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Jah Cure Commanding Voice

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Text by CB Ishii(石井洋介) Photo by lili Peterson

Jah Cure、若くして類いまれな才能を持つレゲエシンガー。銃器不法所持と強盗、レイプなど4つの罪で逮捕されたが否認、15年の刑期を言い渡されるも留置場に繋がれながらシングル・ヒットを連発。去年は2PACとの共演曲など話題の尽きない彼が、初来日して日本各地でLiveを行った。しかも新たにマネージャーとなったのが、90年代初頭にSuper CatをメジャーのColumbia Recordsで成功させ、Shaggyの『Hot Shot』を1000万枚以上売って文字通り世界制覇を成し遂げたロバート・リビングストンだというのも、とても気になるところだ。となれば、Riddim編集部に誘い込んでジャマイカ・ローカルの話をじっくりと聞いてみた。Cureの語る年号などが巷でいわれるものと少し異なるのだが、当時は彼が刑務所生活であったことを考慮して戴きたい。

●簡単にあなたの生い立ちについて教えて下さい。

Jah Cure(以下J):育ったのはモンテゴベイにある小さなコミュニティ、ハノーバーだ。“レゲエ・サンスプラッシュ”はモンテゴベイのJarrett Parkでスタートしたから、沢山のアーティストを観たし、彼らの音楽から影響を受けた。途中から“レゲエ・サンスプラッシュ”は、ボブ・マーリー・センターに場所が移るんだけどね。俺はまだ子供だったからパーティには行かせてもらえなかったね。でもママの目を盗んでこっそりと抜け出して観に行ったりしてたんだ。背が小さくてよく見えなかったからポリスマンが俺を持ち上げて「お前、ベッドで寝てる時間だろ」って見せてくれたりしたよ。その頃Electro Forceというモンテゴベイのサウンドシステムを好きになって、もう一つがモンテゴベイのTikka Soundのプレイする曲にも影響を受けたんだ。レゲエの力強いヴァイブスにすごくインスパイアされて、家をこっそり抜け出してはよくパーティへ行って歌ってたんだ。ある夜、ママは俺がベッドにいないのに気づいて、探しに出たらサウンドシステムから聞こえてきた歌声が俺だったなんてこともあった。

そこでは歌のコンテストが行われていて、まだ12歳だった俺がたまたまそこで優勝したんだ。次の日は貰った賞品のフード・バスケットを家族みんなで食べたんだよ。その時に俺は、将来シンガーとしていつの日かやっていけるんじゃないかって意識を持ち始めて、ママは俺がキングストンに出るのをOKしたんだ。

キングストンには父が住んでいて、その家に住み始めた時にもうモンテゴベイには戻らないと決めたんだ。その頃は。はっきりと音楽が好きだと実感できていたし、キングストンの方が音楽が更に身近にあったんだ。当時、父はギャングスタとつるんでいてほとんど家にいなかった。その頃の若手シンガーと言えばGhostかスパニッシュタウンのLikkle Crissっていう2人で、俺も刺激を受けてどうしてもキングストンに住もうと苦労していた。その頃知り合ったヤツがCapletonととても仲が良かったからタバーンというエリアへ連れて行ってくれてCapletonに会わせてくれたんだ。それはまだ14歳の時だ。昔からCapletonの曲が大好きだったから、彼らと一緒にダブ録りのスタジオへ行くようになっていったんだ。

●CapeltonがJah Cureの名付け親だって聞いてますが?

J:うん、まあそうとも言えるんだけど、そこにはCapleton以外にもDavid House Crew等もいたからね。それ以前の名前はLittle Melodyって名乗っていたんだ。Courtney MelodyとSinging Melodyが好きでこの2人にとても心酔していた。そこからAll CureとかYoung Cureとか色々アイデアが出たんだけどJah Cureが一番良いってことになって、CapletonもJah Cureを推してくれて名乗り始めた。でもその時はJah Thunder、 Jah Lightning、Jah Masonと色んなJahがいたんだよ(笑) 。

その頃にBuju Banton、Wayne Wonder、Grindsman、Shabba Ranks、Ninjamanなどの有名なアーティストに会ったんだ。当時のArrows Recording Studioは皆がつるんでいる場所だったからね。当時のダブ録りは今とは違って1テイクのみで絶対に失敗は許されなかったんだよ。(Arrows Recording StudioはSP盤と同素材のアセテート盤を一発録りダイレクト・カッティングするマシンだった)そういえば、ある日、沢山ダブ録りをしていたBujuにお金をねだったらJ$200(約¥200)をくれて、俺はめちゃめちゃハッピーになった時もあったな。すぐにスタジオから駆け出して食べ物を買いに行ったよ。それでなんとか、1週間食いつなげたんだ。97年ぐらいまではそこでダブ録りを始めて、色々と学んでいた頃にSizzlaが売れ始めてCapletonがラスタ・アーティストとしてとてもホットになり、Sizzlaはタバーンの近くのオーガスタス・タウンから頭角を現したから全てほぼ同じエリアでそれは起っていたんだ。Sizzlaととても仲が良くなり、Sizzlaに料理を作っていたこともある。俺は料理を作るのが好きでCapletonにも作っていたんだけどね。

ある日Sizzlaと一緒に「Divide & Rule(Cureの曲「King In This Jungle」)という曲をレコーディングしていたらBeres Hammondが声をかけてきたんだ。「このフレーズを歌っているのはこのYouth(小僧)か、キッズのくせにCommanding Voice(堂々と威厳のある声)を持っているな、とても良い声だ」と言ってきた。俺たちはその曲「Divide & Rule」をその夜に録り終えたよ。

そんなことがあった後、BeresがSizzlaに「名前を忘れたが、あの若いシンガーはどうした?連絡する様に言ってくれ」と伝言してたんだ。だけど俺は「Beresに会いに行け」とだけ言われただけだったから、あまり重要には思っていなくて放っておいたんだ。するとBeresからダイレクト・メッセージがきて、すぐにBeresのところへ行くとBeresは俺を見るなり「どこへ行ってたんだ!?」と怒鳴りつけた。俺をとても気に入ってくれていて「これから自分の息子をベッドの上で叱りつけるように教育していくぞ」と言われた。それからイギリスやオランダへのツアーに連れて行ってもらったんだ。その時はAnthony Bが行くプランもあったんだけど、Beresは俺をツアーに連れて行ってくれたんだ。だからBeresがボーカルやオーディエンスの前でのパフォーマンスの仕方を教えてくれたことは間違いない事実だ。Beresのショウにはいつでもたくさんのオーディエンスで溢れていたからね。あの大勢の前での経験は、今とても活かされているんだよ。

●そうすると最初のヒットチューンは「Divide & Rule」ですね?

J:そうだよ、97年にBeresがHarmony House(Beresのスタジオ)でプロデュースしてくれたSizzlaとの「Divide & Rule」が俺の最初のヒットチューンで、そこから俺のキャリアが始まった。当時はSizzlaが一番キテいるアーティストだったから、彼とのコンビネーションも幸いしたんだ。

●あなたは投獄されましたが、、(と一応、水を向けてみたが、、)。

J:うん、ちょっとトラブルにあった。

●でも服役中にもアルバムが出ていましたよね?

J:うん、それは俺にとっては歴史的瞬間とでも言うのかな。

●服役中もBeresが何曲もあなたの曲をリリースしていたと思うのですがそれは具体的にどういうことでしょうか?

J:Beresが弁護士を使って、刑期を減らす様に働きかけてくれた。本当であれば去年か一昨年ぐらいまで服役していなければならなかった。そのおかげで俺は2007年に出所出来たんだ。Beresは2003年にアルバム「Ghetto Life」をリリースしたよ。

●聞きたかったのは刑務所の中でどうやってレコーディングしたんですか?

J:服役中に3枚のアルバムが出たけど、実は殆どの曲は捕まる前にレコーディングしていた物だよ。1999年(2000年か?)に「Free Jah’s Cure」が出たよ。捕まって1ヵ月後に出て、2003年になるとBeresが「Ghetto Life」を出した。最初のSpanish Townの刑務所では、彼らは俺が音楽で生活しているのを知っていたから、牢屋の中に機材を持ち込んで音楽を作れたんだ。2枚のスポンジ布団で寝ていたんだけど音楽を録る時はそれを使って少しでもキレイな音を拾える様に工夫した。寝る時間を割いて5曲録るなんて時もあった。尚かつダブ録りもしたよ。

●Spanish Townの刑務所で録られたヒット曲「Longing For」はどのようにして作られたのでしょうか?

J:実は俺は2004年に仮出所の予定だった。だけどこの年に仮出所出来なかった。だから真剣に牢屋で音楽を作りを始めよう、自由になるまで待ってなんかいられないと決心したんだ。牢屋の中から自分で自分の道を切り開こうと。それが最初のアイデアだ。だから仮出所が取り消されて牢屋にいることが決まった時に「この牢屋の中から1曲でいいからナンバー1ヒットを誕生させてください、歴史を作らせて下さい」と神に祈ったよ。そしてDon Corleonが送ってきたリディム(トラック)にボーカルを乗せて送り返したんだ。

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