text by Minako Ikeshiro (池城美菜子)
最新作『MyWay』を引っさげて、ウェイン・ワンダーが3年振りに日本にやって来る。スレンダーな長身からくり出す甘い歌声。90年代前半のペントハウス全盛期で名を挙げ、後半は盟友デイヴ・ケリーとマッドハウスでダンスホールの流行を塗り替え、2002年にモンスター・リディム<ディワリ>の代表曲“No Letting Go”で一躍インターナショナルなレゲエ・スターに。その後もコンスタントにヒット曲とアルバムを放ち、いまや世代や国籍を問わず、みんなに親しまれるアーティストとして安定した人気を誇る。その軌跡と素顔に迫る90分インタヴュー。
●以前、日曜日のオールディーズ・ダンスで有名なレイ・タウンで育ったのが、音楽的に影響を受けたと言っていましたよね。
Wayne Wonder (以下、W):俺の出発点だね。外に行かなくても全部曲が聞こえるくらい近くに住んでいたから、物心がついた頃は玄関先に座ってずっと聴いてたよ。
●あなたがメロディー重視の曲が得意なのは、スタジオ・ワンやモータウンがよくかかるあのダンスを聞いて育ったからでしょうか?
W:それは絶対あるだろうね。新しいアルバムを取り組む度に機材やシンセサイザーをアップグレードして、昔とは違う音が出て来るけれど、コアにあるのはオーセンシティ、そこは変わらない。俺はボーカリストだから、これはR&B、これはダンスホール、これはレゲエ、という風に分けて歌ったりしない。その曲のムードを重視して歌うだけだよ。
●子供の頃のお気に入りのシンガーは?
W:ヘプトーンズが好きだった。ボブ・マーリー&ウェイラーズ、ボブ・アンディ、デルロイ・ウィルソン、ジュニア・バイルズ、バリー・ブラウン、ベレス・ハモンド…、ダディ・U ロイやランキン・ジョーもよく聴いて、自分でもDJができるようになった。リサーチするタイプだから、ファンデーション系のDJはカセットで、(レゲエの)ヒストリーを追うような聞き方した。
●デルロイ・ウィルソンとジュニア・バイルズはとくに納得が行きます。どちらもソウルフルで、泣きのメロディーが得意という点が、あなたに似ています。
W:デルロイ・ウィルソンは特別な存在だ。ペントハウスで実際に 会った時に、“あなたの歌を聴いて育ったからカヴァーしたいと伝えたら、本人が “ 君は歌えるから大丈夫だ”って<Movie Star>(注: 元曲は“I Don’t Know Why”)を歌ったらいい”と言ってくれたんだよ。ブジュ(・バントン)のパートが加わったのが、“Bonafide Love”だ。
●80年代の修業時代は、メトロ・メディアで歌っていたんですよね?
W:88年の頭から水曜日の夜にメトロ・メディアのダンスに行って、マイクを握るようになった。当時はサウンド・システムで自分を鍛えてからスタジオに入るのがふつうだった 。
●ニンジャマンはキラマンジャロ、とか当時はサウンド・システムにアーティストが所属していたんですよね? その場合、ほかのサウンドでは歌いたかったら、ピーター・メトロの許可を取らないといけなかったのですか?
W:許可とまでは言わないけど、ほかのサウンドで歌うのはメトロ・メディアのダンスがないときだったね。 ステレオ・マーズが俺を使いたかったら、 もっと払わないとダメだったし。
●最初のレコーディングがキング・タビーというのはスゴいですね。
W:ダブ・オーガナイザーのやり方はユニークだったね。スタジオでしばらくウロウロしていたら、ある時、肩に手を置いて“ユース、明日の朝、8時に来い”って言われた。レコーディングもファンデーションのやり方で、ミスしたら頭からやり直しだったから、勉強になったよ。かけがえのない体験をさせてもらったと思っている。
●キング・タビーは早く亡くなってしまって残念です。
W:売れた後のウェイン・ワンダーを見せられなかったのは、心残りだよ。最初の45を切ってくれたのは本当にデカい。夢が叶ったのが嬉しくて、どこに行くにも25枚入りの箱を持って行った。キング・タビーに紹介してくれたのは、シンギング・メロディーだ。
●90年代に入ると、20代前半だったトニー&デイヴ・ケリー兄弟と多くのヒット曲を作りました。元々、友達だったそうですね?
W:デイヴは音楽関係なしに10歳からの知り合いなんだ。トニーとも地元やサウンド・システムで会っていたから、すぐに仲良くなった。
●ブジュ・バントンとの出会いについて教えて下さい。
W:彼とはウィンストン・ライリーのレコード屋で会った。 (サウンドの)シンジケートが“Stamina Daddy”をもうかけていたから、名前は知っていた。声をかけたら俺と一緒にダンスに行きたいと言い出して。その夜、リッチー・Bのダンスにアパッチ・スクラッチとかと出るとき、クラレンドンの奴の家まで迎えに行った。そのときからずっと仲良しだ。
●ブジュ本人もあなたに面倒を見てもらったと言っていました。
W:俺だけではなく、レッド・ローズやバニー・リーもブジュがスタートしたときに力を貸しているけどね。俺はスタジオに連れて行ったり、91年のスティングでステージに呼んだりしたし、キングストン東部出身だから、その辺りでのショウでは必ず紹介した。ほとんどのスタジオは西部にあったから、東部で顔を知られるのは大事だった。
●91年には一緒にジャパンスプラッシュで初来日を果たしています。
W:俺、ブジュ、カティ・ランキン(ランクス)、トニー・レベル、デイヴとトニー。みんなで行ったよね。
●あなたはヒット曲もあって知られていましたが、ブジュは契約の段階では無名で、来日直前にジャマイカで火がついて面白かったです。みんな、仲がよさそうでした。
W:うちは母さんと弟がアメリカに移住して、ジャマイカには俺一人だったから、フランキー・スライとブジュは俺にとって弟みたいなもんだった。デイヴとトニーも兄弟、ジャーメインは父親のような存在だった。
●ペントハウスの名曲の中で、思い入れがあるのは?
W:“Saddest Day”は高校のときに書いた実話だ。休暇が終わって新学期に学校に行ったら、彼女に“この関係は発展しないと思う”って振られたんだ。
●ペントハウス・クルーは音楽だけでなく、髪型や服装も流行らせましたよね。ぶかぶかのビギーの服とか。
W:あれを有名にしたのはシャバ(・ランクス)だよ。シャバはビッグスターで、イケていたから、俺らも素直にマネしていた(笑)。外見から振る舞いまで、初期のブジュ・バントンはシャバの影響を受けている。まぁ、引き込んだのは俺だけど。当時はまだ、ブジュは俺の言うことをよく聞いていたから。
●90年代が進むとあれほどヒット曲があったカヴァーをあなたは一切止めました。その際、ドノヴァン・ジャーメインに相談、もしくは宣言したのでしょうか?
W:いや、それはしなかったな。シンガーとして知られて来て、海外によく行くようになってから、ほかのジャンルのアーティストの曲を歌うのはおかしい、と思うようになった。同じステージに立つことだってあるんだし。高校のときから曲は書いていたから、 曲の構成から考えて音楽作りをするようにした。ベレス(・ハモンド)が“外国の曲と同じくらい(上手に)、自分の曲を歌えるじゃないか”って言ってくれて、励みになったね。
●分かりますが、R&Bやカントリーの曲をカヴァーするのはレゲエ・カルチャーの一部ですよね?
W:オリジナリティが大事だよ。それをずっと続けていたから、ビルボードのチャートに入るような曲ができて、グラミー賞のノミネートももらえたと思っている。