Text by有太マン Photo by RealShot MASATO
日本語ラップにおける「BUDDHA BRAND」の名の、受け取り方に多様性はあれ(10/17放送のテレビ朝日・アメトーーク!「ラップ大好き芸人」参照)、その存在の大きさを認めない人間はいないだろう。
フロントマンだったDEV LARGEの逝去が伝えられたのは2015年。その衝撃から4年が経ち、いまだ人々の心から消えないうちに、新アルバムが発売される。
タイトルは『これがブッダブランド!!』。
今回いただいたのはラッパーのお2人、函館に移住したデミさんことNIPPS、蒲田在住のクリさんことCQが揃う貴重な機会。そこに、コン(またはヒデ)さんことDEV LARGEのNY時代からの盟友であり、ブッダよりデビューが早かったことでライバル視もされていたクボタタケシさんに同席いただき、画期的な鼎談が実現した。
●僕自身が最初に『人間発電所』を聴いたのが、渋谷Organ Barオープン直後頃、クボタくんと毎週金曜日にDJをやらせてもらっていた時でした。当時コン(デブラージ)さんがたまに顔を出して、プロモをクボタくんに渡し、それを聴かせてもらって「超ヤバい、、!」みたいな。
NIPPS(以下、N):サイコーです。
クボタタケシ(以下、クボタ):今回いきなり連絡あって、ビックリしたよね。また「誰か何かあったのか?」って。
CQ(以下、C):たぶんデブラージは、すごいライバル視してたね。「先にCD出しやがった!」みたいな。
●「キミドリ」ですね。
C:それでたぶん、ムキになってデモテープを送りつけてたでしょう?(笑)
クボタ:手描きのデモテープ。本当のデモね。それで、オレはそういうテープを石田(ECD)さんとかみんなに渡して。
N:そうだー。
C:最初はじゃあ、クボタ「さん」が(笑)。
●そこでまず、ブッダの新しいアルバムがかたちになった背景やエピソード、経緯を伺えたらと思います。収録曲は、すでに完成品としてあったものを再発掘したり、いろいろな理由で未発表だったりしたものということで間違いないでしょうか?
N:それもあるし、掘り起こしたり、新しくボーカルを入れた曲もある。あとは、前に録っててリリースしなかったものを入れたり、本当に昔の昔、最初の頃に「やろう、やろう」と言っててやらなかった曲を遂にやって入れたり。
C:整理をして、出てきたという感じかな。それは、エンジニアの人にお金を払ってなかったり、そういうこともイロイロあったのを整理して見つけてきたというか。
自分的には「世に出なくてもいいや」、「恥ずかしい」と思ってた方だから、でも「せっかくあるやつはみんなに発表してみようか」ということになって。
クボタ:出るっていうのは、もともと決まってたの?
N:全然決まってなかったよ。ただ、なんか「やらない?」って話になって、「何やるの」みたいなことになった時に、未発表曲が出てきて「これ寝かしておくのももったいないから、かたちにした方がいいんじゃない?」みたいな。タイミングもよかったし。
クボタ:コンは、出さない理由はあったの?
N:そんなことはない。出す予定だったやつも、結局(身体が)具合悪くなっちゃったりとか、オレと連絡つかないとか。
C:溜まってから出そうと思ってたんだろうけど、途中ですぐ次の曲っていう風にいかなくなって、身体も弱ってきて、制作しなくなって、それでいなくなっちゃったという。本当はもっとちゃんとしたというか、10何曲入ってる、今回みたいな6曲入りじゃあたぶん出さないだろうし、病気したり、延びて延びて。だからこれも、6曲以上無理してつくって出してもしょうがないという判断で。
トラックなんかは他にもいっぱいあるんです。
N:あるある。残ってる。
C:でもそれを、何の相談もなく勝手に出すのはデブラージに悪いので、「やろう」と思ってたやつだけをまとめたんです。
●では、お2人にしてみると「懐かしい」みたいな感じですか?
N:というより、忘れてたよね。「こんなのあったんだね」みたいな。
●ディスコ大ネタの曲とか、ダンスフロアでのスマッシュヒットを予見して、満を持して出そうとしていたんだろうなという気がしました。
C:あいつ、昔からディスコも意外と好きだったよね。
N:一番最初につくった曲もやっぱりディスコをサンプリングしてたもん。
C:初期のデモテープでは、『Saturday Night Fever』とか使ってたし。すごい初期、出ないで終わったけど。
N:あれも出なかったね。
●サンプル許可が難しいとか、、?
N:それよりも、そもそも曲がそんなに仕上がってなかったよね。つくりはじめの頃で、生々しいと言えば生々しいというか。その後につくる音とは、ちょっとサウンドが違うというか、時代も違うし。アーリー80’sだからね。
●お2人とクボタくんはNY時代から交流あったんですか?
クボタ:ないない。でも、コンとは88年から、あいつがNYでオレがニュージャージーにいて、一緒にレコード屋行ったり、あいつの家に遊びに行ったりして。そしたら自作の、ビッグ・ダディ・ケインをずっとループしたビデオを観せられて。
N:(笑)
C:ええ、知らない(笑)。
クボタ:ケインが大きくなったり、小さくなったり(笑)。それはまだ、あいつがやり出す前だから。
C:すごい髪型してた?
クボタ:KID ’N’ PLAYみたいな髪型してたよ(笑)。こういう、何て言うんだっけ、、
N:ハイトップフェイド。その前はロン毛でね(笑)。
クボタ:それはメタル好きだから(笑)。
N:ハンク・ショック・リーが大好きだった。ボム・スクワッド。
クボタ:いつも自分でおにぎりつくって、マンハッタン来て、レコード屋行って。「そこのチャイニーズ行こうよ」って言っても、その頃から身体気をつけてたのかな?
C:お金持ってないだけでしょ(笑)。
N:いつも水筒持ってたもん。
クボタ:持ってた、持ってた。
●コンさんとクボタくんとの、本当に最初の出会いのきっかけというのは何なんですか?
クボタ:出会ったのは1988年。オレの10代初めニュージャージー時代の親友が、コンと同じ茅ヶ崎の高校の同級生。そいつが「ヒップホップがすごい好きな面白いやついるよ」ということで紹介してくれて。それであいつの親もウチの親もNYに住んでて、いや、コンは高校卒業してもう戻ってたのか。で、里帰り的な感じでNYに帰ったりした時に会って、「パブリックエナミー出た」だの「ウルトラマグネティック出た」だので一緒にレコード屋まわって。
●そこの出会いと、お2人との出会いはまたちょっと違うんですね。
クボタ:あいつとオレは同級生だけど、2人は上だもんね。
N:あんまり関係なかったけど。最初から下も上もないって感じで。
●デミさん(NIPPS)はいつからNYにいらしたんですか?
N:オレは生まれて8ヶ月からあっちに小学校5年までいて、その頃日本に戻って中学2、3年やって次はカナダに行って、カナダから戻って就職したんだけど、2年くらいやったんだけどまたNYに行っちゃった。
NYに戻ったのが85年なんだけど、その前に渋谷に「ヒップホップ」って店があって、当時そこでやってたDJ YUTAKAが好きで、Tool’s BarのYUTAKAの日とかレゲエの日とかも行って、オレはわりと何でも聴くから。
それでヒップホップにいた時に、「これからバブルで有明とかにクラブできる」とかいう時期だったんだけど、そこで「お前も来て欲しい」とか言われても、なんか「つまらなそうだな」って。日本がつまらなくなってきちゃってて、「今20歳でNY戻ったらどんな感じなんだろうか」と思って、何か見つけに行こうって戻ったんだよね。
●85年のNYと言えばカルチャーの黄金期です。
N:でも実は81、2年もちょっとだけいるんだよ。当時はまだ、ヒップホップというジャンルがまだまだ、白人のバイヤーがいるレコード屋にヒップホップとかラップというジャンルそのものがなかったよね。専門店に行かないと、バイヤーがまだ手を出してなかった。
ラジオもすごい分散されてて、白人が後で買収したような感じのラジオ局ではなく、ブラック・ラジオではチャック・チルアウトやレッド・アラートが、本当に良かれと思ってかける曲だけをかけて、逆に言えば変な曲がかかってなかった。