪口とかお金の事とかをみんなが言ってくる。すごかったんです。借りて借りて借りまくってやっていたから、特にジャマイカ人がお金を貰ってないとか払わないとか。払ってないで仕事をする訳無いでしょ? ジャマイカの人達が。パトリックは偉かったと思うのね。彼は自分のお金じゃなくても映画を終わらせたってこと。普通ハリウッドだったらお金が儲からないと思ったらパス、そこでこれ以上の赤字を出さないためにそこで止める。でもパトリックは自分がすごい目に遭ってでもお金を工面して借りて映画を終わらせた。だからそのことを認めなければいけない。もしパトリックがビジネスマンだったらストップしてたと思う。

●全くその通りだね。

C:それをわかる人はあんまりいないんですよ。そのことで、私だって私の娘だってすごい思いをして大変な生活してたのに。だから怒るんですよ。それはテッドに対しても言ったんですよね、そしたらテッドは「分かる分かる、僕たちは本当若かった」って言われた。

●本当にこの映画「Rockers」を作った時って二人ともすごく若いんだよね。

C:そう若いです、まだ20代ですしね。

●すごいことだね。

C:多分76年くらいから色々話を始めて77年に撮影が始まって。

●で78年にようやく編集が出来上がって。

C:そう、でもやっぱりお金が無いから色々と工面して、78年まで色々と編集にもすごく長い時間がかかって音楽が一番最後で、もう2年はかかってたからもう終わらないのかなと思ったり。その後、映画が完成してから十何年も聞かされることになるんだけど、パトリックがお酒に酔ったりするといつも同じように「俺はあの映画を作らなきゃ良かった」って。今思うと本当に彼はおかしかったんですよ。いつも「作らなかったら家族にもこんな思いをさせなくて良かった」とか、私も「多分あのロフトはまだ残ってた」とか言ってしまって。本当にロフトを持ってたんですけど、そんなのはとっくに手放しちゃって、あれを何十年持っていたらそれでひと財産みたいなのをタダみたいに手放して今は一等地。それは後になって分ることでね、売った時点ではアル中の人がゴロゴロ寝てる地域だったから。

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2013〜14年、年末年始のジャマイカ・ダンス事情

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Text by Jun Tochino Photo by Jun Tocjino, Yukiyo Hill Maruyama

2013年〜2014年の年末年始に行われたジャマイカのビッグ・ダンスレポートします。不況のためか?例年行われていたべレス・ハモンドのクリスマス・コンサート、キャンプ・ファイヤー、ココティーのジャムジャムは開催されず、12月26日のスティング、1月4日のシャギー国立子供病院チャリティー・コンサート、1月17〜18日のレベル・ソルート、1月25日のニンジャマン・バースデー・バッシュの5つのみというちょっとさびしいものになりました。

まずは12月26日のスティング。もうご存知だとは思いますがスティングは、毎年12月26日、ジャマイカのボクシング・デーというクリスマスの次の週末に行われるビッグショウです。今年は40周年記念ということで、世界一危険なステージ・ショウといわれるスティングがジャマイカ・ツーリストボードと手を組み、平和で安全、旅行者も来れるステージ・ショウになりました。ラインナップもここ数年のスティングに比べるとかなり国際的で、12年ぶりにジャマイカでショウをするスーパー・キャット、ヒップホップからは2チェインズとあのワイクリフ・ジョン。

今年のショウはきちんと10時から始まり最初から大物が出演する良いステージ構成。今まではエレファント・マンやコンシエンスなどの人気アーティストがなかなか出演せず、朝4時くらいまでは誰が出るのかプレスに聞きまくっていた。私が会場に着いたのは11時前でしたが、もうエターナが歌っていてプレス発表通りにワイクリフはきっちり12時、2チェインズは12時30分、スーパー・キャットがちゃんと1時に出たのにはさすがに感動しました。

ワイクリフのパフォーマンスは本当にすばらしく、ゲットー・ピープルの声が聞こえるVIP席の一番後ろに行き柵に上ったり(AKONの手法?)というすばらしいショウ。次の2チェインズ(すいません、私は一切知らなかった)も、かっこいいアメリカン・ブラックで若い女の子が大盛り上がり。そして我等がスーパー・キャット。去年9月NY、レーバーデーのシャギーのステージにゲストで現れモシャモシャ頭とビン・ラディンを想像させる衣装でかなり心配でしたが、往年の曲を全てきっちり歌い上げ、おばはん、おっちゃんの心をがっちり掴んでいました。私と同世代のスーパー・キャット、ジャマイカでの人気健在で本当に嬉しい限りです。

続くジャマイカ勢。スティング名物といえばDJクラッシュとニンジャマンですが、スーパー・キャットが終わった後に出てきたのがレディー・ソウ。後半に差し掛かったところでいきなりステージに乱入したマッカ・ダイアモンド。初めて観たマジで真剣な女のDJ対決。でもさすがは女王レディー・ソウ、余裕でマッカを蹴りとばしました。次はビーニマンに客席からいきなり飛び入りしたもと嫁のデアンジェロが一緒に踊ったりクラッシュしたり(またニンジャにもデアンジェロがクラッシュを仕掛け、もちろんニンジャが勝ちますが)、このディアンジェロの行為(客席から乱入)が問題になり、彼女は今後一切スティングに立ち入り禁止になったそうです。もちろんお客としても。ショウの最後は去年のクラッシュ勝者であるキップ・リッチを倒せば500J$(約500万円)を貰える「賞金クラッシュがあり、キップ・リッチはコブラに喧嘩を仕掛けていたのですがコブラは現れず。同じポートモア出身の若手が何人か出てきた中で、ブラック・ライノが見事キップ・リッチを倒して500J$を手にして、ブラック・ライノの圧勝でキップ・リッチ顔なしっていう感じ。

今年のスティングは例年に比べ飛躍的な進歩があった気がします。1989年から毎年かかさずスティングに行っていましたが、実はあまりにも知らないアーティストが多過ぎて面白くなくなり、ここ3年間はやめていました。が今回は出てきた全てのアーティスト達が名前のある人達で、時間もきっちり、クラッシュもありで問題無し。ただひとつだけ入場料が不満でした。VIP席は例年通りの6000J$でしたが、一般席がなんと3000J$(いつもは前売1000J$で当日1500J$でした)と高すぎたこと。だからVIP席は混雑していても一般席はガラガラで、地元ポートモアやキングストンのゲットーの人々は来れなかった。さて今年はどんなラインナップか?今年もこの状態を保てるのか?例年の状態に戻ってしまうのか?楽しみです。

さて次は2年ぶりに戻ってきたのが1 Ticket=1 Lifeをテーマにした「Shaggy and Friendsというチャリティー・コンサートです。これはシャギーが赤字で設備の整わない国立子供病院ボスタマンティーに売り上げのすべてを寄付するとってもすばらしいイベントで、今年のラインナップは古いところからピンチャーズ、アドミラル・ベィリー、アドミラル・チベット、カーリン・デービス、マイティ・ダイアモンズ。実力派はクロニクル、トーラス・ライリー、アイ・オクテイン、ショーン・ポール。そして若手からはウエイン・マーシャル、コンシエンス、海外から特別ゲストのNE-YO、ソカのケス。そして今やジャマイカ中の話題の人、テッサン・チン。なぜ話題かというとアメリカのスター誕生番組”Voice”に出演し、12月17日のファイナルで見事優勝したからです。そのテッサンの初ジャマイカ凱旋公演とあって、チケットは一番安いチケットでも5000J$、VIP席は10000J$、プレミアム席は25000J$という高額にもかかわらず、1万枚を見事に前売りで完売。いやーマジにテッサン・パワーはすごかった。

ショウの内容はまず子供達のナイヤビンギ・ドラミングと国歌斉唱に続き、ホストのシャギー。そこから80’sのピンチャーズからスタートして時間通りにショウは進んで行き、ウエイン・マーシャルにアサシンとJr.ゴングが特別ゲスト出演。そして海外ゲストのNE-YOからシャギーに引き継がれ、12時に今回の目玉のテッサン・チンが登場。いやー本当に歌がうまい。テッサンは番組で歌った歌を1曲づつ丁寧に歌い上げ、サプライズ・ゲストには番組で準決勝まで競い合ったアメリカ黒人男性歌手マシュウを呼びこみ見事なショウを見せてくれました。テッサンが終わった時が1時。ここからトーラス、クロニクル、ショーン・ポール、アイ・オクテインと続くわけですが、テッサンが終わったあたりで、アップタウンの方々は疲れたのか6割は帰ってしまい、ちょっともったいない感じではありましたね。

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ソウル・フラワー・ユニオン 『 解き放つ唄の轍』石田昌隆

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Text by Norie Okabe 岡部徳枝

 頑張り続け、ふんばり続けることは難しい。けれど、そこに心を解放し、笑い泣かせて踊らせてくれる音楽があったなら――。あるときは阪神淡路大震災の被災地で、またあるときはパレスチナの難民キャンプで、民の唄を歌い、民の音を奏で、多くの人を鼓舞し続けてきたミクスチャー・ロック・バンド、ソウル・フラワー・ユニオン。そんな彼らの声を聞き、アクションを見つめ、記録し続けてきた写真家がいる。名著「黒いグルーヴ」、「オルタナティヴ・ミュージック」などの著者であり、この「Riddim」でもおなじみの石田昌隆氏だ。2014年1月、満を持して単行本「ソウル・フラワー・ユニオン 解き放つ唄の轍」を発表。さまざまな時代を、“生きた”言葉で綴る生々しい描写、今にも音が聞こえてきそうな“訴え”を持つ写真。石田氏の熱い衝動と、冷静な視点とが濃厚に混じりあう臨場感あふれるアーティスト評伝だ。今なお状況が変わり続ける日本の諸問題も浮き彫りにした必読本。著者の石田氏に、その背景にある想いを聞いた。

●石田さんがソウル・フラワー・ユニオン(以下、ソウル・フラワー)と出会ったのは97年。もう15年のお付き合いになるんですね。

石田昌隆(以下、I):最初は、たまたま撮影することになったという感じ。彼らがアイルランドのミュージシャン、ドーナル・ラニーと共演することになって、その写真を頼まれた。どちらかというとアイルランド音楽つながりで声がかかった仕事でね。93年にアイリッシュ・バンドのチーフタンズを撮影して、そこから彼らを招聘していたプロモーターのプランクトンとの付き合いが始まって、その流れで仕事が来た。僕は82年に初めてジャマイカに渡って、80年代はそれこそずっとレゲエを聞いていたわけだけど、あるときからトラッド音楽にハマってしまって。89年かな、「プリズナー・ソング」というタイトルに惹かれて、ハンガリーのマールタ・シェベスチェーン&ムジカーシュというアーティストのCDを買ったの。これを聞いて、初めてトラッド音楽ってかっこいいなと思った(笑)。アイルランド音楽にたどり着いたのはそれがきっかけ。トラッドといえばアイルランドが主流だからね。ソウル・フラワーの存在はもちろん知っていたけど、当時、僕は世界各国の音楽に心を傾けていて、日本の音楽に触れる機会というのが少なかった。正直に告白すると、ソウル・フラワーのことは、じゃがたらやボ・ガンボスのように重要なバンドだと考えてなかったんだよね。だけど、そのドーナル・ラニーと共演した「満月の夕」を聞いて震えてしまった。あれは本当に素晴らしかった。

●ソウル・フラワーを長く追い続けてきた中で、なぜ今このタイミングで、こうした本を書こうと思ったのですか?

I:第一章に被災地ライブのことを書いているんだけど、そこが大きいと思う。東日本大震災から約1ヶ月後の2011年4月24日に、メンバーと一緒に被災地を訪ねたのね。石巻とか女川とか南三陸へ。そこで中川くん(ヴォーカル、ギターの中川敬)が瓦礫の間にターンテーブルを見つけた。その写真をツイッターにアップしたら、なんと持ち主がフォロワーで、ソウル・フラワーのファンだったわけ。老舗かまぼこ屋さんの4代目で地元の名士。そこで彼は、被災地慰問ライブをやろうと持ちかけてくれた。被災地でライブをやりたいと漠然と思っているミュージシャンってたくさんいたと思うけど、誰かが場を作ってくれないとなかなか難しい。それがこんなふうにうまい具合に進んでいくとは、なんだかとても印象的でね。翌月の5月には5本のライブが決まって、僕も撮影で付いていったんだけど、実は被災地ライブを観るのは初めてだったの。なんでも初めて見る現場ってドキドキするでしょ。ジャマイカに初めて行って、サウンドシステムという現場を体感したときも、ものすごくドキドキしたんだけど、まさにそれと同じ感覚。レコード屋でCDを買うとか、コンサートホールのライブに行くとか、それ以外に音楽の現場があるってこと。被災地ライブを体感して、こんな音楽の現場があるんだ!ってえらく強く印象に残って、このことをどこかに書けないかなとずっと思ってた。そんなときに2年前くらいになるんだけど、編集の加藤彰くんが「ソウル・フラワーの本を書いてみないか」と言ってくれて、それから書き始めたという感じかな。

●南三陸の志津川高校避難所で「満月の夕」を聞き、初めて音楽を聞いて泣いたという石田さんのエピソードが印象的でした。

I:「満月の夕」は、阪神淡路大震災の直後に、焼け跡と瓦礫の街から生まれた曲なんだけど、あの曲には本当によくわからないすごいパワーがあって。志津川高校避難所でこの曲が始まったとき、近くの女性2人が泣き出してね。ライブが始まる前に、僕はその2人と話をしたんだけど、ソウル・フラワーのファンらしくて、まさか地元で見られるなんてと感激していた。実家が津波で流されたこととか、南三陸の名産物である天然あわびを食べるたこを食べさせてあげられないのが残念だとか、その話が妙に頭に残っていたせいか、2人の泣いている姿を見ていたらもらい泣きしてしまって。周りのおばちゃんたちも2人に続いて泣き出して、なんていうかすごく感動的な光景だったんだよね。あと、「満月の夕」は、ボブ・マーリーの「No Woman , No Cry」に似ているなと気づいたときがあって。「満月の夕」は、被災者が集まって焚き火を囲んでいる様子が歌われているんだけど、「No Woman , No Cry」の“ジョージーが焚き火を起こして、コーンミールのおかゆを作って、分け合って食べる”というくだりと同じだな、と。それをなんとか記録したいなという思いがずっとあって、第二章に書いているんだけど。だから自分の中で「すごく書きたい」という要素がまず第一章、第二章にあって、真ん中にこれまでのソウル・フラワーの活動を振り返る内容があって、最後の第七章で反原発、反レイシズムにつながっていくという構成。この構成が見えたときに、ちゃんと本になるなと確信したんだよね。

●第二章で、ソウル・フラワーが民謡を取り入れた経緯について書かれていますが、これがなんとも説得力があって、グっとくる話でした。「民謡を歌った時にようやく自分の存在が明確になった気がした」という伊丹さんの言葉や、“伝統保存”に対する中川さんの考え方とか。

I:うん。そもそも90年代初頭、中川くんは70年代Pファンクがかっこいいなと思っていて、黒人音楽を取り入れるスタイルへガーッと突き進みそうになっていたんだよね。でも、メンバーのヒデ坊(伊丹英子)が音響性外傷という耳の病気になって、大音響で演奏するのが難しくなった。じゃあトラッドな音楽をやってみようと方向性を変えたとき、ちょうど沖縄のチャンプルーズや大工哲弘さんとの出会いが重なったりして、それで彼らは沖縄をはじめ、日本、アイヌ、朝鮮、いろいろな民謡にハマっていくんだよね。寿町のフリーライブに出たり、寄せ場で歌って日雇いのおじちゃんと仲良くなったり、そんなこんなで俺たちはこの方向でいこうと決意したところに95年、阪神淡路大震災が起こった。そこからまたいろいろ活動も音楽性も広がっていくんだけど。

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R.I.P. Wayne Smith (The Birth of Sleng Teng)

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Text and Photo by Shizuo “EC” Ishii

 Wayne Smithが2月17日(月)にキングストン・パブリック病院で48歳の若さで他界した。1986年、俺がレコーディングに関係した最初のジャマイカン・アーティストだ。それはMen’s Bigiというブランドのための「Slick We Slick」という曲で、Roots Radicsがトラックを演奏しPVも制作され12″が作られた。スタジオはフーキムの所有する名門スタジオ、チャンネル・ワンだった。日本製のカシオトーンのプリセット音源から産まれた「Under Mi Sleng Teng」の大ヒットは知っていたが、正直言ってまだ俺には打ち込み(デジタル)トラックの魅力が理解できておらず、ナマでトラックを作った。そのレコーディングがきっかけとなってWayneとはその後も交流が続き、シーヴュー・ガーデンにあった彼ひとりで満員の狭いスタジオ(左写真)まで2度行った。そう、2度目のときだ。「ラジカセを修理したいから、クルマに乗せて行ってくれ」と、案内されるがままに着いたところがウオーター・ハウスの聖地、King Tubby’s Fire Houseスタジオだった。Wayneがいなかったら、Tubbyにも会えず、その翌年に作ったMUTE BEATの『DUB WISE』というリミックス盤のアイディアは浮かばなかった。

 それ以降ジャマイカ通いが始まった俺の常宿ホテルにWayneがよく現れたりしていたが、居をNYに移してからはそれほどは会っていなかった。だが2000年代前半に来日のついでにOVERHEATまで来てくれたことがあり、それから数年後の2007年、OVERHEAT主催で開催している「Soul Rebel」のアンコール曲1曲のためだけに無理を言って来日してもらった。1985年に世界のレゲエに革命を起したモンスター・チューンをやってもらうためだ。


もちろん曲は「Under Mi Sleg Teng」。
 出演者全員がSleng Tengリディムでアンコール曲を30分やり続けて終了。Wayneが出演することはバックのHOME GROWNのメンバーはおろか、出演アーティスト全員に知らせていないシークレット・ゲストだったから、お客さんもスタッフも本当にビックリしていた。

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J-REXXX M.U.S.I.C

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Text & Photo by Shizuo Ishii (石井志津男)

 昨年リリースした地元讃歌の配信シングル「My Town」が調子いいJ-REXXX。今年早々のアルバム『M.U.S.I.C』もこれでサード・アルバムとなり、中堅DJとしての存在を確立。では、アルバムのこと、これからのことをチェックしてみよう。

●まずサード・アルバム『M.U.S.I.C』のことから聞くと、今度は774(ナナシ)君が全面的だね。

J-REXXX (以下J):そうですね、プロモーションとかもほぼ自分たちでやってます。

●774君とのリンクのきっかけっていうのは?

J:大阪にTOP RUNNERっていうサウンドのEGA-Cってやつが、元々はこっち(東京)のGARAMとかその辺で回してて仲良くなって、その繋がりで大阪によく営業に行く様になったんです。そこで知り合ったRAM HEADとかその辺と「774君ってヤバい人がいてちょっと一緒に会いに行こうよ」と。ボロい団地のマンションで今にも幽霊の出そうな家の中に機材とか置いてあって、トラック作れるしレコーディングもできるけど地道にやっていてね。でも何かものすごくセンスがあるすごい人だから、いつか一緒に仕事やりたいと思っていて『改造人間』が終わった後くらいに「ちょっと配信やろう」という話になって、そこからですね。

●774君とは最初からアルバムを作ろうと思っていたの?

J:そうですね、774君とはミックスCDでも良いし、何か1枚作りたいなと思っていて。彼もノリの人なので、いっそのことアルバムにしちゃおうという流れで作った感じですね。夜クラブで自分の曲を回して、普段はバカバカとトラックを作って、そういう遊びのノリの中で音楽を作るっていうこっちじゃ中々出来ないライフスタイルをやっている人なので。

●どういう風に作ったの?トラックと一緒に?

J:全部一緒ですね。「こんなの作ってくれ」ってリクエストして774君から返ってきたトラックに書いたり、774君が元々持っていたある程度出来上がっているのに俺がリリック被せたり、774君もアレンジして。基本的に774君はリリックに対してダメ出しはしないんです。来るか来ないかみたいなこと。

●どういう事?

J:774君の中で「この曲はいい」「この曲は無い」みたいなことで、特に詳しい「こうした方が良い」「ああした方が良い」みたいなのは無いですよ。774君に刺さるか刺さらないか。

●それはモチーフみたいな事でってこと?

J:そうです。関西の営業に行って、ついでに774君の家に寄って、一週間くらい合宿して曲を作って、レコーディングして、そのままミックスまでやっちゃって、何曲かボツになった曲もありますけど、ほぼマンツーマンの遊びで曲を作った感覚ですね。

●終わってみて、今はどう?

J:自分の中では今迄の中の自己ベストは出せたかなと思います。アルバムを作ったというよりは、これを出して全部変わったなと思いましたね。最初作った時「これは綺麗ごとに聞こえるんだろうな」と思ってる所もあったんですが、みんなが「良い」って言ってくれて、しかも「M.U.S.I.C」とかは、どんどんどんどん時を経つごとにいいねってオタクから不良までいろんな人がいいって言ってくれる様になってきて、ジャンルもヒップ・ホップとかウェッサイのDJとかEDMとかそっち系の人まで結構気にいってかけてくれたりとかして、これで何かを越えた感じがしますね。可能性が見えたっていうか、やっぱ音楽ってこうあるべきなんだなと改めて再確認できて、自分がどういう音楽を今後していくべきなのかって改めて分かったっていうか、おかげで自分の方向性がわかって腹くくれたっていうのもありますね。774君とは地元も近いし。

●地元が近いって、774君は大阪じゃないの?

J:774君は明石在住で、生まれは兵庫県の播州なんですよ。俺は岡山県津山市で結構近いからノリも一近くて、たまに変にハイになる感じとか、土地柄のバイブスもちょっとあってたりとかして。

●地元っていったら、「My Town」でフィーチャリングしてる紅桜、彼はスゴいね。メチャ上手い。YouTubeのPVを見たらやっぱスゴい。

 

J:そうです、結構ヤバいっすよ。結構音楽面では本当にスゴいやつですね。

●ブルースの憂歌団みたいなセンスもちょっとあって。

J:そうですね。バックボーンも面白いですよ。普段からしゃべってる事も一言一言が面白いし、なんて言うんですかね、シブいって言うかうまく表現できないんですけど、深い味がある人間です。中学校の時ぐらいから知っていたんですけど、俺が高校2年の時ダブって、その時からずっとクラス一緒で(笑)。

●そうなんだ。それは津山市?

J:そうです、遊びながら音楽もしながらみたいな。津山市は小さい街ですけど音楽はヒップ・ホップとかパンクとかの音楽が好きな熱い人がけっこういて、特に不良の音楽が昔からアツい街ですね。岡山市とは車で一時間半くらいかかるし、倉敷とも離れているし、かといって鳥取や兵庫とも離れてる結構孤立した所で。そこにK2っていうでかい音で音楽を聞けるライブハウスが唯一あって、そこでパンクとかヒップ・ホップとかのパーティーをやってて、俺らも友達とそういう所に行く様になって「ヤバいなー、いつかああなりたいな」って思ったのが16歳ぐらいの時ですかね。丁度高校に入ったばかりで、中学校の時は柔道ばっかりで、柔道も大した成績も残せず、とりあえず高校で中途半端に過ごすくらいだったら音楽をやろうかなくらいの感じで、部活もやりつつバイトもやりつつでした。当時K2でライブする時は、普段がしょぼいのにステージ上がってデカい事言ってたら平気でジーマのビンとかタバコの吸い殻とかいろんなヤジがガンガン飛んできて、自分でプロモートして自分が歌ってた時も思いっきりボンボン投げられた時もあったし。(笑)

●渋谷UNITYでやってたDJゴングショーRAGGA CUPの初代チャンピオン。あれはいつごろ?

J:六年前ぐらいですかね。それでチャンスも掴めて優勝もできて、アルバムも出せてジャマイカも行けたもんだからちょっと自分の中でハイプしちゃって。ちょっと勘違いしちゃって。(笑)

●あはは、それは。

J:あの当時は結構「アルバムを出したし、俺はもう一流アーティストだ」くらいな感じで思ってたんですけど、やっぱ現実は甘くはなかったですね。

●アルバムを出してすぐRoad To(横浜レゲエ祭)に出たんだよね?じゃあちょっと調子つくよね。

J:もうめちゃくちゃ。それでしかも決勝戦までいって後一歩のところで負けたんです。ちょっと調子に乗っちゃってて、そこからが色々やってもRoad Toに勝てないし、音源を配信リリースしても自己プロモーションが全然出来てないので営業も減ってきて、こりゃまずいなと思ってる時に、たなけんが優勝し始めたりとかして、どんどん先を越されてきて、これで負けたらもう駄目だなと思った三回目でも更に負けて、絶望の淵に立たされてとことん病んで。その時は調子に乗ってた分の反動がデカ過ぎで、こりゃもう終わるなと思っていた時に、Road To今年もやりますみたいになって、じゃあこれが最後だと思って出てみようかなと、どうせ受かんないんだろうなと思ったら受かって、でも、その時は偶然受かったなと。それまでは結構かっこつけてたんですよ。

●今度は偶然受かったと思ったわけ?

J: 3回目迄は「当たり前でしょ」くらいに思ってたすけど、4回目は偶然受かったと思ってます。もう今迄かっこつけてたんで、見栄はってもしょうがないし、やっぱ俺が一番好きなのが、映像でしか見れてないんですけど89年のスティングとかが大好きで、動きから何からみんながみんな個性が強い、ああいう楽しい雰囲気が良いなと思ってカンフー・スーツ着てカンフーの歌を思いっきりディージェイしたんですよ。そしたらそれがもろにウケちゃって、決勝もそのままの勢いで優勝できたんですね。

●なるほど進化したんだ、いい話だ。

J:やっぱ昔があるから今があるというか、あの時に根性つけられたっていうか、逆にビン投げてた先輩とかは、今となってはめっちゃ応援してくれてますよ。

●その場所に育てられたんだね。今は、勘違いしてたって言えるだけ進歩したってことだ。

J:はい。(笑)だいぶ調子に乗っていましたね。

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Under The Radar

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Text by CB Ishii(石井洋介) Photo by Shin Okishima(沖嶋信)Except Monochrome

サンフランシスコのスケートシーンを語る上でHIGH SPEED PRODUCTIONS(THRASHER MAGAZINE)やDLX DISTRIBUTION(ANTI HERO, SPITFIRE,KROOKED,REAL)が欠かせないように、90年代のLAはGIRL DISTRIBUTION(GIRL,CHOCOLATE)をクリエイティブなカンパニーとして誰もが憧れた。そしてGIRL DISTRIBUTIONが作り出すスケート・ビデオのクオリティは高く、単なるトリック重視のスケート・ビデオではなく1本を通してストーリーのあるショートフィルムのような展開と常に新しい仕掛けがあった。それには今年のアカデミー賞脚本賞に輝いた『her』、さらには『マルコヴィッチの穴』『アダプテーション』などの監督である鬼才スパイク・ジョーンズが制作に携わっていたことに他ならない。ご存知の方も多いと思うがスパイク・ジョーンズ監督はスケーターであり、ハリウッド映画監督になる前はスケート・ビデオやマーク・ゴンザレスを起用したTVCM、MUSIC PVなどを制作していた。
 そのCHOCOLATEのプロスケーターとして長年活躍していたのがリチャード・マルダー。当時の彼ほど下半身がぶれずに完成度の高いトリックを次々に出してくる前衛的なスケーターは極少数で、タレント揃いのGIRL/CHOCOLATEの中でも際立っていたから人気も高かった。

 2004年、当時僕が住んでいたサンフランシスコにCHOCOLATEのライダーとしてリチャードがスケートデモにやって来て、初めて目にした彼の滑りにミーハー丸出しでツーショット写真をねだった記憶がある。スパイク・ジョーンズも同行していて彼とも写真を撮ったっけ。
 そして2009年になり、オーシャンサイドのトレードショウで雲から足が飛び出ているTシャツを着たリチャードに話しかけて、僕はHeel Bruiseと仕事をすることになった。

今回Stussy x Heel Bruiseによる写真展「Under The Radar」でリチャード・マルダー、トーマス・ユー、ロビー・ジェファースという気になる3人が揃って来日。今年に入って2回目のあの大雪の日にRiddim編集部でインタビュー。

●あなた達3人はどのようにして出会ったんでしょうか?

リチャード・マルダー(以下、R):トーマスは僕が14歳の時から知っている仲で一緒にスケートをして育ったんだ。トーマスは98年か99年に当時結成されたばかりのStussy Skate部門のグラフィックを担当していたんだよ。ロビーとはStussyを通じて出会いました。Stussyがスケートチームを結成した時にロビーが僕をライダーにしたいと声をかけてくれたんだ。

●トーマスはその当時はフルタイムでStussyで働いていたのですか?

トーマス・ユー(以下、T):そうだよ。Stussy Skateのデザインにフォーカスして働いていた。Stussyで初めて結成されたスケートチームにロビーとリチャードがいたから色々とアイデアをくれてやりやすかった。

●ロビーはStussy以外にNIKEでも仕事をしていたそうですが?

ロビー・ジェファース(以下、J):そう、同時期にNIKEとStussyで仕事をしていました。リチャードが言った様にStussyのスケートチームが98年に結成されたとして、2000年にはNIKEがNIKE SB(Skateboard)チームを立ち上げるから手伝ってくれないかとアプローチしてきたんだ。Stussyのオーナーのフランクがとても理解がある人で掛け持ちでやらせてくれたんだ。だから僕はStussyの社員でありながらNikeとは契約社員だった。だから両方出来たんだ。

●Heel Bruiseはどのようにスタートしたのでしょうか?みなさんのHeel Bruiseでのポジションを教えて下さい。

R:Heel Bruiseは正確には2008年の冬にスタートしたんだけど、ブランド・コンセプトとブランド・ネームが頭にパッと浮かんできて、それをトーマスに相談したら「クールだ!」って言ってくれたので、今度はロビーに言ってみたら「それはブランドネームとしては素晴らしいアイデアだよ! コンセプトも好きだ
と言ってくれた。先ずトーマスがロゴを作ってくれたから、さっそくTシャツを周りの友達に配ったりして自然と取り扱ってくれるショップが増えていったんだ。僕は自分が愛しているモノを表現出来るアウトレットが欲しいんだ。それはスケートボードとそれに付随した全ての輝いているものになるんだけどね。Heel Bruiseは僕らが何者であるかを表現していて“スケーターとして音楽にしろ何にしろ一緒に触れてきた物事”、それを具現化したかった。そこにはギミックは何もないんだ。僕は基本的に生産管理とか予算の事とかで、トーマスはHeel Bruiseのメイングラフィック・デザイナーであり、ブランド・ディレクターだね。ロビーはマーケティングを手伝ってくれたり、ビデオや写真などで素材を提供してくれているよ。

J:自分がブランドネームを思いついたわけじゃないからこれだけは、はっきり言えるんだけど、Heel Bruiseというブランドネームは天才的アイディアだよ。夢中で大好きなスケートをしているとHeel Bruise(カカトの打撲傷)は、誰にでも覚えがある事だよね。Heel Bruiseというのはスケートボードの象徴とも言える。このネーミングに反応したスケーターが「何それ?Heel Bruiseって何?って聞いてくるしね。本当に良い名前だよ。だからリチャードが僕に「どう思う?」って聞いてきた時はスゴいネーミングだと思ったよ。

●では今回Stussyとコラボしている「Under The Radar」という写真展が、東京、大阪、福岡で開催されますが、これはどのように始まったのですか?

R:フォトグラファーのNick Josephに写真展をやりたいと話したところから始まったよ。僕らはまだ小さいブランドだから、ちょっと写真展をやるにはキツいかなと思って、まあ最終的には結局色々と大変なんだということを経験したんだけど(笑)。「Under The Radar」は写真を撮っているけどまだ名前の知られていない人の写真を展示するのが目的で始めたんだ。一回目は2011年にラスベガスでやって大成功だったんだ。Stussyにこの企画を一緒にやらないかと持ちかけたら承諾してくれてね。それ以来ずっと続いて、今はこうして東京で5回目をやれたわけだね。

●フォトグラファーの選出はどのように決めているんですか?今回もレイ・バービーをはじめ日本からも平野太呂さんとか沖嶋信さんとか、魅力的なラインナップですよね。

R:それはStussyとHeel Bruiseのみんなで決めて、全てが上手くブレンドされてコンセプトに沿ったものが展示される様にしている。

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Bitty McLean the new from the past

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Text by Shizuo Ishii(石井志津男)

 ビティ・マクリーンと初めて会ったのが90年代の中頃。バーミンガムのUB40のスタジオを借りて、エンジニアのジェリー・パーチメントやベースのアール・ファルコナー達のプロデュースでThriller Uのレコーディングをしていた時に、コーラスで参加してくれたのがビティだった。それからはアルバムを日本で出さないかと電話をくれたり、キングストンのMixing Labスタジオでバッタリ会ったりなんてこともあったが、その後ちょっと疎遠になっていた。

だが2004年、突然『On Bond Street』をレコード店で見つけてどうしても出したいと思って電話したが、その番号は既に使われていなかった。結局Peckings Recordsのクリス経由でビティと久々に話し『On Bond Street』を発売した。その後も、代官山UNITでLive をやったり、MOOMINの曲に2度もプロデュースを頼んだ。スライ&ロビーと来日してCotton Club でやった素晴らしいLiveもチェックした。2年前にはオフィスにも来てくれた。

そうだ、『Ruffn’ Tuff』のサントラには全英チャートで3位になった記念すべきデビュー・シングル曲「It Keeps Rainin’」を使用させてもらったり、3.11のチャリティー・チューン「This Moment」にも喜んで参加してくれた。こう考えると彼との関係もかなり深い。20年近いつきあいの中で、彼の音楽同様いつもビティの人柄の良さを確認してきた。

では来日直前、ビティにSkypeでインタヴュー。

●この3ヶ月くらいは、ほとんど毎日メールをやり取りしているけど、今日はSkypeだね。

B:だから今日は髪の毛を切ったよ(笑)。

●おー、いいね!! 久しぶり。じゃあ、さっそくインタヴューするね。先ずSilent Riverっていうのはビティのレーベルなの?

Bitty McLean (以下、B):Silent Riverはプロダクションとレーベルの名前なのかな。2006年からスライ&ロビーと一緒に曲を作る様になって彼らのTaxiレーベル、僕のレーベルがSilent Riverって感じだからプロダクションの名前だね。

●それはゲイレッツの曲の「Silent River」から来ているの?

B:あっ、それは違うんだ。その曲ならもちろん知ってるよ。ジュディ・モワットがいたグループだよね。僕の息子の名前が、実はナイル川から取ってナイルっていうんだけど、それでSilent Riverにしたんだよ。

●名盤『On Bond Street』について聞きますが、これは今は存在しないトミー・マクック&スーパーソニックスの演奏にビティが歌っていますが、どのようにしてレコーディングをしましたか?これらのトラックは、マルチ・テープから?それともアナログ盤から?

B:いやいや、マルチ・トラックじゃないよ。ほとんどは7インチのレコードからで、僕は18歳の時からTresure IsleのCDを集めていたし、僕の父は、バーミンガムでサウンド・システムを持っていたから、いくつかは父のコレクションの中から使うことができたんだ。例えばJoya Landisの「Moonlight Lover」、Alton Ellisの「Rocksteady」とかはレコードだよ。レコードとCDからで、テープはないよ。それらをサンプリングして、編集して、ループさせて、リディムをくっつけて、オルガンやホーンをオーバーダブしてフローが出るようにしたんだ。

●それでは、今度のアルバム『Taxi Sessions』と前の『Movin’ On』はスライ&ロビーとの仕事ですが、このきっかけは?

B:この2枚を出すずっと前の1995年なんだけど、ジャマイカでレコーディングをしたことがあったんだ。『On Bond Street』がヒットしてからというもの、僕の名前もスライ&ロビーに知られる様になって、しばらく会ってなかったけどまた僕と仕事をしたいと言ってきてくれたんだ。たしか2006年にはPeckingsとも仕事をしなくなってきていて、やらなければならない全ての問題も終わった時だったから、それでスライ&ロビーと仕事をすることにしたんだ。スライがデニス・ブラウンの「Hold On To What You’ve Got」のリディムを送ってきてくれて、僕が「The Real Thing」のボイシングを入れてって感じでね。

スライ&ロビーは、それからもリディムを送ってきてくれるようになって、一緒に録る様になったってわけさ。2008年には、ジャマイカにも行ってレコーディングをしてそれが収録されたのが2009年に出たアルバム『Movin’ On』というわけだ。2010年になって、またジャマイカに行って新しいリディム・トラックでレコーディングをした。だから2009年からスライ&ロビーとずっとレコーディングし続けてきたコレクションを去年の9月にリリースしたって感じだね。それが『Taxi Sessions』になるんだけどね。

●今回でスライ&ロビーとのアルバムは2枚目だね。

B:そうだけど、またアルバムを出す予定でスライ&ロビーと3枚目のアルバム制作にとりかかっているんだ。

●いつもどのようにレコーディングしているのかな?

B:『Movin’ On』のアルバムには80年代のスライ&ロビーのリディム・トラックを混ぜたんだ。「The Real Thing」、「Plead My Cause」、「Let Them Talk」、「Daddy’s Home」、「One Of A Kind」などはスライ&ロビーの80年代のクラシックなリディムトラックで、グレゴリー・アイザックスやジュニア・デルガド、デニス・ブラウン等も歌っていたトラック。これらは80年代のラバダブ・ミュージックの観点からみて僕はとても重要だと思っていて、単純に新しいアルバムを作るよりはオールドスクールな80年代のスライ&ロビーのクラシック・リディムを使って、そこに新しい歌をレコーディングするというミックスした物をやろうと思ったんだ。そうは言ってもジャマイカに行った時には、全て新しいリディムで新しい歌をセッションしながら録ってるんだけどね。

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J Rocc

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Interview by CB Ishii(石井洋介) Photo by Shizuo”EC”Ishii

J Roccが「STONES THROW & STUSSY present J. ROCC JAPAN TOUR 2014」でやって来た。東京、名古屋、仙台でプレイしたが、45を DJ MUROと二人でかけまくった東京の MICROCOSMOSでのプレイは大好評。 ECはしっかりチェックしていたが、、、僕は何度も見ているJ Roccのプレイということもあり、つい油断して見逃してしまって残念。そんな僕のようにミスったファンのために、その夜のプレイと最近のJの動きを聞いてみた。

●ECは昨夜のプレイがとても楽しかったようです。

J Rocc(以下、J):そう!昨日はアツい夜だったよね。EC、来てくれてありがとう。すごく良い雰囲気で終了出来た。僕はMUROとあんな感じでプレイしたことがなかったからとてもドープだった。僕が今、日本に居るから言っているわけじゃない、僕は1人のDJとしてずっとMUROを尊敬してきているし、日本に来る度にMUROはキーパーソンだと感じる。彼とあの様な形でDJ出来たりハングアウトしたりするのはとても光栄だよ。昨夜は本当に最高だった。だからCBも本当に来るべきだったよ!

●ウッ、、、。昨夜は全てヴァイナル(45)のプレイだったそうですが、やはりヴァイナルにはこだわりがありますか?

J:もちろんだよ。今でもヴァイナルは買うし、いつもヴァイナルと一緒に居るよ。このインタビューが終われば、またレコード・ショップに直行だよ。止まる事はないよ、いつもだよ。

●ECが昨夜見ていて、一緒にやっているMUROさんがホントに楽しそうに見えたそうです。あなたはどうでしたか?

J:もちろん!楽しかったよ! もの凄く楽しかった! 2人で一緒にやる事でとても良いヴァイブスが生まれたね。僕らは2人で5曲ずつぐらいを交互にかけたり、MUROが3曲かけたら僕も3曲かける、、みたいなルーティンでやったんだ。それも実はプランなんて無しにね。プレイの最初は決まった時間通りにやっていたんだけど、途中からはお互いが楽しむ様になっちゃって笑いながらプレイしてたね。言葉の壁も越えて「MURO、準備は良い?」って聞くと「もちろん、もう準備出来てるよ! これいきたいんだよ!」って具合にね。フリースタイルだよ。前日に僕が持ってきた45をMUROに見せてはいたんだけどね、全然あんな風にプレイする計画は立ててなかったからね。たぶん彼は僕が持ってきた45を見てアイデアを膨らまして、僕が持ってきた45の音楽に近いモノを持ってきたと思うけどね。だからプレイ中にお互いのレコードを見て「あッ! それはかけないで!」って言ったり、彼がプレイした45で僕も同じ物を持っていたりした時は、それを見せて「Wow! 君も持ってきてたんだ!!」ってお互いに笑ったりね。だから純粋に楽しんだっていうのが正しいね、ホント楽しかった!

●そういうプレイはたまにするんですか?

J:うん、LAとかではたまにやるね。Peanut Butter Wolf、Dam-Funk、Mayer Hawthorne、 Madlib、Rhettmatic、、みんなだよ、たぶんこれはLAスタイルなんだと思うよ。 よく一緒にDJしようってなってね。

●それはLAだけで?

J:う~ん、ヴァイナルならそうだね。セラートでもやるんだけど、それは「Back to Back」と呼ばれていて、例えばロンドンなら仲の良いDJと同じ様な事をやる時もあってそれも楽しいけど、それらはもっと大きなフェスやパーティー向きって感じだね、、もちろん笑いながら楽しい時間ではあるんだけど、でもちょっと違うんだよね。コンピューターを見ながらタイプして曲を探して、BPMを合わせて、、ってのはね。だけどヴァイナルはもっと本質的なモノだから。だからヴァイナルのDJとコンピューターでDJをするのはフィーリングが違うよ。ヴァイナルは自分が持ってきた物しかかけられないからその中で調整していかなきゃいけないけど、コンピューターだったら何でも入ってるしね。僕と彼だって同じ曲が沢山入ってるはずだよ。とても面白い経験だよ。あんな感じで他のDJとプレイするのはとても楽しかった。もちろん僕だけのセットの時間もあるわけだけど、ああやって交替しながらやるのはとても面白いね。良い曲だけをかけなきゃっていうプレッシャーも少しだけ和らぐし、「僕はその曲のリミックスを持ってるぜ」なんて会話しながらヴァイブスを上げつつ出来るからね。

●MUROはどんなDJですか?

J:King of Digginだよ。さっきも言ったけど日本に来る様になってから彼の事はとてもリスペクトしているし、「MURO is Dope」これに尽きるね。彼がアメリカに居ても同じ事を言ってるよ。日本のDJと言ったら彼なのは間違いないしKingだよ。ミックステープも何枚も出しているし、そこら辺のノーマルなDJではなく、Mighty CrownやMuroというのは誰でも仲良くしたい本物のDJだよ。だから本当に彼とDJ出来たのは光栄だよ。

●それでは自分自身はどう思いますか?

J:分からないな(笑)。僕はHip Hop, Reggae, House, DiscoをまわすオールラウンドDJかな。僕は自分がベストなDJだとは思っていないし、常にどこかには自分より上がいるものだよ。誰がベストかどうかも分からないし、僕がベストだとは思わない。ひょっとしたらどこかにとんでもないスキルを持ったDJのキッズがいるかもしれない。敢えて自分のことを言うのであれば僕は楽しい雰囲気を作れるDJだと思う。僕はお客さんが楽しい時間を過ごしてダンスしているのを見るのが大好きだしね。もちろん僕をじっと見ながら首を振っているのも良いんだけど、むしろダンスしているみんなを見る方が好きかな。

●君たちがタマっていたLAのFat Beats Recordsがなくなってからはどこでレコードを買ってるのですか?

J:LAにはまだレコードショップが沢山あるよ、Amoeba, Freakbeat Rockaway, Factory Records, Poobahとかね。 Fat Beatsがなくなってしまったのは実に悲しいけど、まだまだ沢山在るし、どこのショップも強みがあるからね。Amoebaでは新譜を見たりとか、他では12インチを漁ったりとかね。だから大丈夫だよ。ただFat BeatsがなくなってからはHip Hopのレコードを以前の様には漁らなくなったけどね。96年から2004年あたりまでかな?RawkusやCompany Flowが活躍していた時代の様なレーベルもそこまではない感じだしね。もちろん今も少しはあるけど96年から2004年くらいまでの時代とはあきらかに違うよね。あと僕はオンラインではあまりレコードは買わないね。オンラインでサーチしないから沢山の良いレコードを逃してるんだけど、やはりレコード・ショップで買ってるね。僕はオンラインでのクレジットカード決済もあまり信用してないしね。世界中を飛び回っている事が多いからどうしても公共のWiFiを使う事も多いし個人情報の漏洩が怖いから。レコード・ショップには最低でも週に1回は行くね。

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J. Grant Brittain

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Interview by CB Ishii (石井洋介) Photo by J. Grant Brittain

J. Grant Brittain has been a photographer since picking up a camera in 1979 and pointing it at some of the world’s best skateboarders. He helped found Transworld Skateboarding Magazine in 1983 and was the sole photo editor there until 2003. In 2003, Grant and a few of his buddies jumped ship and started The Skateboard Mag where he remains today. When not shooting skateboarding, Grant is creating photographic art with subjects ranging from portraits to nature, the environment, abstracts, signage and night photography

●生まれた所、生まれた年は?

J. Grant Brittain(以下、G): 1955年生まれで今年59歳になるよ。ビーチまで20マイルのFallbrookというアボガドとシトラス・オレンジで有名な街で生まれた。農園コミュニティーだね。10歳のクリスマスの時に母がBBガン、トランシーバー、スケートボードの豪華3点セットをくれたのがスケートボードを始めたきっかけだ。

●スケートボードの写真を撮り始めたのは?

G:小さい頃からアートが大好きで、学生時代も2年間アートを専攻していたんだ。カートゥーンが好きだったから僕はカートゥニストになろうと思ってた。エンシニータス(南カリフォルニア)に住んでいた学生時代に、隣に住んでいたのがCastor SkateboardのライダーだったTom”Wally”Inouyeで、彼がDEL MAR SKATE RANCHのパーク設計を手伝っていた関係で、僕の誕生日パーティーにデッキとそのパークで働ける仕事の話しを持ってきてくれた。Tomは70年代~80年代初めまで活躍していたベスト・スケーターの1人だよ。ネットで検索してみると出てくるよ。78年8月にDEL MAR SKATE RANCHで働き始めると、そこで沢山のスケーターやフォトグラファーを見かけるようになり、上手いスケーターの写真を撮ってそれが雑誌に載るなんてクールだなって興味を持ち始めたのがきっかけかな。79年2月にルームメートからCanon AE-1のカメラを借りて撮ったんだ。だから最初は遊びで撮ってたんだけど、次に住んだルームメートがSonny Millerというサーフとスケートを撮っているファトグラファーで、僕と同じカレッジに通っていたんだ。彼はフォトグラフィーを専攻していたから「どれか撮った写真を現像してみれば?」って言ってくれて、それまで現像なんて1度もした事がなくてネガだけしか持っていなかったんだ。ルーペも何も持ってなくてただ太陽の光を当てて見る事しかしてなかったから暗室に入って現像して、出てきた写真を見た時はショックで「ウォー!!これが僕のやりたい事だ!」って叫んじゃった。確信したんだよ。そこからはアートのクラスを一気に全部キャンセルして、写真のクラスを3つ取ったんだ。それからは毎日暗室が使える朝から夕方まで籠って、そこからスケートパークへ働きに行ってた。当時は夜中に不審な奴が侵入してきてプロショップに強盗が入る事もあったから、家賃も浮くし8ヵ月間スケートパークのビリヤード台で寝泊まりしていたこともあったよ(笑) 。写真にハマッてローカルを撮り続けて、トニー・ホークがこんなに小さい時から撮ったし、DEL MARに来るプロもアマも撮った。趣味で始めたんだけど、完全に引き込まれてしまったんだ。

●当時のカメラマンや雑誌はなんですか?

G:当時の僕はStecyk, Friedman, Cassimus, Terrebonne, Goodrich, Bolster等の70年代のフォトグラファーに憧れていたよ。「ポートレートを撮れるか?」って聞かれたら「NO」って言いたくなかった。「ブツ撮り出来る?」って言われたら「もちろん!」って答えたかった。だから何でも撮れるように授業は全て取ったんだ。僕は自分に限界を作りたくない。あれ?質問なんだっけ?

●その頃のカメラマンは?雑誌は?です。

G:そうだそうだ(笑)さっき挙げた人達とあとはMOFO, それから数年するとBryce Kanights, Chris Ortizとかが出てきたかな。僕はサンディエゴを中心に撮っていたからね。当時Thrasher Magazineがスタートして、、たぶん5,6枚掲載してもらったかな。「Tony Hawkの写真が欲しい」って言われたりして送ったよ。それで83年にはTransworld Skatebording誌がスタートして僕はそこに携わった。

●ビデオ「Animal Chin」は世界的にみてスケートをポピュラーにする画期的な作品だったと思います。僕も子供の頃何度も観ました。あの映画のカメラマンをやったのですか?それともたまたま撮りに行ったのでしょうか?

G:さっきの話しの続きになるけどTransworldはLarry BalmaというTracker Trucksのオーナーが友人と共同で始めたんだ。僕は83年にTransworldが立ち上がるまではまだDEAL MARパークで働いていたんだけどLarryが「”Newsletter”を始めるのに写真が必要だから手伝ってくれないか?」と聞いてきた。僕は承諾したんだけど”Newsletter”というのは実は暗号でTransworldのことだったんだよね。そんな関係で「Animal Chin」は86年に撮影したんだけど、Stacy PeraltaはThrasherのMOFOにはPink MotelやハワイのWallowsの撮影をさせて、Transworldの僕にはAnimal Chin Rampを撮影させたんだ。そうすることで監督のStacyは 「Animal Chin」が色々なメディアに掲載されるように振り分けたんだ。僕はAnimal Chin Rampで4人を同時に撮影する事が出来たから幸運だったと思うよ。

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